わたくしは確かに悪役令嬢でしたが、辞めてもよろしいのですね?
社交界でいちばん嫌われている令嬢は、七年間、無遅刻無欠勤だった。
セラフィナ・ド・ヴァレンヌ公爵令嬢。陰湿、傲慢、他人の縁談を壊す女。そう呼ばれて七年になる。
その七年で彼女が休んだ夜会は、一つもない。
「君のような陰湿な令嬢は、社交界に必要ない」
王太子ジュリアンの声が、舞踏会の広間をきれいに静かにした。隣には、見るからに優しそうな男爵令嬢が立っている。
セラフィナは扇を閉じた。閉じてから、今夜の席次表を思い出した。あと二枚、直しておきたい箇所があったのに。
「わたくしは確かに悪役令嬢でしたが、辞めてもよろしいのですね?」
広間がざわりと鳴った。声を出して笑った者もいた。けれど大半は、ほっとした顔をしていた。楽師たちは弓を下ろしたまま、次の合図を待つのをやめている。
(あら。思っていたより、みなさん嬉しそう)
悲しくはない。ただ、腹が立つだけだ。今夜の席次表は四日かけて組んだもので、直したかった二枚のうち一枚は、この広間の右奥の卓だった。
この国の社交界に魔法はないし、剣で決まることもめったにない。回しているのは、貸し借りと縁組だけだ。
だから夜会というものは、誰を誰の隣に座らせるかで、その夜の揉め事が決まってしまう。
いがみ合う二家を、隣の席にしない。それだけで決闘は起きない。
セラフィナは七年それをやってきた。十五の年から毎晩、控帳をつけてきた。どの家がどこから借りているか。誰が誰と口をきかないか。誰が誰を庇ったか。始まりは、祖母が遺した薄い一冊だった。
王家の夜会の席次表は、王太子の婚約者が組むことになっている。七年前に婚約が決まった日から、それはセラフィナの仕事になった。代わりたがる者が一人もいなかったので、文句を言う者も一人もいなかった。
その冬に一度だけ、耳もとで何かを頼まれたことがある。
「セラフィナ嬢」
ジュリアンが顎を上げた。
「私は今夜、ジョゼット嬢と婚約を結び直す。彼女には君にないものがある」
「まあ。それは何ですの」
「優しさだ」
(優しさ。ええ、それは確かに持っておりませんわね)
男爵令嬢ジョゼットが小さく頭を下げた。指先が震えている。悪い子ではない。それどころか——セラフィナは扇の骨を数えて、その先を考えないことにした。
「あの、セラフィナ様、わたし……」
「ジョゼット様。お顔を上げてくださいまし」
「でも」
「震えていらしたら、あなたが悪いことをしたように見えますわ。今夜のあなたは、選ばれた側ですのよ」
「殿下。今夜の席次表はわたくしが組みました。あと二枚だけ、直させてくださいまし」
「もういい」
「ロベール卿とアンリ卿が同じ卓になっております。あの二家には貸し借りがございますの」
「もういいと言った」
「……嫌われ役がいない夜は、誰かが死にますわ」
「何だと」
「いえ。独り言でございます」
七年、婚約者だった。その七年でこの人は一度も、席次表というものを見たことがない。
「君の悪行は数えてきた。七十四件ある」
ジュリアンが侍従から黒い表紙の帳を受け取った。糸で綴じた背は、まだ新しい。
読み上げる声は王太子のものだが、その帳の字は宰相のものだった。細くて整っていて、行の頭が一分も揺れていない。
「一件目。七年前の冬。ヴァレンヌ嬢はゴセ男爵家に金を貸しつけ、返せぬなら娘を出せと迫った」
広間の後ろで、ゴセ男爵が目を伏せた。
「十二件目。六年前の秋。オルレアン大使館の金を強請った」
大使館の一団は、誰も動かなかった。
「三十件目。四年前の春。ベルニエ伯爵令嬢の婚約者に手を出し、縁談を壊した」
ベルニエ伯爵夫人が扇で口を隠した。その令嬢は三年前に別の家へ嫁いで、今は子が二人いる。
「四十一件目。三年前の夏。レーヴ侯爵家のご次男を賭場に誘い、身を持ち崩させた」
侯爵家の席から、扇を動かす音がひとつ消えた。
読み上げは長かった。蝋燭が指の幅ほど短くなるまで、それは続いた。名を呼ばれるたびに広間のどこかで扇が下りて、下りた扇は二度と上がらなかった。
