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ホワイトホール宮殿の黒い悪魔 第4話

兄ヘンリーの死の真相を知ったチャールズは怒りに燃える。だが、その彼を再び黒い悪魔が襲う。【完結】

 チャールズははっと息を呑んだ。寝台の下に、何かが見える。胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。彼は震えながら手を伸ばした。布のようにしっとりとした感触。静かに引き寄せると、寝台から這い出る。張り裂けそうな胸を抑え、チャールズは布を広げ、ランプを近づけた。

 つい先ほど目にした魔方陣がそこにあった。黒い逆さの五芒星。禍々しい文字の羅列。チャールズは顔を引き攣らせた。と、同時に。唐突に、脳裏にある光景が蘇った。


 薄暗いサロン。人気はない。そこで一人美術品を眺めていたヘンリーに呼びかける者がいた。

「……殿下」

 振り返ると、栗毛の美女が柱の影からじっと見つめてくる。ヘンリーはふっと微笑んだ。手を差し伸べるとフランセスは小走りに駆け寄ってヘンリーの胸に飛び込んだ。

「……どうした」

「……悪い報せが」

 涙でくぐもった囁きにヘンリーは眉をひそめた。フランセスは嗚咽をこらえながら言葉を続けた。

「……夫が、留学先から帰ってくるそうです」

「……そうか」

 ヘンリーは目を閉じると小さく吐息をついた。フランセスの背をそっと撫でると彼女の項に唇を押し付ける。

「……残念だ」

「嫌です……! 私、夫に会いたくありません!」

「フランセス。ご夫君が帰ってこられるまでという約束だったはずだ」

「で、でも、夫は……!」

 フランセスは泣きながら顔を上げた。どこか怯えた表情にヘンリーが怪訝そうに顔をしかめ、指先で涙を拭ってやる。

「従者から知らされました……。夫は、天然痘を患っているのです……!」

 天然痘。全身に痘痕が現れる恐ろしい病。さすがにヘンリーは目を見開いた。

「もはや夫に対して愛情はありません。結婚してすぐに異国へ旅立ってしまったのですから。それに、天然痘だなんて……。私は、天然痘になどなりたくない……!」

「だが、そなたのご夫君だ」

 ヘンリーは静かに言い聞かせた。

「ご夫君が帰ってくるならば、全力で看病するがよい」

「殿下……!」

 フランセスは必死にすがりついて哀願した。

「私……、私は、あなたの妻になりたいのです……!」

 恋人の囁きにヘンリーの口許から微笑が消える。

「あなたの妻に……。王太子妃になるのが、夢なのです……!」

 二人はしばし黙り込んで見つめ合った。神殿のように並ぶ彫像が無言で二人の様子を見守る。やがてヘンリーは背を屈めるとそっとフランセスを抱いた。

「……それは無理だ、フランセス」

「殿下……!」

「国教会の首長は、離婚歴のある者とは結婚できない」

 国教会の首長とは、イングランドの君主を意味する。イングランドは一五三四年にローマ・カトリック教会と決別して以降、独自の国教会を設立し、君主がその首長に就くよう定められている。ヘンリーは未来のイングランド王。フランセスが夫と離婚しても妃には迎えられない。

