<番外編> シーア妃という人物。それはオーシアン史最大の謎。
進水式よりしばらく経った頃の、シーアとレオンが結婚する直前の話になります。
レオンが珍しく外で活動してるよ!
婚礼衣装の仮縫いの最中、呼びよせた国内随一の仕立て屋の一行の中に女装した男が混じっているのに気付いた。
暗殺者か、間者か。
しばらく観察していたら、気付かれた。
弾かれたように立ちあがり、窓を破って外に飛び出した相手。
ガラスの割れる音に室外に待機していた衛兵が入室するのと、シーアが続いて窓から身を躍らせたのは同時だった。
そのまま一瞬たりとも止まること無く走りにくいドレスで全力疾走しする。
王城を囲む城壁、その外側を海水を引き入れた堀が一周している海の国王城。
城壁には国旗を掲揚するための竿が等間隔に水面と並行に設えてあり、男の腕の太さほどのその木製の竿の先端には細面の男がこちらを向いて立っている。
その腕には、号泣する赤ん坊。
ああ━━最悪だ。
たどり着いた先でその光景を目にしたシーアは、心の中でそう吐き捨てて美しく化粧した顔を歪めたのだった。
シーアや護衛隊の隊員らが一瞬見失った間に、子供を人質に竿の先端に追い詰められていた賊。真っ直ぐにこちらを向いているその顔から表情は読み取れず、だからこそシーアは内心焦燥を感じて歯噛みした。
「こっちの手落ちだ。追い詰め過ぎた」
掲揚竿に近付く事も出来ず膠着状態にあるグレイは、緊迫した面持ちで賊を睨んだままシーアに告げた。
城壁側には護衛隊と、一人の隊員になだめられている錯乱状態に陥った女。
彼女が母親だというのは誰の目にも明らかだった。
堀の向こうには子供の泣き声に人が集まり、この状況。
まずいな。
シーアはその様子に眉をひそめる。
「わたしが行く。全員もっと下がらせろ」
突如そう断言し竿に近付くシーアの行動を、グレイは「駄目だ」と即座に制した。
相手の狙いが国王の婚約者であり、暗殺者である可能性があるこの状態で、それは認められない。
しかし彼女はそんな彼には目もくれず、制止を振り切ろうともがき髪を乱した母親へと目をやる。
「ちゃんと、無事連れ戻すから」
そう優しい微笑を浮かべて告げるは「月光のようにたおやかだ」と言われる純白のドレス姿の婚約者。
母親は涙に濡れる瞳を見張り、言葉を失って呆然とシーアを見詰めた後、縋るようなまなざしで震えるように頷いた。
そんな彼女に大きく頷き、こんな格好では姿ではよじ登る事が出来ないと判断したシーアは胸壁に腰を掛けるようにして矢狭間に上がった。
突如胸壁の上に現れたドレス姿の「海の国の黒真珠」に人々は大きくざわつき、そんな彼らに彼女は柔らかい仕草で右手を掲げて注目を促すと左手の人差し指を口の前に立て、鎮静化させる。
どこでお仕着せのスカートを脱いだのかずいぶんと身軽な服装になっているその男は、決して太くはない竿の上。それも建物三階分に相当しそうな高さで、均衡を保つ努力をする様子もなく微動だにせず立っていた。
船乗りの経験があるのかと、シーアは思った。
「取引しよう。子供を無事返してくれるならこの回りの水門三つ、開けておいてやる」
シーアは穏やかな口調で静かに告げた。
男は水面と、背後の堀の向こうの大衆の人垣をちらりと一瞥する。
「護衛隊長、弓を下ろさせろ」
背後のグレイに告げる。
「わたしがそっちまで行く。子供を無事に返してくれるなら弓も使わない。お前はそこから飛び降りれば逃げおおせるだろう? 水路の先に警備も敷かない」
泣き叫ぶ子供の声に周囲に否応なく焦りの空気が募る中、シーアは努めて冷静に言葉を重ねた。
「聞こえたな? 護衛隊長。指示を頼む」
一方的な指示にグレイは舌打ちした。
眉間に皺を寄せて一瞬逡巡し、判断能力の高いと評される彼はすぐにそれに応じた対応を開始する。
同時にこの騒動が扇動だった場合を想定し、他の賊の侵入の可能性に備えた布陣の敷き直しをそっと部下達に指示した。
相手の様子を見ながら、シーアは国旗竿に降りる。
本来人が乗るような設計ではないが、男の様子からすると二人分の体重には耐える事が出来そうだ。
降りた位置で竿がしなるのが落ち着くのを待った。
半年くらいかな。
手足を精一杯暴れさせ、泣いて全力で抵抗する子供を見て思う。
はやる気持ちと緊張を抑えつけ、落ち着いた様子を装いながらシーアは両腕を軽く上げて丸腰である事を示した。
「少しそちらへ移動するぞ」
仮縫いのドレスにはレースなどの装飾がまだ施されておらず、それは今のシーアそのままに潔い。
そして、幸いな事に非常に軽い状態であった。
動き始めたシーアに緊張した男は再度水面に目をやり、子供を抱える腕に力を込めたのをシーアが目にした瞬間、シーアの体は弾かれたように反応する。
くっそ!