罪状は日付の順にきちんと並んでいた。並べたのはこの帳を書いた人で、その人は今、彼女の斜め後ろに立っている。
「五十八件目。二年前の冬。ラフォン子爵家の借金を宴席で読み上げて笑った」
その名で、一人だけ顔を上げた者がいた。ラフォン子爵家の次男ティボー。十七になったばかりの、気の弱い子だ。目が合って、すぐ下を向いた。
セラフィナは日付を追っていた。
七年前の冬は、ゴセ男爵家の借財が表に出そうになった三日後だ。次の年の秋は、前任の大使が帰任を急いだ月。四年前の春は、ベルニエ伯爵令嬢の相手が賭場で借りを作った週。
七十四件。どれも、誰かの醜聞が転がり出しそうになった直後の日付だった。
もっと酷い噂が出れば、前の噂は忘れられる。それだけの仕組みで、誰かが自分の名を差し出せばいい。
(……よく数えてくださったこと。一件も抜けておりませんわ)
この七年、彼女に泣かされたと名乗り出た者は一人もいない。七十四件あって、被害者が一人もいない。
誰も気づかない。数える人が、一人もいないからだ。
「六十九件目。去年の秋。ヴァレンヌ嬢は、王家の夜会の席を金で売った」
その卓の家が、扇を膝に下ろした。
立っているだけなのに、踵が痛くなってきた。七年、この床で立ち通してきたのに、今夜だけは長い。
一度だけ、自分で数えてみようかと思った年がある。やめておいた。数えれば、誰に何をしたか思い出す。思い出せば、言いたくなる。言えば、七年ぶんが全部、みっともない自慢に変わる。
「以上、七十四件。これでも君は、社交界に必要か」
「殿下。ひとつだけ伺ってもよろしいですか」
「何だ」
「その七十四件で泣いたという方は、これまで何人いらっしゃいましたの」
「……何を言っている」
「七年でございますよ。一人くらい名乗り出てくださっても、よろしいのに」
「言い逃れか」
「いいえ。ただの数え直しですわ」
ジュリアンが帳を閉じた。
宰相ドルーエが一歩前に出て、彼女に向かって丁寧に頭を下げた。七年、この老人だけはいつもそうだった。彼だけが彼女に礼を欠かさない。
そして彼だけが、彼女の目を見ない。
侍従が抱えていた写しの束を、ジュリアンが手の甲で払った。
紙が散った。七十四枚。
白い紙が、蝋の落ちた床を広間の端まで滑っていった。
「拾え」
ジュリアンが床を指した。
「拾って、自分の名前を一枚ずつ読み返せ」
「まあ。拾えばよろしいのでしょう」
セラフィナは膝をついた。
寄木の床は磨いてあって、絹を通しても冷たい。蝋の粒が点々と落ちていて、誰かが踏んで潰した跡が白く伸びている。
靴が並んでいる。磨いた黒。金の留め金。四年前に縁談を守ってやった家の靴も、二年前に借金を埋めてやった家の靴も、同じ床に並んでいる。誰も動かない。
ベルニエ伯爵夫人の靴が、半歩だけ後ろへ引いた。引いただけだった。
ジョゼットが一歩、前に出た。
「殿下、わたし……」
「触れるな。これは処分だ」
小さな靴が下がっていった。広間の空気が、そこで少し楽になった。もう誰も、助けなくてよくなったからだ。
「よく平気な顔をしていられるものだ」
後ろで誰かが言った。声の主は分からないし、分からないほうがいい。名前が分かってしまうと、控帳に書いてしまう。
一枚ずつしか拾えなかった。指が滑るのだ。
夜会の日は手を洗いすぎるので、紙の縁がうまく掴めない。七年、この指はいつも紙の縁で切れていた。
「誰か、拾って差し上げなくてよろしいの」
「およしなさい。あの方の味方だと思われますよ」
楽師が調弦を始めた。彼女がまだ床にいるうちに、次の曲の支度が始まっていた。
一枚目の日付を見た。七年前の冬。
あの夜に耳もとで言われた一言を、セラフィナはまだ覚えている。誰にも話したことがない。話せば、あの子の家の話になってしまう。
二枚目、三枚目。日付が指の下を流れていく。冬、春、夏、また冬。七年ぶんの夜が、順番どおりに揃っていた。
七十四枚を集めた。角を揃えて、胸の高さまで持ち上げて、もう一度揃えた。それから立った。