「そんなもの……、結婚の無効が証明されれば問題ありませんわ。だって私と夫は結婚してすぐに離れて暮らしていたのですもの! 陛下にお願いして、結婚の無効を……!」

「フランセス」

 ヘンリーは低く呟くと耳元に唇を寄せた。美しい唇にうっすらと冷笑が浮かぶ。

「……そこまでしてそなたと結婚しようとは思わない」

 ぞくり、と背に寒気が走る。フランセスの目が大きく見開かれ、震えながら体を離す。麗しい王太子はにっこりと微笑んだまま言葉を続けた。

「そなたとは楽しい時を過ごせた。だが、そなたは私の妻の器ではない。ご夫君を迎え入れるが良い。献身的に尽くせば、病も癒えよう」

 だが、フランセスは青ざめた顔を振りながら後ずさる。ヘンリーは身を乗り出すと彼女の唇をそっと啄んだ。

「さらばだ」

 ヘンリーがそう囁いた時。サロンに足音が響く。フランセスがぎくりとして振り返る。

「……あ」

 そこには、王太子の幼い弟が立ち尽くしていた。チャールズは二人の様子を見ると慌てて背を向けた。フランセスも身を翻すと無言でその場を走り去る。

「……チャールズ」

 呼びかけると、チャールズは顔を赤くしながら恐る恐る振り返った。

「……兄上」

 ヘンリーは少し気まずそうに笑うと弟の肩を叩いた。

「おまえには心配をかけたな。……彼女とは、たった今別れた」

「えっ」

 チャールズは思わず声を上げると兄の顔をまじまじと見つめる。

「……私はいつか外国の王族から妃を迎える。それまでに恋がしたかった。……だが、やはり人の妻を選ぶべきではなかった」

「兄上……」

 ヘンリーは寂しげに息を吐くと弟の肩を優しく撫でた。

「チャールズ。おまえは、いつか迎える妃を大事にするのだぞ」


 チャールズはごくりと唾を飲み込んだ。羊皮紙を持つ手が震え、唇が歪む。

「……あの女……、捨てられた腹いせに兄上を……!」

 チャールズは幼いながらも兄の不倫を心配し、何かにつけて別れるよう懇願していた。そして、ヘンリー本人もいつかは別れなければならないことを自覚していた。その、別れの場に偶然遭遇していたことを思い出したのだ。チャールズは歪めた口から悔しげに息を吐いた。

「あの女、絶対に許さぬ……!」

 そう口走ると、手にした羊皮紙を両手で引き裂いた、瞬間。

 裂けた紙面からどろりと黒い煙が溢れる。

「ひッ!」

 チャールズは悲鳴を上げて腰を抜かした。溢れ出た煙は天井に向かって迸り、一箇所で凝り固まったかと思うと真っ赤な口を開けた。

〈ヒヒヒヒヒ!〉

 ぞっとするような金切り声を上げ、チャールズに向かって突進する。

「!」

 床に転がり込んで悪魔をやり過ごすとドアノブに飛び付き、扉を開け放つ。這うようにして部屋を飛び出すが、背後からは悪魔の高笑いが迫る。

「……あ、あ、あ……!」

 もつれる足で立ち上がると走り出す。ひゅっひゅっという風切り音と共に天井のシャンデリアが激しくぶつかり合い、砕ける音が響く。追いかけて来る……!

 チャールズが死に物狂いで廊下を駆け抜けていると、シャンデリアが砕ける音に侍従や召使らが集まってくる。

「何の騒ぎだ!」

「一体何が……!」

 口々に言い合いながら人々が廊下に集まるが、皆は悲鳴を上げながら走る少年と、彼を追いかける黒い塊がシャンデリアやランプを破壊しながら滑空する様を見て唖然とする。そして、皆も絶叫を上げると背を向けて駆け出す。

(あ、あ、安全な場所は……! 安全な場所は……!)

 何処をどう走ったかわからなくなりながらもチャールズは必死に考えた。悪魔から、身を守れる場所は……!

「あっ……!」

 唐突に頭に浮かんだ場所。あそこならば……。本当に身を守れるかはわからない。だが、そこしか思い浮かばない。チャールズは歯を食いしばって走り続けた。と、足元に風を切る音。

「ッ!」

 足元から襲いかかる悪魔にチャールズは横に投げ飛ばされ、壁に激突して床に転がり落ちる。

「あ、つッ……!」

 左肩に焼き鏝でも押し付けられたような熱が走る。あの魔女の箒と同じだ。肩を押さえながら立ち上がろうとするチャールズに悪魔が床を滑るようにして襲いかかる。咄嗟に腰の剣を引き抜くと悪魔を斬り裂く。

「……!」

 瞬間、悪魔がすっぱりと真っ二つになるが、煙のように元通りの姿に戻り、耳障りなひび割れた笑い声を上げる。

「悪魔だ……! 黒い悪魔だ……!」

 侍従たちが口々に騒ぎ立てるのが聞こえてくる。サロンでは見えなかった悪魔が、今では皆の目に見えるらしい。チャールズが剣を振り回すと悪魔はわずかながら後ずさった。その隙に再び全速力で廊下を走り抜ける。

