003
「携帯の番号、教えてくれません?」
話も食事も終わり、解散となったところで、座蔵さんは俺にこう切り出してきた。俺は何の躊躇もなく教えた。かったが、一応、形だけでも警戒はしておこう。
「いや、さすがに今日会ったばかりだし、俺としては分かったつもりだけど、未だに得体の知れない集団の一人に、連絡先を教えるっていうのは……」
「そっか。そうですよね。じゃあじゃあ、私の携帯の番号とメールアドレス、教えておくので。何かあったら連絡してください。あ、そうだ。『粛正派』はべつに会社じゃないから、業務用の携帯が支給されるってことはないですからね。これ、ちゃんと私の携帯のですからね」
女の子を使ったキャッチじゃないんだし、そこまでは考えてなかったけど。
「何かあったらって言ったけど、異能のこと以外でも気軽に連絡してくれていいですからね」
座蔵さんの携帯の番号とメールアドレスを、俺は早速、自分の携帯の電話帳に登録したが、漢字が分からない。
ざくら。『桜』で、いいのか?『さくら』と同じなら『佐倉』、とかもあるけど…『佐』は『ざ』とは読まないんじゃないだろうか。やっぱり『桜』かな。
はみね。人の名前なんてそれこそ十人十色百人百色。到底創造もつかぬ。まあでも、読みが独特なだけに字は限られてくるのかもしれない。女っぽい『は』というと……、『羽』か『葉』か『波』かな。偏見があるけど。あとは『みね』。これはそう候補がないだろう。『峰』か『嶺』か『峯』。可愛らしさとそれっぽさを重視するならば、『葉峰』が妥当じゃないだろうか。
『は』と『み』と『ね』で三文字という可能性も十分にありえるが、そこまで行くともう規則性などから予想するのが非常に困難になってしまうので、勝手に三文字という可能性は捨てた。
俺は、『桜 葉峰』さんを電話帳に登録した。
「『葉峰』さん…か……」
なにか、しっくりこない気がした。
覇嶺さんという音が聞き慣れないものだからだろうか。確かに似たような名前を聞いたことがない。ヨハネとか、そんな感じならある。ここはいっそ、この違和感を払拭するために、俺が人肌脱いで親しみのある呼び名を考えてあげるべきなんじゃないか。
『はみね』、なので、まずはオーソドックスに『はみねん』。これはいまいちだ。いまいちにも程がある。何ていうか、馬鹿みたいだ。
『ハミングスーン』。格好いいが、これではいかんせん呼びづらい。長過ぎる。そもそも意味が分からないという欠点がある。
『ハム』。最初の『は』と、かろうじてま行の名残があるが、少々原型を崩しすぎたか。しかし、あだ名としての親しみやすさで言えば、及第点と言っていいだろう。
『ハミネス』……。却下。却下だな、これは。
『はみ姉』…ふうむ。これはありかもしれない。俺から見て年上の女性だという意味での『姉』なので、彼女より年下の人間でないと少し抵抗があるかもしれないが、俺が呼ぶ分には何ら問題がないのではないだろうか。
「はみ姉」
俺が気持ち悪い独り言を呟いていると、少し離れた前方に、見覚えのある姿が見える。
「あ」
踵を返す。足音を立てないように、かつ自然に、来た道を戻る。
コンビニの前で、ぶかぶかのワイシャツを着た、煉瓦色の髪の少女。中学生くらいだろうか。その少女と話をしている男の姿を。またもワイシャツの上にベストを着込んだ、煙草を咥えている男の姿を見た。鴉枕の姿を見た俺は。
いそいそと。そそくさと。その場から逃げ出すことにしたのだ。
あんな奴と付き合っていたら、命がいくつあっても足りやしない。とんでもない奴だ。
「あ」
後ろの方でそんな声が聞こえた。
「どうしたの枕?」
「いや、あいつ」
「あいつ?あのパーカーの男がどうかしたの?知り合い?」
後ろの方でそんな会話が続いている。
「昨晩の奴だ」
「本当?ちょっと声かけてみようっと!」
足音が近づいてくる。
「ねえ、お兄さん」
無視。
「ねえ、パーカーのお兄さん」
無視。
「無造作な黒髪で、薄い黄色のパーカーにビスケット模様のズボンをはいた、アンニュイなお兄さん」
俺は、全力で走り出した。
軽い足音が付いて来る。
「ちょ、ちょっと!待ちなさいよ!話聞きなさいよ!」
「うるせえ!俺は昨日あの鴉って奴にえらい目に合わされたんだ!お前あいつの仲間だろ!あんなのはもうごめんだ!さらば!」
さらば、と言って(気持ちだけ)加速した俺だったが、元々運動が得意なわけでもない上、専門学校に入ってから数少ない運動時間であった体育もなくなったため、体力の低下はそれはもう著しかった。故に、すぐに減速してしまった。