膝の埃だけは払わなかった。払えば、拾わされたことがなかったように見えてしまう。
広間の端で、母が動いた。
公爵夫人オルタンスは娘を見なかった。王太子の前まで進んで、膝を折った。
「殿下。わたくしは、この子の育て方を間違えました」
広間が、今夜いちばん静かになった。
母の背中は、七年前よりずいぶん小さくなっていた。
控えの間の椅子は硬くて、背もたれの彫りが背中に当たった。子どもの頃、叱られるときはいつもこの椅子だった。
母は窓のほうを向いて話した。
「明日から屋敷を出なさい」
「はい」
「あなたがいると縁談が来ないの。七年、一つも来ていないのよ」
「ええ。存じております」
「お母さま。今夜のことは、お父さまには」
「もう伝えました」
「……そう」
「あの人も、ほっとしていましたよ」
「……」
「わたくしがどれだけ恥ずかしかったか、あなたに分かる?」
「……お母さま」
「分からないでしょうね」
窓の外で、庭の灯が一つずつ落とされていく。セラフィナは母の背中に向かって言った。
「お母さま。庭のラベンダーは、そのまま置いておいてくださいまし」
「なぜ」
「虫が減りますの。お祖母さまが植えたものですし」
「……あなたは、いつもそういうことばかり」
母は振り向かないまま出ていき、ドレスの裾の音が遠くなった。
(縁談。ふふ、そちらのほうが困りますわね)
七年、断り続けてきたのだ。嫌われ役が嫁いだら、誰が席次表を組む。
セラフィナは控えの間を出て、広間へ戻った。楽がまた鳴り出している。
ジュリアンは階の下で、ジョゼットの手を取って笑っていた。
彼女は封をしていない紙の束を差し出した。三日前から書いていたものだ。
ロベール家の返信が三日遅れた朝に、そろそろ来ると分かった。金の順番が動く前に、目障りなものを片づけたくなる人がいる。
「殿下。引き継ぎでございます」
「……これは何だ」
「わたくしの七年ですわ」
「七年」
「席次の付け方。返信の遅れの読み方。どの家がどこから借りているか。誰と誰を隣にしてはいけないか。全部書いてございます」
「そんなものが要るものか」
「殿下。はじめの一枚だけでもお読みくださいまし。あの頁が、今年の冬に効きますの」
「そんなものは要らない」
ジョゼットが紙の束を見ていた。口が動いて、何も出てこなかった。
紙の束が胸に押し戻された。
(……そう。要らないと、おっしゃいましたのね)
覚えておく。これは、そういう手続きだ。
馬車を待つあいだ、七年前の冬を思い出した。
あの夜、十四の子どもが震えながら屋敷に来た。応接ではなく彼女の部屋に、侍女の手も借りずに来た。
その子は背伸びをして、セラフィナの耳もとで短く何かを言った。
セラフィナはその夜から、自分の噂を自分で流すようになった。
帰りの馬車の窓に、自分の顔が映っていた。十五のころの顔が重なる。まだ何も失っていない顔だった。
広間のいちばん端に、椅子が一つある。
七年、それがセラフィナの席だった。嫌われ者の隣は空くから、いつもそこに置かれる。
人が引いていく。楽が終わって、蝋燭が半分落とされた。彼女は末席に座って、扇を膝に置いた。
靴の音が近づいて、末席の前で止まった。
「ヴァレンヌ嬢」
隣国オルレアンの大使、レオンハルトだった。手袋を外すのが早い人だ。
「閣下。今夜のわたくしの隣は、ずいぶん空いておりますけれど」
「知っています」
彼は椅子を引いた。断りもせず、隣に。
「事情は聞きません。……兄が六年、返しそこねているものがあるので。今日は、隣に座ってよろしいですか」
「なんの話でしょう」
「そうおっしゃると思っていました」
彼は座った。
「六年、ずっとそれです」
「閣下。明日から、あなたの評判も少し落ちますわよ」
「知っています」
「二度目ですわ、それ」
「二度でも申します」
蝋燭が一本、根元まで燃えて短くなった。
彼は事情を聞かず、慰めも言わなかった。膝の上で手袋を畳んで、また広げて、それだけしていた。
(……お上手ですこと)
