「せんせい、だいすき」
セナと向き合っている時は心臓がバクバクして呼吸が苦しかったが、先生に運ばれているあいだに息ができるようになってきた。
「せん、せい。もう、大丈夫、です。ごめんなさい、めいわくを」
「いいから。ちょっと休んでいきなさい。ベアトリス、ベッド空いているか?」
「何かあったの? 今、誰もいないから大丈夫よ。アンナさん、横になりなさい」
マチアス先生が保健室のベッドに横たえてくれる。でももう呼吸は落ち着いて気分も悪くない。もう大丈夫だと言うが、ベアトリス先生が引き留めてくる。
その間にマチアス先生が先ほどの出来事を話してしまった。
セナの名が出た時点で、ベアトリス先生の眉間に深いしわが刻まれる。
「アンナさんには言ってなかったんだけどね。あのセナ君って子、事故のあとアンナさんのことをしつこく訊きに来たのよ。もちろん、事故の被害者のことは教えられないって断ったんだけど、それからもずっとあなたの所在をいろんな人に聞いていたらしいわ」
マチアス先生が頷くのが見えた。ふたりの間では共有された情報だったようだ。
「セナが私を探していたんですか?」
「そうね。でも教師や関係者には箝口令が敷かれていたから、探すのは容易じゃなかったはずよ」
事故のあと、重傷者である私を意図的に放置した件について生徒たちにも聞き取り調査が行われたから、セナも一連の出来事は知っていただろう。だから私が学校に来ない理由も察しがつくはずだ。
「まだ私のことを、使うつもりなんでしょうか……」
「あの子の考えは分からないけど、少なくとも表面上では心からあなたを心配している風に見えたわよ。あれが演技なら空恐ろしいわ」
何かセナたちに都合の悪い状況が起きているのだろうか。
私が学校に来ないから、セナは以前のように都合よく使えない。
探して捕まえて、また脅して言うことをきかせる……。今度は何に私を使うつもりなのか。考えるだけで背筋がぞっとした。
「使える駒……を取り戻したいというよりも、もっと執念みたいなものを感じたな。アンナさんに拒否されて諦めてくれればいいけど、そうじゃない可能性も考えて警戒していこう」
「執念、ですか」
使えないと分かったら諦めてくれるんじゃないか、と思った私の考えをマチアス先生が打ち砕く。
執念とはなんだろうか。自分の手駒が逃げだしそうだから腹を立てているのか。それともまた別の理由があるのか。いや、それよりも……。
「飼い犬が逃げ出したから、怒っているんですよ。多分」
自嘲気味に言うと、先生たちがぐっと唇を引き締めた。
「でも今回の事故でアンナさんの境遇が教師たちにも知れ渡ったし、生徒たちも以前のように嫌がらせなんてできないはずよ。だからセナ君だってもう手出しできなくなるんじゃないかしら」
「それはそうなんだが……『彼ら』はちょっと普通じゃない。常識の枠で考えないほうがいい」
普通じゃない、という言葉でベアトリス先生が牽制するように目くばせをする。
何か私の知らない事情があるようだ。窺うように先生を見つめたが、逸らされてしまった。
「でも……生徒相談室が創設されたでしょ。いくら彼らでも、この状況で何かできるとは思えないわ」
「生徒相談室?」
これまでは保健室でベアトリス先生が保険医の片手間にやっていた生徒相談室が、外部の人間を新たに招いて創られたと先生は教えてくれた。
「警備員も雇われてね、授業中も各クラスを巡回することになったのよ」
嫌がらせが黙認されていた頃とは違い、何か問題を起こせば調査されて処分が下される。そんなリスクを負ってまで嫌がらせをする者はいない。
セナはこれまでやっていたように、周囲を扇動して私を陥れるなんて手は使えなくなる。
「じゃあ……セナも私を利用するメリットよりも、処分を食らうデメリットが大きいって気づけば、近づいてこなくなりますかね?」
そうよー、とベアトリス先生が明るく応じた時、マチアス先生が異論を唱えた。
「僕の感想になるけど、彼のアンナさんに対する気持ちは歪んだ愛情みたいに感じたな。恋情が絡むと人はとたんに不条理になる。デメリットが大きくても抑止力にはならないかもしれない」