「待って!待ってってば!私は何にもしないから!待ちなさいったらあ!」
後ろの少女も、俺と大差ない運動能力のようだ。現状は、互角。行ける。まける。
コンビニのある道路沿いからは既に外れていて、若干狭い民家のある道に入っていた。集合住宅の横にある駐車場に駆けて行く。
「ねえちょっと!何もしないって言ってるじゃない!ちょっと!ちょっとだけだから!ちょっと足を止めて話を聞いてくれるだけでいいから!」
駐車場は、集合住宅の建物の裏側を、フェンスで覆われている。
「行き止まりじゃない!?行き止まりね!?行き止まりよ!観念しなさい!もう逃げられないんだからね!」
俺は勢いを少し殺しつつ、フェンスによじ登った。幼い頃に何故かフェンス登りに没頭していた俺だ。10年以上のブランクがあるが、問題なく上り切ることができた。
「ああっ!ずるい!追い詰めたと思ったのに!」
俺は速やかにフェンスから飛び降りると、足を止めて振り返った。少女はフェンスに向かって走って来ている。
「ふふん、着地の際に足を痛めたのかしら!?ざまあないわね!私が行くまでそこで苦痛に悶えていなさい!」
動きを止めた俺を見て、少女はこんなことを言っているが。フェンサー(フェンシング選手のことでもフランスの護衛空母でも、ロシアの爆撃機のことでもない)である俺に限って、着地時に足を痛めるなんてことがある筈がない。
俺の狙いは別のところにある。うまく行けば、少女の追跡を逃れられるかもしれない。うまく行かなくても、体力を回復するだけの時間を稼ぐことはできるかもしれない。試してみる価値はある。
少女がその右足をフェンスにかけた瞬間。
「白地に赤の縁取りと水玉模様!白地に赤の縁取りと水玉模様だな!」
俺は叫んだ。
「なっ、え、ちょっ…!」
少女はうろたえた。
先ほどはこの少女の描写が少し足りなかったように思う。ぶかぶかのワイシャツを着ていると言ったが、その下にはスカートもズボンもはいていない。言わば彼シャツ状態なのだ。さすがに下着ははいていたが。
「み、見ないでよ!何考えてんの!?馬鹿なんじゃないの!?」
「ははははは!まんまと俺の罠にかかったな!フェンスにお前を追い込んだのは俺の方だったんだよ!」
最も、パンツの一枚や二枚くらい、と構わずよじ登るような少女だったならば、作戦は失敗だったが。少なくとも、現状では、この少女の動きは止められている。
「ぐぬぬ……」
「おい、お前。大人しく帰れ。今引き返せば、お前のパンツの柄は忘れてやる」
俺は、少女に魅力的な提案を持ちかける。
「…………。仮に私が今帰っても、アジトに戻れば感知系異能力者がいるから、あまり意味がないと思うけど……」
「マジかよ…」
「うん」
それもそうか。でないと、昨晩、鴉が俺の家まで来れた理由がない。
「じゃあ、お前のパンツの柄を忘れてやるから、お前の仲間に俺を追跡するのをやめろと言え」
「言えばいいの?言うだけでいいの?」
「やめさせろ」
「それは無理ね。私はリーダーじゃないから」
くそう、どうすれば。
「……お前、『粛正派』に顔と名前は通ってるのか?」
「通ってると思うわよ。枕と私は、『繁栄派』きっての戦闘員だから、『粛正派』も警戒してる筈」
「なら、お前のパンツの柄を『粛正派』に広めてやる!」
「えええええーー!それってもうただの嫌がらせじゃない!私にはあんたの追跡をやめさせる権限がないって言ってるじゃないの!」
「権限がなかろうとやめさせろ!パンツの柄だけじゃねえ!お前がフェンスに足をかけた時に見えた、右足の付け根ギリギリの所にあるほくろのことも広める!」
「ずいぶん目がいいのね!死ねばいいのに!」
顔を真っ赤にして涙目で悪態をついてくる少女。
しかし、どうしたものか。『繁栄派』に俺の勧誘をやめるように仕向けたかったが、この少女にいくら言っても意味がないらしい。どちらにせよパンツの柄は覇嶺さんに伝えておくとして、こいつの処理をどうするかだ。
俺が近くで凝視している限りこの少女は動けないが、俺が離れれば、すぐに追ってくるだろう。
そんなことに頭を悩ませていると、少女は、両手をフェンスにかけ、両足は地面に着けたままの体勢で言った。
「ねえ、どうせ二人とも動けないんだから、話を聞いてよ」
「嫌だ」
「話すわね」
「聞こえねえ」
「あんた、私たちの仲間になりなさいよ」