「剣では攻撃できない……。では、どうすれば……!」

 息せき切って走りながら考えを巡らせる。と、彼の視界に目指す場所が入る。

〈キヒヒヒヒ!〉

 耳を劈く笑い声に背筋が引き攣る。が、チャールズは歯を食いしばって走り続け、その扉を蹴破った。中へ転がり込むと膝を突いて体を起こし、両手で扉を閉める。

「……はぁッ……、はぁッ……!」

 チャールズは項垂れると苦しげに呼吸を繰り返した。そこは、礼拝堂だった。

 オレンジのランプが祭壇の周りにだけ灯されており、十字架がゆらゆらと長い影を躍らせている。チャールズは唾を飲み込んでよろよろと立ち上がった。ここは聖域だ。悪魔は、近寄れないはず。だが、このままでは……。

 と、頬にひゅっと風が切る。

「ッ!」

 咄嗟に振り返りざまに悪魔が脇を掠めてゆく。

「……!」

 チャールズは唇を噛み締めると再び剣を抜き放った。

〈ハ……、ハハハ……! ハハハ!〉

 悪魔は体を揺すって笑いを漏らすとぶるっと身を翻した。煙のように掴みどころのない姿だった悪魔に厚みが生まれ、手足のような突起が現れる。チャールズが思わず腰を引くと、悪魔は絶叫を上げて突進してきた。

「くッ!」

 避けようとしたチャールズだったが避け切れず、肩に激突を食らい、吹き飛ばされる。背中を扉にしたたかに打ち、思わず呻き声を漏らす。そして、痛みを堪えながら体を起こすと扉の握りを掴む。が、扉はびくとも動かない。

「……そんな……!」

 扉を手で叩いたり、肩でぶつかってみるが、扉は弛みもしない。すると、扉の外から人々の声が聞こえる。

「殿下……! 殿下……!」

「あ、開けろ! 開けてくれ!」

 チャールズも声を限りに叫ぶが、侍従らしき男の悲痛な叫びが返ってくる。

「びくとも……、しません……!」

 チャールズは奥歯を噛み締めた。そして、きっと後ろを振り返る。悪魔は肩を怒らせてじりじりと近付いてくる。ここでは暗い。明かりのある祭壇へ……。チャールズは息を吸い込むと祭壇に向かって走り出した。そうはさせじと悪魔が躍り上がる。祭壇の前まで辿り着こうという、その時。破裂音が響いたかと思うと、祭壇に黒い塊が撃ち込まれる。

「あっ!」

 祭壇の壁が粉砕され、衝撃を受けたチャールズが床に倒れ込む。降りかかる壁の破片から身を守るチャールズの眼前に、祭壇から十字架が投げ出される。

「……!」

 咄嗟に十字架を掴む。長さ一フィート余りの十字架を握り締めて立ち上がり、先を悪魔へ向ける。その姿に悪魔は明らかに狼狽えた。相手の動揺に、チャールズは叫び声を上げて十字架を振るう。

「おぉっ!」

 悪魔は身を震わせながら十字架を避け、蝙蝠のように天井をばたばたと駆け巡った。が、天井の隅に飛び付いたかと思うと体を折り曲げ、弾みをつけて飛び掛かる。

「あっ!」

 肩に体当たりを食らい、小柄なチャールズが吹き飛ばされる。痛みに顔を歪めながら体を起こそうとすると、十字架が三歩先に転がっている。

(しまった……!)

 十字架に這い寄ろうとした瞬間。チャールズに顔を向けた悪魔は喉元を膨らませた。そして、吐き出された黒い光がチャールズを襲う。

「……あ!」


 だん、と机に叩きつけられた黒い魔法陣を前に、ロバートとフランセスはその場に立ち尽くした。ヴィリアーズはサマセット伯爵夫妻をきっと睨みつけた。深夜にも関わらず、二人は王の執務室に呼び出されていた。ヴィリアーズの背後では顔を強張らせたジェームズが座り込んでいる。

「ロンドン塔のタワー・グリーンで見つけました」

 ヴィリアーズはそこで言葉を切り、二人をしばし見つめた。

「……オーヴァーベリー卿が亡くなった部屋です」

「一体何の話だ。何故我々が君に尋問の真似事をされなければ……」

「ロバート」

 ジェームズの固い声に口をつぐむ。一方のフランセスは、ただ黙って上目遣いにヴィリアーズを凝視してくる。彼は自信ありげに微笑を浮かべた。

「オーヴァーベリー卿が幽閉されたのは陛下の逆鱗に触れた故。その理由は、レディ・フランセス、あなたと前夫の離婚に反対したため。そして……、身罷られたヘンリー王子を殺したのがあなただと暴露したためです」