シーアが走りだすのと、男がシーアに向けて子供を放り投げたのは同時であった。
人々の大きなどよめきと背後で母親の絶叫が響く中シーアは手を伸ばし、男は堀に飛び込んだ。
国旗竿の上ではなくわずかにずれた方向へ投じられた子供を抱え込むように左腕でしっかりと抱き、シーアは冷静に右手を国旗を昇降させるロープに伸ばす。
右腕一本に全体重がかかった瞬間、肩と腕に強い衝撃を覚えると同時にシーアは吠えた。
「あっのクソヤロウ!! グレイ! 何ぼさっとしてやがる! さっさと射ろ! 全門封鎖!!」
━━それはない。
それはないぞ、海賊。
城壁に背を向けるようにして宙づりになったシーア。その無事に安堵の吐息を吐いた直後、グレイは彼女の口汚い咆哮に激しい脱力感を覚えた。
お前、言ってたことが全然違うじゃねぇか。
「さっさと水門を閉じろ! あいつ投げやがった! 契約違反だ!」
多くの国を巡る中で身につけた独特の化粧技術で絶世の佳人になりすまし、純白のドレスに身を包んだその姿で国王の婚約者とは到底思えない言葉を怒涛の勢いで吠え罵るなど、悪夢のような光景で、正気の沙汰とは思えない所業であった。
ひとしきり自分が正しいと大音量で主張した後、シーアは腕の中の子供を見下ろす。
「よーし、よし。すぐ母さんのとこ返してやるからな」
そう言って、破顔した。
それは「海の国の黒真珠」と呼ばれるような楚々としたものではなく、無邪気とさえ言えるような屈託のない会心の笑顔だった。
赤子が人質に取られた時からすでに隊員により堀を見回るための小さな船が準備されていた。
それらはシーアが子供を確保するや彼女の間下へと向かい、堀の向こうでは泳ぎに自信のある男達が飛び込もうとしている。
婚約者の罵詈雑言に一瞬戸惑った彼らも、もとはと言えば婚約者が「あの海姫」である事を思い出し、この火急の事態も手伝ってごく自然とそれを受け入れた。
この辺りは気候が温和なせいもあり基本おおらかで、ざっくばらんな漁師気質の者が多い。まったくもって気のいい連中だと思う。
しかしこの堀は潮の満ち引きで循環されるとはいえ生活排水も流れ込む堀であり、正直に言ってしまえばあまり衛生的ではない。
「グレイ! ロープを継いで延長するか、船乗りか船大工こっちに寄越してくれ!」
暴れる子供を片腕に、片腕でロープにつかまるなどと少しも「もつ」気はしない。
幸いにもここは海の国と呼ばれる国である。
ヤードにもロープの扱いにも慣れた人材は多く、彼女の言葉に何人かが動きかける中恐ろしいまでによく通る声が響いた。
「俺が行こう」
上着を脱いでそばにいた護衛隊員に託し、錆色の髪を持ち精悍さを滲ませながらも気品のある優美な顔立ちの国王は何の躊躇もなく胸壁に登った。
シーアは背後で響いたその声に軽く瞠目し、同時に外堀の向こうで民が驚きの声を上げるのを目にした。
そういや今日は海軍視察とか言ってたっけ。
シーアは思わず「海姫」たる貌で笑む。
もうお役ご免かな。
この状況ながらそう判断すると唇をぱくぱくと大きく開閉させたり、舌を口蓋に当てて破裂音を発して赤ん坊の興味を引こうと試みた。
やがて多少落ち着いた所で、故郷である島の子守唄を口ずさみながら体を前後に揺らし始める。
その様子に母親は小さな悲鳴を上げ、グレイは「やめてやれ。お袋さん気が気じゃないだろうが」と苦く思う。
本当は背を優しく叩きながら揺れる方が効果があるのだが、いかんせん片腕一本しか使えない。代わりに背を叩くのと同じリズムで子供の額に自分の頬を押しつけた。
あの男が渡ると言うのだ。
ヤードまがいの竿の上を渡るなど何年振りになるのか怪しい部分はあるが、普段の動きを見ている限り信用できるだろう。
そう思って、シーアは何の不安もなく穏やかな気持ちで子供をあやすのに徹した。
長時間に渡り火がついたように泣いて暴れ続けた子供は、緩んだ空気に抗いきれなかったのだろう。やがてシーアは肩に子供の小さな頭が乗るのを感じた。
