4章 伊沼義彦(4)
教室に帰ると、小田……ん? 名前忘れた。まあどうでもいいか。
とにかくその面倒な奴らは既にいなかった。午前授業だし彼らも早く帰りたかったのかもしれない。それなら俺なんかに話しかけず、さっさと帰ればいいのに。
なので彼らのことはさっさと忘れて、着替えて、教室を出る。目的地は自宅、ではなく図書準備室だ。どうせ家に帰っても予習とゲームくらいしかすることないし、まずは飯を食ってから読書でもして、そのあとゆっくりと帰ろう。今帰ったところで駅前の高校生がうるさいだけだろうし、一時間くらい暇を潰そう。弁当は持ってきてないので、先に購買か。
適当に弁当を買って図書館に向かう。飲み物はコーヒーでも淹れればいいから買う必要はないな。
鍵の空いていた図書館の中に入ると、むわっと、湿気を含んだ熱気が飛んできた。そうか、休館日だからクーラーは動いてないんだな。あぢい。
こうまで暑いと上半身裸で過ごしたくなってくる。汗をかくのは別にいいが、シャツに張り付くのは形容しがたい気持ち悪さを伴う。想像しただけで嫌すぎるし、実際今体感している。
しかし自分の部屋じゃないとそれは叶わないだろう。公共の場で脱いだらそれはただの露出狂である。例え誰もいない教室にひとりきりだったとしても脱ぐわけがない。安心できる場所は、自宅しか無いのだ。自宅以外にも欲しいところだ。
汗で張り付いたシャツをどうにかしたいと思いながら見渡すと、真田が壁に寄りかかり、本を読みながら街中で流れていそうな曲を歌っていた。知らない曲だが、意外に上手かった。
「お? あれに見えるはエンドーくんじゃあーりませんか! おっはー!」
「よお真田。中にお前がいるってことは、図書館は開いてるんだな」
「そだよー。でも開いてなくても開ければいーじゃん」
「その辺訊いてなくてな、どうすりゃいいのか分からん」
「そーなの? 多分鈴本先生に言えば鍵貸してもらえるよ? 図書委員の仕事がどうたらーって言えば簡単に。まあその鍵は今あたしが持ってるんだけど」
「準備室は開いてんのか? 暇を潰したいんだが」
「だいじょぶだよー。あとであたしも行くし。それと、既に祈がいるし」
「分かった」
「あっ、エンドーくんお弁当買ってる。いいなーあたしもお腹空いたー。……っと、クーラー付けたよー、褒めて褒めてー」
「勝手に付けていいのか? まあありがとな」
満足気な顔をしている真田の横を通り過ぎ、図書準備室に足を踏み入れる。
中では、奈々城が机に倒れていた。
「――!」
驚き、側に駆け寄る。体を揺らして起こすために手を伸ばし、そこでハッと気付く。
いや待て、もしかしたら気絶してるんじゃないかもしれない。ここはよく見て判断しよう。
額が綺麗に机の上に乗っており、両手はだらんと垂れ下がっている。顔の右横にいつもの赤渕眼鏡と、薄く小さい本が一冊転がっていて、耳を澄ますとすぅすぅと寝息が――うん?
……寝てるだけじゃねえか。こいつ。なんだ心配して損――はしてねえな。そもそも心配してねえからな。まず俺が他人の心配なんかするはずがない。ただ奈々城がいつもの窓際奥の席ではなく、長机の席に座っていたから何かあったんじゃないかと勘違いしただけだ。
息を吐き、椅子を引いて座る。寝ている奈々城の隣だが、移動するのもめんどいしな。
さて弁当でも……と思い直して、ビニール袋を持ってないことに気付く。通学カバンもだ。
よく見れば入口近くに落ちていた。どうやら奈々城に駆け寄った時に二つとも手から落としていたようだ。また立つのも面倒なので椅子に座ったまま手を伸ばす。机と入り口が近かったのが幸いし、ギリギリまで伸ばして指が引っかかる。
そのまま勢い良く引き戻して。肘が机の脚にぶつかり、揺れた。
アッと思った時には、奈々城の寝息は止んでいた。
「ん……んっ」
安眠妨害をしたのは悪いが、だからといってどうでもいいので心の中で少しだけ謝り、頂きますと手を合わせて弁当を食べ始める。
三口くらい飲み込んだところで、奈々城は体を起こした。
「あら……おはよう、遠藤君……」
俺は一言だけよお、と返し、食事を再開する。あと、今は昼過ぎである。間延び気味であることから察するに、どうやら眠気が続いているようだ。
「…………美味しそうなもの食べてるじゃない」
「飯時だからな」
「何食べてるのかしら」
奈々城はずいっと椅子ごと俺に近づき、机に肘をついて俺の弁当を覗きこむように見る。
直後、柔風とともに甘い香りが俺の鼻孔をくすぐった。思わず動きが止まる。
「……あら、コンビニ弁当じゃない。ダメよ、栄養はしっかり摂らないと」
「け、結構栄養ありそうな弁当のつもりだが」
「……それは数値上の話であって、質とか食品て……てん……何だったかしら?」
奈々城が俺を見上げ、目と目が合った。寝起きで若干潤んでいるせいか、いつもの眼鏡じゃないせいか、それとも両方が原因だからか。その瞳からは、まるで守ってあげたくなるようなそんな印象を……って何を言ってるんだ、俺は。
「……返事くらいないのかしら」
更に顔が近づいて、思わず仰け反る。互いの吐息が掛かる掛からないか、そんな距離だ。
……いや待て、待て。さすがにこれは距離感がおかしい!
「な、奈々城」
「なに?」
「近くないか、顔も、体も」
「……えっ?」
奈々城はきょとんと呆け、五秒ほど互いに見つめ合ったあと、顔を真っ赤に染め上げて。
「きゃあっ!」
「ごふっ!?」
俺を突き飛ばしてすごい勢いで離れた。俺は椅子ごとひっくり……ギリセーフ! 危ねえ!
「これは違うのよ寝ぼけてただけで近づきたいとか仲良くなりたいとかそういう訳じゃなくてちょっと遠藤君のお弁当に興味が湧いただけであって顔が近いのも眼鏡がなかったからで突き飛ばして怪我させたいとかそういうことでもなくて違う、違うの、違うのよ!」
「分かった、落ち着け。落ち着いてくれ」
いつもの理知的な雰囲気はどこへやら、涙目になりながら要領を得ない言葉を吐き出す。その仕草がどこか可愛らしく見えたものの、今は、そんなことは、どうでもよくて。
何すんだと言ってやりたいところだが、寝ぼけてたゆえの行動らしいのでそれは抑え、言葉を掛ける。
「俺は別になんとも思ってねえから。どうでもいいから。心の底からそう思ってっから」
「……それはそれで、違ってほしいけれど」
俺のそれっぽい宥めが功を奏したようで奈々城は無事落ち着いた。パッチリと目が開いているので覚醒もしたようだ。彼女は眼鏡をかけ直し、元の位置に椅子を持ってくる。俺も戻る。
「……あら、隣に来るのね」
「嫌だったか?」
「そんなことないわよ。ただ遠藤君なら反対側の離れた席に行きそうね、って思っただけよ。席空いてるし」
まあそうしてただろうが、今日は偶然だ。