 ロバートは息を呑み、両目を見開いた。だが、フランセスは顔色ひとつ変えない。ただ、わずかに目を細めただけだ。

「……でたらめだ!」

「サマセット伯。あなたとオーヴァーベリー卿は元々ご友人でいらっしゃいましたね」

「……そうだ」

「レディ・フランセスとエセックス伯の離婚に反対していたということは、あなたとの結婚も反対していたということですね。何故です?」

 ヴィリアーズの問いにロバートは唇を噛み締めた。ジェームズはどこか青ざめた顔つきで彼らのやり取りを見守っている。

「あなたも私と同じく、地方の郷紳の出身。ですが、オーヴァーベリー卿の助言で陛下のお側にお仕えすることになられました。そして、とんとん拍子にご出世なさり、今や伯爵の身分だ。だが……、オーヴァーベリー卿はその恩恵に与っていない」

 ロバートの肩が小刻みに震え始め、拳が握りしめられるが反論はしない。

「その上、あなたはエセックス伯夫人であるレディ・フランセスと恋仲になり、結婚を望んだ。オーヴァーベリー卿はあなたを相当妬んだのでしょうね。陛下にレディ・フランセスの離婚を認めないよう迫り、その上、彼女がヘンリー王子を殺したと訴えたのです」

「誠だったのか……! 謂れのない中傷だと思っていたが、誠だったのか!」

「陛下」

 いきり立って口走る王にヴィリアーズが優しく制する。

「待て、サー・ジョージ……! 妻が何故ヘンリー王子を殺さねばならぬ! 理由がない!」

「恐らく、王子に捨てられた腹いせでは?」

 さらりと口にした言葉に、フランセスが初めて顔を歪めた。

「恐れ多くも王太子妃におなりになりたかったのか、それとも愛人のまま恩恵を受け続けようとなさったのか……、それはまぁ、どちらでも良い。とにかく、あなたはヘンリー王子を呪い殺したことをオーヴァーベリー卿に知られた。だから、殺した」

 ヴィリアーズは身を乗り出すとフランセスに向かってにやりと笑みを浮かべた。

「チャールズ王子殿下がお気付きになられましたよ。オーヴァーベリー卿と兄君の死に様が似ていることに」

「…………」

 フランセスは目を細めたまま、黙ってヴィリアーズを睨み返した。気の強い女だ。ヴィリアーズはふんと鼻先で笑った。

「とにかく、あなたは邪魔なオーヴァーベリー卿をヘンリー王子と同じ方法で殺した。そして、今度は違う方法でこの私を殺そうとした」

「何?」

 背後でジェームズが狼狽えた声を上げる。

「ご夫君への陛下の寵愛が薄れたことに危機感を覚え、悪魔を使って私を殺そうとした。だが、そのことに気づいたチャールズ王子殿下が身を挺して私をお守り下さった」

「チャールズ……!」

 一々怒りを露にしたり、悲嘆に暮れたりと忙しいジェームズにヴィリアーズは内心吹き出す。

「いい加減にしろ、ヴィリアーズ!」

 ロバートは顔を真っ赤にして怒鳴った。

「私を狢呼ばわりした挙句、今度は妻を魔女扱いかッ! 貴様の言うことは全て戯言だ!」

「戯言かどうかは、ご本人に確かめてみては?」

 ヴィリアーズはしれっと言い返すと改めてフランセスに向き直った。美しい伯爵夫人は眉間に皺を寄せ、ただ黙って見返してくるばかりだ。彼は意味深に頷いた。

「怖い人だ」

 笑いを含んだ声でそう呟かれ、フランセスは唇を歪めた。それは、笑みだったのかもしれない。

「ああ、そうか」

 思い出したように声を上げ、ヴィリアーズは机を周ってフランセスに歩み寄る。

「あなたの前のご夫君。エセックス伯は天然痘を患っていらっしゃいましたね。ひょっとして、それもあなたの仕業ですか」

 その言葉に、さすがにロバートも顔色を変えて妻を振り返る。

「元々あなたはエセックス伯との結婚を望んでいなかったとお聞きしています。それはそうだ。エセックス伯は反逆者のご子息ですからね」

 エセックス伯の父親はエリザベス女王最晩年の愛人だったが、謀反を起こし、処刑されている。そのため、ノーフォーク公爵家の流れを汲むフランセスと政略結婚をすることで、エセックス伯爵家は名誉の回復を狙ったのだ。