セラフィナは扇を開いて、口もとを隠した。隠したい顔をしていたので。
王都の裏通りに、小さな借家を借りた。
侍女のコレットが勝手についてきた。給金は半分にしたのに、パンを焼く腕だけは上がった。
「お嬢様。三枚目ですよ」
「四枚目もいただきますわ」
「追放されたのに元気ですねえ」
「元気でなくなったら、あちらの勝ちですもの」
卓の上には、王城から届いた招待状の写しと、出欠の控えが積んである。追放されても、家の名で届くものは届く。
「ロベール家の返信、三日遅れましたのね」
「三日って、そんなに変ですか」
「あの家が遅れるのは金策のときだけ。四年前も同じでしたわ」
「……で、それが今夜の何に」
「貸している側と借りている側を、隣に座らせられませんの。お酒が入ると声が大きくなりますもの」
コレットがパン切りの手を止めた。
「あの、前から聞きたかったんですけど」
「どうぞ」
「で、お嬢様が嫌われると、何がどう助かるんです?」
「ゴセ男爵家の借財が出そうになった夜、わたくしが娘を妾に出せと迫ったという噂が立ちましたでしょう」
「立ちました。ひどい話だと思いました」
「あれ、わたくしが流しましたの」
「はい?」
「そちらのほうが酷いでしょう。酷い話が出れば、前の話は忘れられますのよ」
コレットが口を開けたまま、パンを落とした。
「……じゃあ、七十四件って」
「七十四回、そういう夜があったということですわ」
セラフィナは四枚目に、たっぷり蜂蜜をかけた。
「嫌われ役がいない夜は、誰かが死にますわ」
「死ぬ!? 死ぬんですか!?」
「席がいけませんと、決闘になりますの。申し込みが成立したら、もう止まりませんもの。……卓を組んだご本人が、間違いだったと言って下げるとき以外は」
「じゃあ、これから誰が席を——」
「どなたかがなさるでしょう。手順は書いて置いてまいりましたわ」
「読めば、できるんですか」
「読めばできますわ。三つ目までは」
「四つ目は」
「四つ目は、読んでもできませんの」
「なんでですか」
「書いてあるとおりにすると、書いた人が嫌われますもの」
コレットが皿を拭く手を止めて、それから、拭き直した。
「お嬢様。あたし、パンを焼いた数だけはちゃんと数えてますからね」
「あら。頼もしいこと」
「誰かが数えないと、なくなっちゃうんですよ。そういうのは」
(……要らないと言われましたけれど)
その分は言わないでおいた。心配させるだけだ。
ひと月も経たなかった。
三つの家が破談した。ベルニエ伯爵家の次女とゴセ男爵家の縁組が流れ、流れた理由が「相手方の借財」だと表に出た。出たとたん、貸金の順番が動いた。誰が誰に借りているのかを、みなが数え始めた。
王城から呼び出しが来た。差出人は、宰相ドルーエだった。
小広間に七十人ほどが詰めていた。各家の当主か、その代理。次の季節の夜会をどう割るかの寄合だ。
セラフィナは扉のところに立たされ、椅子は出されなかった。
「ヴァレンヌ嬢。あれをお持ちか」
「持っております」
彼女は例の紙の束を渡した。要らないと言われて、持ち帰ったものだ。
宰相の脇には帳が二冊挟まっていた。黒い表紙。糸で綴じた背。ひと月前に王太子が読み上げたものと、同じ装丁だった。
宰相が読み上げた。
「一。貸主と借主を同卓にしない。二。返信の遅れた家を上座に置かない。三。破談の噂が出た二家を、同じ月の夜会に呼ばない」
紙をめくる音だけがした。手順は明快で、誰にでも読める字で書いてあった。
「四。前の醜聞より大きな噂を、どこかから出す」
宰相が顔を上げた。
「ここです。ここだけ、書き手の名前が要ります」
小広間が黙った。
七十人ぶんの息の音が、そのまま部屋に溜まっていく。
「では、どなたが噂を引き受けますか」
誰も手を挙げなかった。
七十人が床を見ていた。ゴセ男爵も、ベルニエ伯爵夫人も、四年前に縁談を守られた家も、二年前に借金を埋められた家も、床を見ていた。
(あら。みなさん、急に床がお好きね)
「宰相。それは、誰かが噂を作れという意味か」
