第四話
第四話「前へ進む勇気」
「……とうとう、来てしまったか」
福禄寿のその一言は、静かに落ちた。
重くはない。だが、確かに胸に残る響きだった。
その声音には、ほんの僅かな寂しさが滲んでいる。
それが何に対するものなのか――ショコラには分からない。
だが、軽く受け流していい言葉ではないことだけは、はっきりと感じ取れた。
福禄寿は、ゆっくりと目を細める。
まるで、遠い過去を見ているかのように。
「……思えばのう」
小さく息を吐く。
「お前さんは、生まれたときから元気いっぱいでな」
視線は、ショコラではなく、どこか別の時間へ向けられていた。
「よう泣く子じゃった。昼も夜も関係なくのう」
かすかに、口元が緩む。
「母親も父親も、よう困っとったわい」
その言葉には、確かに温かさがあった。
もう戻らない日々を、優しくなぞるような声だった。
一拍。
「……そして、その一年後じゃ」
福禄寿の視線が、静かにレイへ向く。
「レイが、お前さんの弟としてこの世に来た」
レイは、少しだけ肩をすくめる。
自分の話になるとは思っていなかったのか、どこか気まずそうに。
「じゃがのう」
福禄寿は続ける。
「レイは、お前さんとは真逆じゃった」
「……」
「泣かんのじゃ」
その言葉に、レイの眉がわずかに動く。
「赤子の頃から、ほとんど泣かん」
「普通は安心するところじゃが……」
ゆっくりと、首を横に振る。
「逆に、心配になるほどじゃった」
部屋に、静かな空気が流れる。
福禄寿の声は、ここで少しだけ沈んだ。
「……そして」
「ショコラが、二つか三つになった頃じゃ」
その先を言う前に、わずかな間があった。
言葉を選んでいるのか。
あるいは――思い出すこと自体が、簡単ではないのか。
「突然じゃった」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「お前さんたちの父親と母親は……姿を消した」
空気が、わずかに重くなる。
ショコラの拳が、無意識に握られる。
レイは、言葉を発さない。
ただ、じっと床を見つめていた。
福禄寿は続ける。
「理由は、最後まで分からん」
「じゃが――」
そこで、初めてショコラの方へ視線を向けた。
「父親だけはな」
一拍。
「姿を消す前に、わしの元へ来た」
その言葉が、静かに落ちる。
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
「そして、こう言ったんじゃ――」
それは――まだショコラとレイが、物心もついていない頃のこと。
家の中では、母親がレイを優しくあやしていた。
穏やかな声。静かな笑み。
その腕の中で、レイは小さく息を立てている。
一方で、父親はショコラを抱いていた。
腕の中で無邪気に笑うその顔を、何度も、何度も確かめるように見つめながら。
――その日の夕暮れ。
海の見える渚に、二人の影があった。
ショコラを抱えた父親と、福禄寿。
沈みゆく夕日が、海面を赤く染めている。
波の音だけが、静かに繰り返されていた。
父親は、しばらく何も言わなかった。
ただ、腕の中のショコラを見つめている。
その視線は優しく――そして、どこか苦しそうだった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……俺は」
一度、言葉を切る。
喉の奥で、何かを押し殺すように。
「……俺は、こいつの成長を――これ以上は、見てやれない」
その言葉は、静かだった。
だが、確かに震えていた。
「……お前、なにを言っておる」
福禄寿が、わずかに眉をひそめる。
父親は答えない。
ただ、ショコラの頬にそっと指を触れる。
その温もりを、焼き付けるかのように。
「……この子はな」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「特別な存在になる」
一拍。
「自分の子だからって、言ってるわけじゃない」
苦笑する。
だが、その笑みはどこか歪んでいた。
「分かるんだよ」
夕焼けに染まった海を見つめながら、続ける。