「……サー・ジョージ」

 フランセスが初めて口を開いた。ヴィリアーズはかすかに首を傾げ、次の言葉を待った。伯爵夫人は背筋をすっと伸ばし、真正面からヴィリアーズを凝視した。

「すべてお話が繋がっているようだけれど、証拠が何もないわ」

 ヴィリアーズは目を細めると頷いた。

「証拠がない以上、私を魔女として告発することはできないわ」

「……確かにその通りです。ですが……」

 彼の口許から笑みが消える。

「早くお認めになられた方が身のためですよ」

「なんて無礼な……!」

「夫人!」

 突然ヴィリアーズが声を荒らげ、彼女はびくりと体を震わせた。ヴィリアーズは顔を近づけると口許を歪めて囁いた。

「あなたのことなどどうでもいい……! 問題なのは、私のチャールズ王子に悪魔憑きの濡れ衣が着せられていることだ!」

「……!」

 フランセスは両目を見開き、唇を震わせてヴィリアーズを見上げた。ロバートが即座に押し退けようとするが、彼は腕を振り払う。

「早く! 宮殿に彷徨っている悪魔をどうにかしろ! 早く!」

「スティーニ……!」

 ジェームズが怯えた声を上げ、室内に控えていた秘書官が慌ててヴィリアーズを取り押さえる。だが、怒りに我を忘れた彼を押さえつけるのは至難の業だった。


 ヴィリアーズの怒りが爆発していた、その頃。チャールズは眩い白い光に包まれていた。悪魔から吐き出された黒い塊は粉砕され、悪魔は突然のことに狼狽した様子でチャールズを凝視している。

「……!」

 チャールズは震えながら呆然と顔を上げた。自分の身を守るように輝く光がまとわりついている。魔女裁判の時と同じ、あの光。そして、目の前には見覚えのある後姿があった。

「……あ……、あ、兄上……?」

 ヘンリーは振り返ると微笑んだ。生前と変わらない美しい顔。優しい微笑。金髪によく似合うエメラルドグリーンの胴衣。兄は腰を屈めると輝きを放つ剣を弟の手に持たせた。

「おまえが倒すのだ」

「で、できません……!」

 思わず口走った言葉にヘンリーは険しい表情になる。

「チャールズ」

「わ、私は……、よ、弱い……! 何も、できません……!」

「おまえならできる」

 ヘンリーは両手でチャールズの頬や髪を愛おしそうに撫でながら言い含めた。

「おまえは努力してきた。おまえが多くの困難を乗り越えてきたのを、私は知っている」

 その言葉に、チャールズは息を呑んだ。美しい瞳がまっすぐに見つめてくる。

「おまえは一人ではない。おまえが努力してきたことを知っているものはたくさんいる。だから、自分を信じろ」

 チャールズはかすかに体を震わせながら兄を見上げた。が、彼らの背後から悪魔の咆哮が耳に飛び込む。

「……!」

 振り返ると、悪魔が体を揺すり、再び体を巨大化させている。ヘンリーはすっくと立ち上がった。

「おまえなら倒せる。いけ」

「…………」

 チャールズはがくがく震える膝に手をかけ、よろよろと立ち上がった。耳元にヘンリーの口が寄せられる。

「お前は強い。大丈夫だ」

 その言葉を最後に、ヘンリーの体は煙のように闇に溶けていく。チャールズは口をぎゅっと引き結び、一瞬目を閉じてから息を吐き出した。そして、兄から託された光の剣に目をやる。

「……兄上!」

 再び悪魔が咆哮を上げる。チャールズは剣を構えると悪魔に向き直った。自分はできる。兄上が見てくれている!