「恋情って……セナ君はアンナさんが好きってこと?」
「分からない。でもあれだけ執着するのは、どうしても手放せない理由があるはずだよ」
その言葉にベアトリス先生が息を呑む気配がした。
私から見たセナは、先々まで物事を見通して最良の結果を選び取る理性的な人間という印象だった。一時の感情に振り回されて選択を誤るような真似はしない。そう思っていたが……。
「……確かにそうね。この状況でもアンナさんを探し当てたんだから、執念を感じるわね」
「宿舎への行き帰りもなるべくひとりにならないほうがいい。とりあえず今日は僕が送るから」
「え、でもこれ以上ご迷惑はかけられないですし」
「悪いけど、マチアスお願いできる? 私はこのあと相談室で予定があるの」
「分かった。じゃあさっきの件はまたあとで話し合おう」
ただでさえ、マチアス先生の仕事の邪魔をしているのにこれ以上迷惑をかけたくない。だが先生は有無を言わさず私を支えて歩き始めた。
「ごめんなさい。こんなに迷惑をかけるつもりじゃなかったんですけど……」
「いやいや、宿舎はすぐそこなんだから気にしなくていいよ。たいした手間じゃないし気にしないで」
「いえ、でも、本当はマチアス先生が請け負う問題じゃないのに、こうして一番面倒をかけているから、申し訳なくって」
廊下を歩きながらボソボソと謝罪を口にする。
先生は、うーんと首をかしげながら困ったように笑う。
「アンナさんはずっとひとりで頑張ってきたから、誰かに頼るのが苦手になっちゃったんだろうね。でもね、僕が君を助けるのは僕自身のためでもあるんだ」
「先生自身の?」
「うん、そう。理不尽な目に遭っている君の現状を変えることができたら、昔の僕も救われる気がしてね。自己満足みたいなものだから、君が負い目に感じる必要はないよ」
「救われる……ですか」
先生も昔に何か理不尽な目に遭ったのだろうか。訊いてみたかったが、そこまで踏み込んではいけない気がした。
宿舎の前まで来ると、先生は扉を開けて私を中へ入るよう促す。
支えてくれていた手が離れると、それまで触れていた部分が急に寒く感じて寂しくなる。
「さすがにここまでセナ君は来ないだろうけど、戸締りはしっかりね」
「はい、ありがとうございました」
扉が閉まりそうになる瞬間、反射的に先生のローブを掴む。
「おっと……アンナさん? どうかした?」
「あ……ごめんなさい」
「いや全然構わないけど、何か心配事?」
扉を押さえながら、先生は訝し気に私を覗き込む。
とっさのことで、なんで引き留めてしまったのか自分でも分からず困惑する。
「私、先生と知り合えてよかった。先生がいてくれて、すごく救われています」
いろんな気持ちが溢れそうになって、ぎゅっと服を握る手に力がこもる。
思いつめたような声を出す私に、先生が驚いた顔をしていたが、すぐに笑顔になって私の頭を撫でてくれた。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
先生の大きな手。私を助けてくれた手。ずっと私を撫でていてほしい。
身勝手な自分と理性がせめぎ合って、指を引きはがすようにして先生の服から手を放した。
無理やり笑顔を作ってみせると、先生は何も気づかず「じゃあまた明日」と軽く挨拶をして去っていった。
その背中が見えなくなるまでずっと見送る。
これが依存なのか甘えなのか……それとも恋なのか分からないけれど、私の中でマチアス先生が誰よりも特別な存在になっていた。
「せんせい、だいすき……」
先生が好きだ。でも多分、これは恋愛感情より依存心のほうが強いんだろう。
寄りかかりたい。助けてもらいたい。そんな利己的な感情が混じるなら、好きとか安易に口にすべきじゃない。
だから……見ているだけでいい。そもそも私はそんな立場にない。
先生が去っていった方角から目を逸らし、未練がましい気持ちを振り払うように踵を返して部屋へと入る。
この時、私は先生しか見ていなくて、誰かが私と先生のやり取りを誰かに見られているなんて思ってもいなかった。
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