「こいつは――」
言葉が、ほんの一瞬だけ詰まる。
「世界を救う」
静かに、断言する。
「……それほどの存在になるはずだ」
風が吹く。
波の音が、少しだけ強くなる。
福禄寿は、何も言わない。
ただ、黙ってその言葉を受け止めていた。
父親は、再びショコラへと視線を落とす。
その顔を、まっすぐに見つめる。
「だからこそ」
声が、わずかに低くなる。
「こいつは……能力が開花した時」
「きっと、旅に出ると言い出す」
断言だった。
迷いのない言葉。
「その時は」
福禄寿の方を見ずに、言う。
「――止めないでやってくれ」
その一言に、全てが込められていた。
止めたい。
引き留めたい。
守りたい。
――それでも。
それをしてはいけないと、分かっている声だった。
沈黙が落ちる。
父親は、ゆっくりと息を吐いた。
そして――
腕の中のショコラを見る。
ショコラは、何も知らずに笑っていた。
ただ、嬉しそうに。無邪気に。
その笑顔を見た瞬間――
父親の表情が、崩れかける。
ほんの一瞬だけ。
それでもすぐに、笑った。
「……立派に育つんだぜ」
優しく、静かに。
「大切な仲間に出会って」
「自分の使命を、ちゃんと果たせ」
一拍。
その言葉の奥に、どうしようもない想いが滲む。
「……それが」
ほんのわずかに、声が震える。
「それが、俺たちの願いだ」
夕日が、沈む。
世界が、ゆっくりと暗くなっていく。
その日を境に――
父親と母親は、姿を消した。
福禄寿は、静かに二人を見つめた。
ショコラとレイ。
かつて、あの男が腕に抱いていた小さな命。
「……父さん……」
ショコラの声は、かすかに震えていた。
福禄寿は、ゆっくりと頷く。
「……きっと、分かっておったんじゃろうな」
遠くを見るように、呟く。
「お前さんの父親は」
一拍。
そして、改めてショコラへと向き直る。
その目は、今までとは違っていた。
導く者としての目。
「――それで、もう一度聞く」
静かに、しかしはっきりと。
「ショコラよ」
「お前さんは、これからどうしたいんじゃ?」
部屋の空気が、わずかに張り詰める。
レイが息を呑む。
ショコラは、一瞬だけ言葉を失った。
胸の奥に、父の言葉が残っている。
――止めないでやってくれ
――立派に育て
――使命を果たせ
「……」
短く息を吸う。
そして――
「……行く」
迷いはなかった。
「行くよ」
顔を上げる。
その目は、もう揺れていない。
「旅に出る」
言葉が、真っ直ぐに落ちる。
「ご先祖さんが言ってた」
「“悪”が何なのか――」
拳を、強く握る。
「この目で、確かめてくる」
その言葉に、部屋の空気が変わる。
福禄寿は、ふっと口元を緩めた。
どこか嬉しそうに。
どこか誇らしそうに。
「……そうか」
小さく頷く。
「ならば――行ってくるがいい」
その一言は、背中を押すものだった。
だが。
「――じゃが」
空気が、わずかに引き締まる。
福禄寿の目が細まる。
「目的地のない旅は、やがて破滅へと導く」
静かな断言。
「力を持つ者ほど、迷えば堕ちる」
ショコラの視線が、自然と向く。
「じゃから、お主たちは――」
一拍。
「“黎明”に入るんじゃ」
「……黎明?」
聞き慣れない言葉に、ショコラが眉をひそめる。
福禄寿は、ゆっくりと語り始めた。
「まず、この世界の話をしておこう」
指先で、空をなぞるように動かす。
「この世はのう」
「わしらが生きる“宇宙”があり――」
「そのさらに先に、“銀河”が存在する」
言葉は簡潔だが、重みがあった。
「銀河に住む者は、元からそこにおる者か」
「あるいは、“銀河管理者”に選ばれた者のみ」
ショコラとレイは、黙って聞いている。
「じゃがな」
福禄寿の声が、少しだけ低くなる。
「今の銀河は、乱れておる」
「治安は崩れ、もはや宇宙と大差ない」
その言葉に、わずかな緊張が走る。
「このままでは――」
一拍。
「かつての戦争が、再び起きる」
重い言葉だった。
福禄寿は続ける。
「それを防ぐために作られたのが」
「銀河管理局 銀河防衛課」
一拍置いて――
「通称、“黎明”じゃ」
その名が、静かに響く。