〈キイイイ!〉

 奇声を上げながら悪魔が滑るように突進してくる。チャールズは腰を落として剣を構えると素早く横に薙ぎ払った。

〈ギャアッ!〉

 悪魔の体から緑の血が吹き出す。その毒々しい鮮やかな色に一瞬怯むが、チャールズは体を入れ替えると剣を繰り出す。悪魔はとんぼ返りを打ってやり過ごし、顔一杯に裂けた口で襲ってくるがチャールズは床に転がり込んでその攻撃を避ける。そして、即座に起き上がると剣の柄を握りしめて切っ先を悪魔に向ける。彼の脳裏に、兄の姿が鮮やかに蘇る。

(踏み込め! 迷うな!)

 稽古のたびにそう叱咤された。チャールズは目を細め、息を吸い込むと剣を引く。

「ああッ!」

 裂帛の気合を上げ、チャールズは迫り来る悪魔に向かって剣を振り下ろす。悪魔は身を捩ってその攻撃をかわし、鉤爪の手でチャールズを襲うが、彼はかわしざまに剣を突き出し、悪魔の体を掠める。悪魔の表情が引き攣り、天井まで飛び上がる。

「くそッ……!」

 チャールズが悪態をついた瞬間、悪魔は天井を蹴って突進してくる。

「!」

 まともに激突され、床に倒れこむチャールズに悪魔が思わずゲラゲラと下卑た笑い声を上げた瞬間、飛び起きたチャールズの剣が振りかぶられる。悪魔が避けるのが一瞬遅れる。光の剣が流星のように弧を描いて一閃される。

〈ガッ……!〉

 悪魔の体が斬り裂かれる。硬直する悪魔の隙を逃さず、チャールズは再び剣を振りかぶると悪魔の顔面に剣を突き立てた。

〈ギャアアアアッ……!〉

 顔から緑の鮮血が溢れ、天井まで飛び散る。そして黒い体が膨張したかと思うと、轟音を発して破裂する。と、同時に。礼拝堂の扉が蹴破られる。

「殿下ッ!」

 侍従や衛士らが雪崩れ込むが、身が裂けた悪魔が呻き声を上げる光景に皆が言葉を失う。

 チャールズは顔を引き攣らせてその光景を凝視していた。裂けた悪魔の体の破片は空中を不気味に舞い、悪魔の金切り声が礼拝堂に響き渡る。

〈グウウ……、グウウウ……!〉

 やがて破片に炎が上がったかと思うと断末魔の悲鳴が上がる。そして、悪魔の体は跡形もなく燃え尽きた。

「…………」

 チャールズは肩で呼吸を繰り返しながら、その様を見つめていた。すると、右手の剣がふっと光を失う。思わず手のひらを見つめるチャールズ。そして、彼はがっくりと膝を折るとその場に倒れこんだ。

「殿下……!」


「あッ!」

 その頃、王の執務室にも異変が起きていた。机に置かれていた魔方陣が突如炎を上げたのだ。

「……!」

「な、何事だ……!」

 ジェームズが怯えた声で口走り、ヴィリアーズの背に隠れる。燃え上がった魔方陣は黒い煤になり、空中に立ち上った。が、その煤は徐々に集まり、ある姿を形作った。

「あ、悪魔だ……!」

 秘書官が悲鳴に似た声を上げる中、フランセスは真っ青になって悪魔を見上げた。悪魔はゆらゆらと揺らめきながらフランセスの眼前までやってきた。

〈……フランセス・カー……〉

「……!」

 悪魔はぞっとするようなしゃがれた声で続けた。

〈……おまえとの契約は、終わった〉

 その言葉を最後に、悪魔は金切り声と共に姿を消した。フランセスは戦慄く手で顔を覆った。ヴィリアーズはごくりと唾を飲み込むと伯爵夫人を振り返る。執務室に広がる恐ろしい静寂。我に返ったジェームズが身を乗り出す。

「魔女だ! 拘束せよ!」

 その怒声に執務室の扉が開け放たれ、近衛兵が押し入る。

「ま、待って……! 待って下さい、陛下ッ……!」

「サマセット伯爵夫妻を逮捕せよ! ロンドン塔へ連行しろ!」

 ロバートとフランセスは恐怖に満ちた表情で近衛兵に抵抗していたがやがて取り押さえられ、執務室から連れ出されていった。喧騒がだんだん遠のいてゆく。まだ破裂しそうな胸のままその様子を黙って見守っていたヴィリアーズは、そっと手を握られた。