レーヴ侯爵が言った。
「そうです」
「作った者は、どうなる」
「七年、この広間で嫌われます」
侯爵は座り直して、それきり黙った。
「どなたか」
宰相はもう一度だけ言ったが、沈黙のほうが長かった。老人は帳を閉じて、誰の顔も見なかった。彼女の顔も、見なかった。
「わしは王家の名を守った」
宰相が言った。
「誰かの名を汚さねば守れぬものが、この国にはある」
「存じております。七年、ご一緒でしたもの」
扉のところで、セラフィナが言った。
「ブレ伯爵令嬢がおできになります。……ただし、二人で。片方だけが汚れる仕組みは、もう終わりですわ」
部屋の隅で、地味な装いの令嬢が顔を上げた。マルグリット・ブレ。手だけが速くて、誰にも好かれない娘だ。
「二人とは、どういう意味かな」
「一人が席を組んで、一人が噂を引き受けます。次の年は入れ替わりますの。片方が七年続けると、こういうことになりますでしょう」
「……そなたは、それを今日まで言わなかった」
「申し上げる相手が、七年おりませんでしたので」
宰相は帳の背を撫でただけで、何も答えなかった。
寄合が引けたあと、そのマルグリットが廊下で待っていた。
「余計なことを」
「まあ。お礼はけっこうですわ」
「礼など言わない」
マルグリットは目を合わせなかった。
「あなたは嫌われ役を選べた。私は選ぶ前から嫌われていた」
「ですから、二人と申し上げたのです」
「同情のつもり」
「割り勘のつもりですわ」
マルグリットは何か言いかけて、やめた。
「……割り勘なら、考える」
そう言って、先に歩き出した。歩くのが速い人だった。
その二日後の夜、借家の戸が叩かれた。
マルグリットが立っていた。雨に濡れた帳を抱えている。借財の帳だ。
「今夜、ロベール家とアンリ様が隣だわ」
「席次は、どなたが」
「殿下。ご自分で組まれた」
「……何名の卓に」
「六名。ラフォン子爵家も同じ卓」
セラフィナは外套を取った。
「コレット、留守をお願い」
「お嬢様、追放されてるんですよ」
「ええ。ですから走りますわ」
マルグリットの招待状に、連れの名を書き足してもらった。門衛は帳面から目を上げなかった。広間はもう、声が大きくなっていた。
卓の向こうで、アンリ卿が笑っていた。
「ロベール卿。あなたの借りは、そちらの子爵家が名を貸してくださっているそうだ。ご立派なことだ。返せぬ家の名を、返せぬ家が保証する」
「アンリ卿。その話は、卓の外でしていただきたい」
「卓の外で払っていただけるならな」
ロベール卿が立ち、ラフォン子爵は下を向いた。
そのとき、子爵の隣で細い体が立ち上がった。ティボーだ。顔が白い。
ラフォン子爵が息子の腕を掴んだ。ティボーは、その手をそっと外した。
「アンリ様。父の名は、出さないでください」
「ほう」
アンリ卿が手袋を外した。
「では、お前が出るか」
手袋が卓に落ちた。落ちる音は小さいのに、広間の端まで届いた。
申し込みは、卓に落ちた時点で成立する。
セラフィナは人を分けて、前へ進んだ。
「お待ちなさい。アンリ様、その卓を組んだのはわたくしではありません。組んだ方に下げていただきます。今夜の分は全部——」
「お前は追放された。口を出すな」
ジュリアンが彼女の前に立ち、伸ばした手の先が、彼の胸に触れて止まった。
「殿下。あの子は十七ですわ」
「順序というものがある。申し込みは成立した」
「成立させたのは席次でございます。あの卓を作った方が下げれば、まだ間に合いますわ」
「席がどうした」
「貸主と借主を同じ卓に置いたのです。はじめの一枚に書いてございました」
「……そんな話は聞いていない」
「聞かないとおっしゃったのは、殿下ですわ」
「誰の責任だと」
ジョゼットがジュリアンの袖を引いていた。
「殿下、待ってください、あの、セラフィナ様はいつも、こういうのを止めてらした……」
ジュリアンは振り払った。
庭に出る扉が開いて、人が流れた。秋の雨はもう上がっていて、濡れた石畳が、蝋燭の火を二重に映していた。