「夜が明けるように」
「混沌を終わらせ、秩序をもたらす者たち」
福禄寿の声は、どこか確信に満ちていた。
「そこに入れば」
ショコラを見据える。
「お前さんの進むべき道も、見えてくるじゃろう」
ショコラの瞳が、わずかに揺れる。
「……じゃあ」
一歩、踏み出すように。
「そこに入れれば――」
だが、その言葉を遮るように。
「甘くはない」
福禄寿が言い切った。
「誰もが入れる場所ではない」
空気が、張り詰める。
「銀河管理局の採用試験を、突破せねばならん」
「……試験」
ショコラが呟く。
福禄寿は頷く。
「まずは、一次試験」
ゆっくりと、言葉を置く。
「“十二市”をすべて巡ることじゃ」
レイが、少しだけ前に出る。
「……全部回るだけなら」
「簡単な気がするけど」
その言葉に――
福禄寿は、静かに笑った。
「そう、甘くはない」
その一言に、空気が変わる。
「各都市には、それぞれ“守り”がおる」
視線が、わずかに鋭くなる。
「――十二支獣じゃ」
その名が落ちた瞬間。
場の温度が、わずかに下がる。
「そやつらを倒さねば」
「通行券は、得られん」
静寂。
その言葉の重みが、ゆっくりと沈んでいく。
ショコラは、ゆっくりと拳を握りしめた。
――戦いになる。
その事実を、はっきりと理解しながら。
しばしの沈黙のあと――
ショコラは、空気を裂くように口を開いた。
「あのさ……」
少しだけ、気まずそうに。
「十二市って、なに?」
――その瞬間。
部屋の空気が、微妙に崩れた。
レイが、ゆっくりと顔を覆う。
「……にいちゃんさ」
呆れを隠そうともせずに。
「なんでそんなことも知らないの……」
福禄寿も、小さくため息をついた。
「やれやれ……先が思いやられるのう」
だがその声音には、どこか安心したような色も混じっていた。
張り詰めた空気を、あえて壊す。
それもまた――ショコラらしさだった。
福禄寿は、改めて口を開く。
「この宇宙の中には、“陽の国”と呼ばれる地がある」
「そこはな、十二の都市に分けられておる」
ゆっくりと、一つずつ紡ぐ。
「鼠市
牛市
虎市
兎市
龍市
蛇市
馬市
羊市
猿市
鳥市
犬市
亥市」
その名を聞くだけで、どこか異質な気配が漂う。
「この十二市を巡ることが、試験の第一関門じゃ」
一拍。
「ここから向かうとすれば――」
視線を上げる。
「最も近いのは、鼠市じゃな」
ショコラは、軽く頷いた。
「じゃあ、とりあえずそこに行けばいいんだな」
その言葉に、福禄寿はわずかに目を細める。
「……そう簡単な話ではないがの」
それでも――否定はしなかった。
レイが、そっとショコラを見つめる。
ほんの一瞬、迷うように。
「……にいちゃん」
言葉を選ぶ。
「俺も――」
その先を言い切る前に。
ショコラは、即答した。
「当たり前だろ?」
振り向きもせずに。
当然のように。
その一言に――
レイの表情が、一気に崩れる。
「……っ」
堪えていたものが、ほどけるように。
満面の笑みが広がった。
――そして。
旅立ちの日。
長く過ごした寺。
十五年という時間が積み重なった場所。
その門の前に、二人は立っていた。
風が吹く。
見慣れた景色が、どこか違って見える。
「……じゃあ、行ってくるよ」
ショコラが言う。
振り返らずに。
だが、その声には確かな覚悟があった。
福禄寿は、静かに二人を見つめる。
小さかった背中が、いつの間にか大きくなっている。
「……ショコラ」
「……レイ」
その名を、ゆっくりと呼ぶ。
そして――
「お前さんたちは」
一拍。
「わしの、自慢の孫じゃ」
その言葉は、誇りそのものだった。
「立派な英雄になって――」
ほんのわずかに、声が柔らぐ。
「また、ここへ帰ってくるんじゃぞ」
ショコラは、軽く手を上げた。
レイは、深く頭を下げる。
そして――
二人は、歩き出した。
止まらずに。
振り返らずに。
その先にあるものが、何であろうと。
――陽の国、十二市。
――黎明への道。
――そして、覚醒者としての宿命。
すべてを抱えて。
少年たちは、世界へと踏み出す。
ここから――
物語は、本当に動き出す。




