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月と炎の伝説  作者: 蒼井七海
第四幕 月光は大地を清め照らし出す
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第二章 大地の火 8

 岩陰から少し歩くと、より靄が濃い場所へ出た。周囲が夜とまごうほど暗いのに、それでも差がわかるほど濃い闇が、一か所に凝っている。

 それを見つけた瞬間、イゼットは後ずさりした。ほとんど反射だった。どす黒い気配が、精霊の警告さえかき消して覆いかぶさってくる。その濁りようたるや、嵐の後の河川の方がまだかわいいと思えるくらいだ。

「なんとまあ、わかりやすい」

 青ざめるイゼットの横で、シャハーブは顎に手を当てうなずいている。純粋に感心しているようだった。

 むろん、そんな余裕を見せているのは彼だけである。

「すっごくドロドロしてますね……ボクでも、これが悪いものなのはわかりますよ……」

「まったく同感だ」

 五感が鋭いルーはもとより、カヤハンですら汚物に触れたときのように顔をしかめていた。

 イゼットもよどみに気おされていたので、すぐには動けなかった。しばらくその場で感覚を閉じてやり過ごしていると、体が慣れてくる。まわりがまともに見れるようになって、やっと彼はシャハーブを仰ぎ見た。

「それで……これを浄化するということで、いいんですよね?」

「そういうことになるな」

「えっと、一体どうやって?」

 率直に問う。シャハーブは形のよい顎をなでた後、透明な石を取り出して弄んだ。それは、フーリと彼が連絡を取り合うときに使う石だ。彼は、しばらく石を見つめたのち、イゼットに目を向ける。

「『叡智の館』でやった、呪物を操る訓練を覚えているか?」

「はい」

 イゼットが首をかしげつつ肯定すると、シャハーブは石を掲げて笑んだ。

「とりあえず、アレの前に立って、同じことをやってみろ。その後は天上人(アセマーニー)殿が助けてくれる」


 本当にうまくいくのだろうか――という疑心を抱きつつも、イゼットはシャハーブの言葉に従うことにした。というより、それしか道がないのだ。

 どす黒い靄の前に立つ。これがシャハーブの言う「大元」かどうかはわからない。ただ、この場所の力が他より強く、濃いことは確実だ。彼がここでイゼットにあのようなことを言ったということは、浄化が行える地点のひとつではあるのだろう。

 ならば、イゼットのやることは決まっている。

 思考を打ち切り、五感を研ぎ澄ませ、世界の流れに身をゆだねた。風の音、靄の気配、砂の舞、広がる薄闇。そして、己の鼓動と、その内側で脈打つもの。一つひとつを拾い上げていくうち、自然と目を閉じていた。意識はゆっくりと、己の内側へ沈む。

 深く、底へ。ともすれば流されそうになる「体」を操りながら、潜っていく。

 やがて『月』の輪郭が見えてきた。

 いつものようにそれをなぞる。円と、そこから流れる力の川を。

 しゃらしゃら、しゃらしゃら、『月』が歌う。音に誘われるまま、力を辿る。

 辿って、手繰って、その先で――

『つかんで』

 彼は、声を聞いた。


「フーリ、さん?」

 この場にはいないはずの、人の声。その持ち主の名を、イゼットは思わず呼んだ。その声が形になることはない。ここに、肉体がないからだ。

 あるのは、闇と、光と、『月』の影。白い子どもの姿は見えない。けれど、声は淡々と響きつづけた。

『つかんで、引き寄せて。君が触れたそれは、浄化の月の力だ』

『天の呪物』の名を出され、イゼットは我に返る。光に手を伸ばして、もう一度それを引き寄せた。まぶしい、優しい光が目の前を支配して、形容しがたいぬくもりが「体」じゅうを駆け巡る。

『それを、そのまま引き揚げる』

 フーリの声が、淡々と言った。

『こちらだよ』

 やはり、姿はない。それでも、不思議と彼が手招きしている気配は感じ取れた。イゼットは注意深く流れをさかのぼる。標となるのは、平板な子どもの声ひとつ。

 次第に、視界が白で覆われていく。そのただ中で、時折金銀の光が瞬いた。

『そのまま、昇って』

 言葉の意味を理解せぬまま、声に従って進む。――凄まじい熱と重みを感じたのは、その直後のことだった。


 押しつぶされそうな重みは、実体のある世界へ戻ってきたがゆえのものだ。イゼットがそれに気づくのに、さして時間はかからなかった。だが、理解と慣れは別物だ。正体不明の熱波に襲われたイゼットは、大きく後ろによろめいた。転びかけた体を、しかし誰かの手が支える。その感触は、ひどく懐かしかった。