誰かが鞘ごと剣を渡した。ティボーは柄の向きを間違えて持ち直した。
立ち合いは短かった。
庭の灯りが揺れて、人の影が石畳の上で一度だけ大きくなった。
ティボーは剣を構えることもできていなかった。三度目で、肩から胸へ入った。
——ああ。間に合わなかった。
セラフィナは膝をついて、その子の頭を膝に載せた。十七の手が彼女の袖を握って、それから軽くなった。
二年前の冬、この子の家の借金を埋めるために、彼女は自分が宴席でその借金を読み上げて笑ったという噂を流した。五十八件目だ。
罪状の読み上げのとき、名を呼ばれて一度だけ顔を上げたのは、この子だった。
庭に人が集まったまま、誰も動かなかった。ひと月前と同じ顔ぶれが、また床を見ていた。
ラフォン子爵が息子の名を二度呼んで、二度目は声にならなかった。
セラフィナは、袖にかかったままの指を、しばらく外さなかった。
四日後、王城の小広間に人が残った。
宰相ドルーエの辞任が言い渡される場だった。七年、王太子を持ち上げてきた顔が並んでいる。
老人は辞任を告げてから、黒い帳を二冊、卓に置いた。
一冊は、ひと月前にジュリアンが読み上げたもの。
もう一冊を、ジュリアンの前で開いた。
「これが、あなたの七年です」
同じ字だった。左の頁に日付と出来事、右の頁に書き換えた先。賭場の借り、夜会での失言、使い切った予算。右の頁には全部、同じ名前が書いてあった。ヴァレンヌ。
「殿下は先月、七十四件を読み上げられました。あれは、この右の頁でございます」
宰相は頭を下げた。
「あの晩、殿下はご自分の七年も混ぜて、あの方の名前でお読みになっておいででした」
誰も声を出さなかった。並んだ顔が、少しずつジュリアンから逸れていった。
七年、彼が広間に入るたび先に頭を下げていた者たちだ。今日は誰も下げない。下げる理由が、たった今、卓の上で消えた。
この場にいない者の名前だけが、二冊の帳の両方に書いてあった。
「……では、私は何を、していた」
答える者はいなかった。
誰かの椅子が鳴って、その音だけが、天井まで届いた。
「殿下。次の季節の割り振りを、お決めいただかねばなりません」
誰かが言った。誰も引き受けたくない仕事を、押し出すための声だった。
その日の午後、セラフィナに書面が届いた。復帰を命ずる、と書いてあった。
彼女はその足で王城へ行き、卓に書面を戻した。ジュリアンは席を立たなかった。
「お断りいたします」
「命令だ」
「命令で嫌われてくれる人間は、おりませんわ」
「では、どうしろというのだ」
「ご自分で組まれるのがよろしいかと。三つ目までは、書いてございます」
「四つ目は」
「四つ目は、殿下がご自分の名前でなさることになりますわ。……お嫌でしたら、ブレ伯爵令嬢に。二人でなさるなら、お引き受けくださいます」
「二人」
「お一人にお任せになるから、七年経って十七の子が死ぬのです」
「……セラフィナ」
「はい」
「私は君に、何かしてやったことがあるか」
「席次表を、七年一度もご覧にならなかったことくらいですわ」
ジュリアンの前に、次の季節の席次表が置かれた。開いた頁は、ほとんど白紙だった。
彼は開いた。しばらく見ていた。それから、また閉じた。
一行も動かせなかった。
「嫌われ役がいない夜は、誰かが死にますわ」
セラフィナは扇を閉じた。
「もう、ご覧になったでしょう」
それだけ言って、帰った。
借家の門に、小柄な影が立っていた。
幾日か、日を置かずに通っていたらしい。降っても、傘は持たずに。
「ジョゼット様。中へどうぞ」
「いいえ。ここで言わせてください」
ジョゼットは息を吸って、それから、はっきり言った。
「七年前の冬、あなたのお部屋で、わたしが言ったんです」
「……」
「『おかあさまが笑えるように、少しだけ、憎まれてくださいませんか』」
風が門の蔦を鳴らして、それから、通り過ぎていった。
「うちの父の借財が出たら、母が晒されるって、みんなが言っていて。わたし、他に頼み方を知らなくて」
「よく覚えていらしたこと」
「忘れていたんです。意味が分かっていなかったから」