「……陛下?」

 ジェームズはヴィリアーズを抱き寄せると肩を震わせた。

「……誠だったのか」

 涙に滲んだその声色にヴィリアーズはさすがに胸が痛んだ。

「……ヘンリーは……、殺されたのか……」

 彼は静かに吐息をつくと、主君を強く抱きしめた。ジェームズは悔しげに嗚咽を漏らした。自分だけでなく、国民全てから将来を嘱望されていたヘンリー・フレデリック。王太子を失った哀しみだけでなく、弟のチャールズは暗殺まで疑われた。自分も、ひょっとしたら疑っていたのではないのか。遣りきれなかった。ジェームズはさめざめと涙を流した。


 温かさを感じながら揺られている。周りは薄暗がり。長い長い廊下が闇の先まで続いている。目の前には見慣れた金髪。

「……あにうえ」

 チャールズは、自分を負ぶっている兄に声をかけた。どもらないよう、ゆっくり。

「自分で……、歩く……」

「無理をしたら駄目だ」

 ヘンリーは振り向かずに答えた。

「ホワイトホールは広いからな。疲れるだろう」

 兄の背の温かさを噛み締めながらも、チャールズは複雑な表情で俯いた。彼が生まれ育ったスコットランドの宮殿に比べると、ホワイトホール宮殿は確かに迷宮のように広大だ。ようやく自分の足で歩けるようになったチャールズにとっては、余りにも広すぎる。だが、歩こうと思えば歩けるのだ。

「僕……、歩けるよ、兄上」

「チャールズ」

 どこか拗ねたような口調の弟に、ヘンリーは優しく微笑みながら振り返った。

「おまえがいつもがんばっているのは知っている。たまには息抜きをしろ」

 その言葉にチャールズの目が潤み、慌てて顔を背ける。兄上はずるい。いつもどうしてこんなに優しいんだ。

「……ねぇ、……あにうえ」

「うん?」


 チャールズは広い背をぎゅうと抱きしめた。

「……兄上」

「殿下」

 その声にはっと目を開ける。

「ヴィリアーズです、殿下」

 目を瞬かせ、顔をもたげる。目の前にあるのは金髪ではなく、縮れた栗毛。だが、いつも目にしているものだ。寂しさと同時に、どこか安堵の気持ちが湧き上がる。チャールズは目を細め、そのまま背に頬を押し付ける。

「……ヴィリアーズ……、私はな」

「はい」

 眠い。疲れた。全身が気だるい。だが、再び眠りの淵に引きずりこまれる前に、言っておきたいことがあった。

「私は……、兄上が、大好きだった」

「はい」

 相手はさらりと答えた。

「存じ上げております」

 その言葉に、チャールズの胸は温かい何かに満たされた。彼は満ち足りた笑みを浮かべると、再び温かい闇の中へと落ちていった。


 ヴィリアーズは、疲れ果てて眠り込んだチャールズをセント・ジェームズ宮殿まで連れ帰った。ジェームズや秘書官らは、すでに夜も更けているため、ホワイトホール宮殿で休ませてはと提案したが、ヴィリアーズはきっぱりと断った。目覚めた時、いつもの安らぎを感じさせてやりたかったのだ。

 宮殿に戻ると侍従らが静かに出迎えた。寝室に運び、胴衣を脱がすと夜具を掛ける。チャールズはぐっすり眠っていた。まだ幼さが残るあどけない寝顔には、昼間見せている険しい表情は窺えない。決して血色が良いとは言えない唇がわずかに開き、静かに寝息が漏れている。先程、自分を兄と間違えて抱きしめてきたことを思い出し、ヴィリアーズは眉をひそめた。そして、そっと手を伸ばすと頬を撫でる。

 不憫でならなかった。チャールズには何の罪もない上に、人々から称賛を受けていい存在のはずなのに。なんて不運なお人なのだろう。生真面目で堅物。その上、無垢。ホワイトホールとは名ばかりのあの黒い闇に呑まれた宮殿で生きていくには、純粋すぎる。だからこそ、愛おしかった。ずっと、側にいたい。

 ヴィリアーズは身を乗り出すと、ゆっくり唇を寄せた。眠っているチャールズの唇に静かに重ねる。瞬間、胸が締め付けられ、思わず顔を歪める。だが、チャールズの唇からは温かい何かが伝わってきた気がした。しばらくその柔らかい唇の感触を感じていたヴィリアーズは、やがて名残惜しげに顔を上げた。チャールズは気付かずに眠り続けている。じっとその顔を見つめ、もう一度その頬に触れようと手を伸ばした時。いきなり扉を叩かれる。