「大丈夫ですか! 踏ん張ってください!」

「ルー!?」

 名を呼ぶ。声が出た、と認識した瞬間、一気に視界が開けた。眼前に現れた光景に、イゼットは度肝を抜く。

「な、なんだ、これ!?」

 イゼットが呪物の力を手繰る前は、すぐ近くに真っ黒いよどみがあった。今はその場所が白金の光に覆われ、荒野全体を煌々と照らしている。空に視線を転じれば、渦を作っていた暗紫色の雲がところどころちぎれかけていた。

「ど、どうなって……」

「それは、ボクの方が知りたいですよ。これ、イゼットがやったんですよね」

 唖然としているイゼットに、むくれたような声が苦言を呈する。後ろから彼を支えてくれているルーが、しかめっ面を突き出した。イゼットは、頬を引きつらせる。

 恐らくこれは、『浄化の月』が起こした現象だろう。だが、あいにく自分がやったという自覚がまったくなかった。

「おい、イゼット!」

 戸惑う若者の背を、容赦のない叱声が叩く。イゼットが息をのんで振り返った先には、シャハーブがいた。

「止めるな! そのまま続けろ!」

 彼はイゼットの方に顔を向けたまま、自分の得物で飛んできた短剣を叩き落とした。大地の火(アータシェ・ザマーン)の人々が追ってきているらしい。激しいヒルカニア語が、靄のむこうから聞こえてくる。

「続けろったって……」

 悪態をつきつつも、イゼットは前を向きなおす。あまり猶予はなさそうだ。改めて両足で地面を踏みしめた彼は、全身を奇妙なぬくもりが満たしていることに気がついた。強い、けれど不快ではない痺れがある。

「ルー、もう大丈夫だよ。ありがとう」

「わかりました!」

 イゼットの背後から退いた彼女は、そのまま隣まで飛び跳ねてくる。額のあたりで手をかざし、光を見上げた彼女は、こてんと頭を傾けた。

「ここからどうするんですか、イゼット?」

「俺が聞きたい……」

 つ(・)か(・)ん(・)だ(・)力を手放さないように気を張りつつも、イゼットはかぶりを振る。白金の光はかなり強いが、一か所から動く気配はない。これでどう荒野全体を浄化すればよいのか、見当もつかなかった。

「これが『浄化の月』の力なら、とりあえず広げてみればいいんじゃないでしょうか」

「広げるって……」

「イゼットがこれを操ってるんですから、こう、広げるような動きをしてみるとか!」

 言うなり、ルーは両腕を思いっきり広げた。そんな単純なことでどうにかなるものか、とイゼットは思わず苦笑する。しかし、ふと、心に引っかかるものがあることに気づいて、こぼれ落ちた笑みを消した。

 背後では絶え間なく剣戟の音(ね)と怒号が飛び交っている。まじめな話、考え込んでいる時間はない。やれるだけのことはやってみるべきだろう。

 イゼットは改めて、ルーを振り返る。小さな体に大きな力を秘めた相棒は、まっすぐに彼を見据えていた。

 短いようで、長い旅。その中で、彼は何度も彼女の言葉に救われてきた。信じる理由は、それだけで十分だ。

 黒茶の瞳をのぞきこんで、うなずく。己の槍をルーに託したイゼットは、未だ動かない光のかたまりに向き合った。

 ゆっくりと、二度の深呼吸。凝る熱を確かめるように指を広げる。両方の五指にちりちりと痺れが走ると同時に、慎重に両腕を掲げた。

 白金の光に変化が起きたのは、そのときだ。それまで玉のように見えていた光の端が、ふいに揺れる。そして、徐々に荒野を侵食しはじめた。

「わ、わ……! 大きくなってきました!」

 ルーがすぐそばで歓声を上げる。だが、イゼットはそれをまともに聞いていなかった。光が広がるにつれて、全身が痛みを訴えはじめたからだ。おそらく、これまで悩まされてきた症状と同類のものだろう。手足が震え、嫌な汗がにじむ。それでも、歯を食いしばって耐えた。