「………………」
いや、確かに目的はそうなんだろうけどさ、よくこの状況で切り出せたな。
「『繁栄派』にお前のパンツの柄が広まることになるがそれはいいのか」
「いいわけあるかあ!……私のパンツの柄を黙っててくれるなら、それなりの地位に推薦してあげてもいいんだけど…」
「チンピラ集団で偉くなってもしょうがねえだろ」
「はん。いい子ちゃんね。馬っ鹿みたい」
「不良少女がパンツの柄くらいでガタガタ言う方が滑稽だぜ」
「うるさい!パンツの柄でガタガタ言わなくなったら女として終わりよ!」
「お前の基準はどこかずれている!」
この少女、少女なりに譲れぬこだわりがあるようだ。パンツに関するこだわりなら、俺もあるが……。
「というかあんた、今いくつよ」
「あん?19だけど」
「19?19なの?19なのに14歳の女の子のパンツを見て興奮してるの?」
「いや、興奮はしてない」
「………………」
「お前を脅すネタを仕入れたと思って息巻いただけだ」
この少女、どうやら14歳らしい。
「興奮してないの?」
「…どうしてそこを引っ張る。してねえよ。女子のパンツならともかく、女児のパンツでは興奮しねえよ」
「女児じゃないわよ。というか、女児も女子でしょうが」
「揚げ足を取るな。パンツが見えてしまう」
「あんたのパンツなんか見たくないわよ!そもそもスカートはいてないし!」
「言葉の綾だ」
「そう言えば何でも許されると思うなよ!?」
「しかしだ」
「何よ」
「俺は外でパンツを拝むなんて経験はよっぽど久しぶりだったから、そこに関しては興奮したと言っても過言ではない」
「そ、そう。そうね。ありがたく思いなさい」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「パンツ見せてくれてありがとうございます」
「そこまで感謝されると嫌な気はしないかもしれないけど」
「よく見たら赤い水玉模様じゃなくて赤いスマイルマークのパンツを見せてくれてありがとうございます」
「ね、ねえ、もういいんだけど!十分お礼は受け取ったんだけど!」
「俺は内ももの筋が好きなんだが、あれはパンツをはいているからこそ映えるものだと再認識させてもらった。ありがとうございます」
「もういいって!恥ずかしいからやめて!」
「そういえばお前、右足の付け根ギリギリの所にあるほくろから、短い毛が生えてました。正直そこは興奮しました。ありがとうございます」
「こいつできるだけ早めに寿命来ればいいのに!」
秘められた俺の禁忌の一部を垣間見せてしまったような気がするが、さして問題ではない。
やがて落ち着きを取り戻したらしい少女は、俺に改めて向き直ると、打って変わって真面目なトーンで俺に問いかけた。
「あんたさあ、枕を退けたみたいだけど、そんなに強いの?」
「知らん。鴉は相当ヤバイっていうのは分かったが、まだ鴉しか異能力者を知らないから、比較してどうこうっていうのは言いようがない」
「比較対象がないから比較できない?」
「まあ、そうだな。お前から見て、俺の異能ってどうなんだ?凄いの?」
「いや、私、あんたの異能を見てないし」
「ああ、じゃあ、鴉の異能は?そこから判断するよ」
「ふん、はっきり言って枕の異能は硬いだけね。戦闘特化が片腹痛いってとこね」
「ほう。そう言うからには、お前の異能はものすごい戦闘特化なんだろうな」
「ええ、もちろん。『繁栄派』最強よ。丁度いいわ。機会だから、見せてあげるわよ」
「え?いや、いいよ。お前それってバトルフラグじゃん」
俺の言葉などもう聞いていなかった。
そういうと少女は。
少女の小さい体は。
大きく膨れ上がった。
うっすらと赤みを帯びた健康的な色の皮膚は、一瞬でその色を失った。白い。
幼いながらも凛々しさを感じる目は、ぎょろりと飛び出した。グロい。
煉瓦色のくせっ毛は、どこかへ行ってしまった。ハゲい。
異形の怪物へと成り果てた少女は、フェンスを踏み潰し、ゆっくりとこちらに近づいてくる。すぽんと、今にも転げ落ちてしまいそうな目玉で、俺の方を見ている。この、少女だった怪物は、喋れるのか?意思の疎通はできるのか?というか俺は大丈夫なのか?今は人がいないとはいえ、こんな住宅街でこんなものに変身していいのか?
「な、なあ……。もう分かったから、元に戻れよ…!何かもうすごい怖いぞ、その姿」
言い終えた俺の眼前には。大きく開かれた怪物の口。
歯並びだけは――綺麗だった。