「……ッ!」

 ヴィリアーズはびくっと体を跳ね上げると振り返る。

「……サー・ジョージ」

 扉が少しだけ開かれ、明かりが差し込む。

「……陛下がお呼びでございます」

 途端に、ヴィリアーズは奥歯を噛み締めて仰向いた。

「…………」

 せっかく……、せっかくチャールズの唇でこの身を浄めたのに! あの老いた獣めが……!

 だが、ヴィリアーズはせつなげに吐息をついた。王の愛人をやめれば宮廷にはいられなくなる。チャールズの側にも、いられなくなる。この、暗く冷たい宮廷に彼を一人きりにするわけにはいかない。ヴィリアーズは、チャールズの頬を撫でるとそっと囁いた。

「……行ってまいります、殿下」


 それから、数時間後。

 ヴィリアーズは鈍い頭痛と、全身にまとわりつく疲労感で目を覚ました。ぼんやりとした頭のまま首を巡らす。精緻な細工が施された時計が規則正しい時を刻んでいるのを見つめる。小さなランプの明かりが文字盤をゆらゆらと浮かび上がらせている。その数字は……。

「六時……!」

 一気に目が覚めたヴィリアーズはがばっと飛び起きた。隣ではだらしない顔で眠り込んでいたジェームズがもぞもぞと寝返りを打つ。そして、隣に眠る愛人を無意識に抱き寄せようとするが、そこには夜具が丸まっているだけだ。ジェームズは情けない顔で体を起こす。

「……スティーニ?」

「朝です! 陛下!」

 寝台を飛び下りると慌てて下着を身につける。足をもつれさせながらストッキングを穿き、シャツを羽織ると胴衣を引っつかんで寝室を飛び出す。ジェームズは寝ぼけ眼のまま取り残された。

 はだけたシャツ姿のまま後宮を走り抜ける男に、朝が早い侍従や女官らが呆気に取られて見送る。そして、その正体が王の愛人だとわかると、皆は顔を歪めた。ヴィリアーズは胴衣を着込みながら馬車に乗り込んだ。

 馬車を急がせてセント・ジェームズ宮殿まで帰ってきたヴィリアーズは転びそうな勢いでアプローチに駆け込んだ。

「サー・ジョージ」

「殿下ッ!」

 侍従の呼びかけにも応じず、食堂に向かう。と、

「殿下……!」

 食堂のテーブルには、不機嫌そうに唇を尖らせたチャールズが席についていた。食事の準備が整ってはいるが、料理は装われていない。

「……遅い」

 チャールズは頬杖を突いたまま、ぼそりと呟いた。ヴィリアーズの顔に喜びの微笑が広がる。

「殿下……、今度こそ待っていて下さったのですね!」

その言葉に反応せず、チャールズは冷たく言い返す。

「風呂に入ってこい。食事はそれからだ」

「一緒に入りますか」

 思わずこぼした言葉にチャールズは椅子を蹴って立ち上がる。

「もう一度言ってみろ! あの魔法陣で悪魔を呼び出してやる!」

 真っ赤になってまくし立てる王子に吹き出すと、ヴィリアーズは嬉しそうに抱きしめた。


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 この事件は「オーヴァーベリー事件」と言って、イングランドで実際に起こった話です。史実では、フランセス・カーに買収されたロンドン塔の監視員がオーヴァーベリー卿を毒殺したとされています。ですが、この騒動で実際に魔女が数人処刑された上、フランセスはヘンリーとロバートの愛を得るために黒魔術に手を染めたという噂も流れたそうです。

 本編ではフランセスとロバートの逮捕で終わっていますが、二人はその後ロンドン塔に幽閉され、「優雅な」生活を送り、一人娘をもうけています。

 夫ロバートにいたっては処刑判決すら下されていたのですが、その後赦されて釈放されています。それは、ジェームズ1世が愛人を処刑することを拒んだためだったということです。

 イングランドの暗い歴史のひとつだと思います。これで少しでもイングランドの歴史に興味を持っていただければ幸いです。

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