 倒れるにはまだ早い。

 もっと、もっと広げなければいけないのだ。

『月』の力を、この大地全体に――


 意識の端で、精霊たちの歌を聞く。

 いつの間にか閉じていた瞼の裏が、真っ白に染まった。

 あちらこちらで悲鳴が上がる。一か所にとどまっていた光が弾けたのだと、イゼットは感覚でわかった。

 まなうらに闇が戻ってくるのを待って、イゼットは恐る恐る目を開ける。

 強烈な光はなくなっていた。代わりに、薄い紗幕のように広がって、荒野全体を覆っているようだった。時折舞い散る金銀の粒が、暗紫色の雲を打ち消していく。

 非現実的な光景は、何よりも確かな現実だ。

 イゼットはしばし呆然と立ち尽くしていたが、隣から名前を呼ばれて肩を震わせた。彼の槍を両腕で抱えている少女が、大きな両目を輝かせている。

「これ、上手くいったんですよね」

「うん、多分……」

「やりましたね!」

「ルーのおかげだよ」

 イゼットがそう笑いかけると、ルーはきょとんと首をかしげる。「ボクは何もしてないですよ?」と言う声は心底不思議そうで、自分の言葉がきっかけをつくったという自覚はなさそうだった。イゼットは苦笑して、黒い頭を軽くなでる。それから、槍を受け取った。

 なごやかな空気を振りまいていた二人だったが、激しく砂がこすれる音を聞いて、表情を引き締めた。ちょうど、剣を手にしたシャハーブが、二人に背を向ける格好で立っている。彼はこちらを振り返ると、いつもの優美な笑みをのぞかせた。

「でかした、イゼット。少しばかり見直したぞ」

「どうも、ありがとうございます」

 ひねくれた称賛を投げかけられた若者は、微笑とともに頭を下げる。それから、シャハーブのむこう側に厳しい視線を送った。

 けばけばしい黒衣をまとった者たちは、数刻前よりもその数を減らしているように見える。しかし、こちらに突き刺さる敵意はより強くなっていた。よどみの気配が薄れて自然の光が戻ってくるにつれ、場の空気は張り詰めていく。

 その空気を揺るがしたのは、剣の先を敵に向けた青年であった。

「さてさて、『地上の火(アータシェ・ザマーン)』を名乗る紳士淑女よ。貴殿らの目的達成はこうして阻まれたわけだが、どうする? まだ俺たちと戦うか?」

 彼らは、なにも答えない。無言の殺気だけが充満していた。

 異様な空気の中、けれどシャハーブはひるむことなく口を動かし続ける。

「俺は一向に構わないがね。『浄化の月』の宿主は無事に覚醒したようだし、そちらのまとめ役も死んだ。このままだと、そちらが不利になっていくだけのことだ。さあ、どうする」

 彼が再度、傲岸不遜に問いかけると、黒衣がわずかにざわついた。少しの間、彼らの内で話し合いが行われたようだった。その内容はわからなかったが、ヒルカニア語らしき音がイゼットの耳に届いた。

 どれくらい経ったときだろう。黒衣の者たちが、ふいに動き出した。先頭に立つ者の手もとが、チカリと光る。一瞬後、シャハーブの左手が動いた。その手には短剣が収まっている。黒衣たちはそれを一瞥すると、一斉に背を向けて駆け出した。去り行く影を黙って見送ったシャハーブは、短剣を放り投げ、自分の得物を収める。

「牽制のつもりかね」

「かもしれないね。追わなくていいの?」

「今追ったところで、何も得がないだろう」

 おどけて問うたカヤハンに、シャハーブが気だるげな声を返す。不思議な精霊研究者は、今回も胸中の読めない笑顔で帽子を下げた。

「目的も達成したことだ。一度ヤームルダマージュに帰るのがいいだろう」

「そうですね。イゼットも怪我してますしね」

 シャハーブの提案に、ルーが前のめりで同意する。イゼットもひとつうなずいて、槍に鞘をかぶせた。

 黒ずんだ空気は、すっかり消え失せている。あたりを見回せば、大地は荒れ果てているものの、紫の雲はなくなっていた。ずいぶん遠くの山の影まで見通せる。『浄化の月』がもたらしたものを前にして、イゼットは息をのんだ。これほど急激に世界の有様を変える力が、自分の中にあるという。それはとても奇妙で、恐ろしいことなのではないか。

 考え込まずにはいられない。だが、足を止めている暇はない。おそらく、強大な力と引き換えに課せられたものがあるのだ。だとすれば、今はそれをこなしていくしかないだろう。

 ゆっくりと息を吐きだしたイゼットは、顔を上げる。灰色の雲の隙間から、薄い光が差しこんでいた。

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