眠ったら眠ったで、子供って重たいんだよなぁ。そう苦笑しながらも眠れるのであれば、どこか痛めている事もないだろうと安堵に表情を緩める。
国王は慣れた様子で国旗竿の上を伝ってくると、シーアの上を通り越した所で踵を返す。
方向を変えてから左手を竿につきながら腰を降ろし、ほどよい大きさの籠の入った布袋をシーアの目前に下ろした。
用意のいい事で。
その用途にシーアは片方の口角だけをゆがめて笑みを浮かべた。
「寝たとこだから。おろしたらまた暴れるかも。すぐ引き上げて抱っこしろよ。すぐだぞ、すぐ」
「ああ、分かってる」
せーの、のシーアの合図で二人は一瞬で受け渡しを完了した。二人のその一連の動きは実にあっけないほどだった。
「ちょっと待ってろ」
そう言って立ち上がろうとするレオンに、シーアは紅の刷かれた唇を開く。
「西の水門だ。特に三番と八番の用水路と出口を固めさせろ」
誰にも聞こえないように告げられたそれに、レオンはドレファン一家がするように瞳で応えたのだった。
人々の大きな歓声の中、子供を抱いた男が危なげない足取りで胸壁にたどり着いたのを確認してから休めていた左手を使って両手でぶら下がる。
竿を揺らさないよう彼が城壁に戻るのを待ってから自力で戻る気だったが、疲弊しきった両腕で国旗竿の上に登るのも面倒でおとなしく待つことにした。
そもそもドレス姿で足を竿にかける事が難しい。出来ない話ではないが、シーアが躊躇うほどに見映えがあまりにも悪すぎる。
ロープに両腕でぶら下がる花嫁姿の婚約者に、大衆は声援を送った。
なんか、ものすごく間抜けだな。
シーアはぼんやりそんな事を考えながらレオンの補助を待ったのだった。
レオンはグレイにシーアの指示を伝えながら自ら赤子を母親に送り届け、すぐにシーアの回収に向かう。
先ほどと同様にあっさりとシーアを引き上げ、先に矢狭間に上がったレオンは不要な行為だと理解しているにもかかわらずあえてシーアに片手を差し伸べた。
シーアもまた彼の魂胆を理解してその手に己の手を乗せる。
二人は矢狭間で大衆に向き直ると、無事と成功を示すためレオンは軽く手を上げて柔らかい表情を浮かべた。
仲睦まじく寄り添う二人のその姿に、堀の向こう側で歓喜に沸いた大衆の中から先ほどの罵詈雑言を吐いた婚約者の姿は形をひそめたのだった。
「医者に見せに行かせた。隊員を付き添わせてある」
二人が胸壁を降りると同時にグレイはそう報告した。
「ああ。費用は全額国が負担する。後々何か出るかもしれないから、申し出るよう後で通達を出そう」
「医者の方にもちゃんと言っとけとよ」
グレイの言葉にレオンは頷いて対応を決め、シーアはそこに明るく付け足した後、表情を一変させた。
「西の警備は? 仲間が潜んでる可能性もある。気をつけさせろ」
シーアが条件にした開放を約束した水門は南側であるが、あの賊は裏をかいて距離のある西門へ向かう可能性があった。
海に最も近いのは南門だが、西門は水路が狭く流れが強い。その分、容易に海へと出られるとも考えられるのだ。
「指示済みだ。生け捕りは期待するなよ?」
「まあ仕方ないだろうな」
シーアは頷いて続けた。
「悪かったな。わたしがはじめに取り逃がしたからこんな事になって」
グレイは舌打ちする。
一人で取り押さえようという彼女に呆れた。
「うちの奴らが追い詰め過ぎたんだ。お前こそ、それひどいのか?」
固く握られたシーアの右拳は、隣に立ったレオンの左手に包み込まれたままである。
その手はロープを握ろうとした際、国旗竿をひっかいた中指と薬指の爪がはがれかけ、長時間に渡り硬く握りしめたため人差し指の爪が掌を傷つけていた。
引き上げるため手を貸した際それに気付いたレオンは眉をひそめたが、彼が口を開く前にシーアは一睨みでそれを黙らせた。
彼女の性格を理解し、大衆が何を見る事によってどうそれを捕えるかを予測する能力に長けたレオンは、その負傷を周囲に気取られぬよう傷付いたその手を自分の手で包んで隠した。
二人仲睦まじく手をつなぐ様子に「こんな時にまで仲のいい風を装っているのか」と呆れたグレイだったが、この二人の性格と関係を把握している彼もまた違和感を覚えた後、すぐにその事実に行き着く。
そんなグレイに大丈夫だとでも言うかの肩をすくめて薄く笑み、シーアは自分の姿を見下ろした。
純白のドレスの裾は割れた窓を乗り越えた際に割れたガラスに引っ掛け、外を走り回ったあと胸壁によじ登ったせいで薄汚れている。
「さすがに作り直しかねぇ」
シーアはそう、しみじみと嘆息したのだった。
シーアの読み通りの場所で侵入者の捕獲に成功し、「あいつは水路まで把握してるのか。落城させられそうじゃねぇか」などと眉間に皺を寄せながら担当部署に引継いだ。
侵入者の目的は何の事はない、婚約者の荒探しという実にお粗末な物で、娘を持つ国内の有力者に雇われたとの事だった。査問を専門とする人間は当然それを鵜呑みにする事はなく、延々尋問したという。
「お前、子守とか出来るんだな」
数日後、顔を合わせるなりグレイは心底意外そうに言った。
シーアの育った島では島民全員で子供を育てるのが当たり前だった。
「子供とか触った事ないのかと思った」
「子は宝だぞ」
グレイの失礼な思い込みにシーアは「何を言っているんだ」とさも心外だと言うように鼻で笑って返した。
子は宝、ねぇ。
グレイは反芻する。
半商半賊の言葉としては意外すぎる言葉だったが、これから王妃になろうという人間の口からそれが出た事に国民として感慨深いものを感じてしまう。
その発言はシーアが人の流入のほとんどない島で育った事に由来する。そこでの人手は実に貴重で、大切な財産であり、島民同士の諍いは厳しく戒められていた。
そこで育てられた感性は奇しくも統治者として求められる資質に共通する物があった。
王城に勤めていた夫婦が、子供とともに職場を訪れていた際に起きた今回の騒動。
「女の子だって? 職場に子供連れて来るなんて微笑ましいじゃないかと思うんだけどねぇ」
「普通ならな」
「ホントなら国で一番安全なハズの場所であんな目に遭うなんてツイテないよな」
シーアは裾が汚れ、一部刷り切れたドレスを服飾店の娘のユキに見せて相談し、祭りで子供が使うヘッドドレスに作り直した。
最上級の生地を使ったそれはギャザーを寄せるだけで美しい物に仕上がり、一つはあの子供に、残りは孤児の施設に寄付した。
あの日、純白のドレスで子供を抱き、穏やかな表情であやしていた婚約者。
この時彼女が発した「子は宝」という言葉は国民に知れ渡り、また一つ「海姫」に誤った認識が植え付けられたのだった。
※
オーシアン史で最も重要な国王となる男の妻は、美しく聖母のような女性だったと語り継がれたが、これがはるか後世、オーシアン史の研究者達を翻弄する事につながる。
主に海賊関係者の記録に残る「海姫」に関してはその容姿に触れらる事はほとんどなく、中にはその所業に起因するのか「海の黒い魔女」と記された物さえあった。
対して海の国史に残されているのは慈愛に満ち、「海の国の黒真珠」の二つ名で呼ばれた美貌の王妃。それらにあまりに統一性がないと主張した研究者達により「二人は別人であった」という説が唱えられた結果、それを解き明かさんとする者がいつの時代も現れた。
その後、辺境の民族国家の古い記録から養父ウォルター・ドレファンの筆跡と一致する「セシリア・ドレファン」の出生届が出現し世紀の発見とされたが、それが「海の国の黒真珠」たるもう一人の人物の証明とする材料には不十分であり二人の人間がいたという証拠にはならなかった。
シーア妃という存在はオーシアン史最大の謎として、後々まで研究者をはじめ多くの人々を魅了する事となる。
2年連続でネット小説大賞の一次選考を通していただいた記念に連載中からずっと頭にあった短編を形にしてみました。