ジョゼットの声が震えた。
「『少しだけ』って、言ったんです。少しだけって」
セラフィナは家の中から、祖母の控帳を持ってきた。薄い一冊だ。最後の頁に一行だけある。
——名前を貸しておやりなさい。
「祖母の字ですの。十五でこれを読んで、意味が分かりませんでした。その冬に、あなたが教えてくださったの」
「教えてなんて」
「教えてくださいましたわ。名前は、貸せるものなんですって」
「……ずっと、返せなかったのに」
「貸したものですもの。返らなくても、減りませんのよ」
「セラフィナ様。ティボー様のこと、わたし……」
「ええ」
「あの晩、あなたが止めようとしていたのを、わたし見ていました」
「……見ていてくださったの」
「はい。ずっと見ていました」
ジョゼットが紙を出した。折り目が柔らかくなるまで、何度も開き直した紙だ。殿下の帳の写しを、侍従に書き取らせてもらったのだという。
「わたし、数えたんです。七十四件」
セラフィナは紙を受け取ろうとして、指を引いた。
「一件目、ゴセ男爵家。うちです。二件目、ラフォン子爵家の水争い。三件目、ロベール家の借り換え。全部、日付を調べました」
ジョゼットが顔を上げた。
「日付を並べたら、一件も外れませんでした」
「……一件も」
「全部、どこかのお家が助かった日でした」
セラフィナは何も言えなかった。
「ベルニエのお嬢様は、今のお家で幸せです。子が二人いらっしゃいます」
「……よく、そこまで」
「レーヴ侯爵家のご次男は、今は港のお役をされています。ラフォン子爵家の水争いも、あの年で止まって——」
ジョゼットが口を閉じた。
「……ラフォン様のお家、二件目に書いてしまいました」
「ええ。二件目ですわ」
「ティボー様の分は、どこにも書けませんでした」
セラフィナは紙を受け取った。いちばん下の余白に、指を置く。それから控帳に挟んであった鉛筆を抜いて、紙といっしょに返した。
「ここに、書いてくださいまし」
「でも、助かった日じゃ」
「ええ。助からなかった日ですわ。……七十五件目」
ジョゼットの手が震えて、字が一度そこで止まった。
「うちの母は、あの冬に一度も外へ出ませんでした。出なくてよかったんです。誰も、うちの話をしていなかったから」
「ジョゼット様」
「みんな、あなたの話をしていました」
ジョゼットが紙を胸に抱えた。
「七十四回、あなたが引き受けてくださった夜に、七十四のお家が翌朝も同じ顔で朝ごはんを食べたんです。わたし、それを一件ずつ名前で数えました」
「……ジョゼット様」
「殿下は数えませんでした。わたしも七年、数えなかったんです。だから、いま数えました」
ジョゼットは深く頭を下げた。
「うちの母は、今も笑っています」
セラフィナは扇を開こうとして、手が上がらなかった。
七年、隠すためだけに使ってきた道具だ。隠さなくていい顔を、どうすればいいのか知らなかった。
「……ジョゼット様。お顔を、上げてくださいまし」
「はい」
「今夜のあなたは、数えた側ですのよ」
ジョゼットは顔を上げて、それから走って帰った。走り方が、十四のときと同じだった。
夕方、門の外に馬車が止まった。
レオンハルトが箱を抱えて、降りてきた。
「チーズを持ってきました。オルレアンの」
「閣下。チーズは、あと何種類お持ちですの」
「二十ほど」
「まあ。しばらく通っていただかないと、終わりませんわね」
「そのつもりで数えてきました」
「……ご用はそれだけ?」
「用がないと来てはいけませんか」
「いけませんとは申しませんわ。二つ目もいただきますけれど」
二人は門の内側の段に座った。椅子は、まだ一つしかない。
「閣下。わたくし、ずっと不思議でしたの」
「何がです」
「六年前の秋の、大使館のお金の話。あれをどうしてご存じでしたの」
「兄が、帰る前に一度だけ話しました。全部、自分がやったことだと。……あなたの名前だけは、言えなかったそうです」
「まあ。正直な方ですのね」
「正直な人間は、借りを返せません。だから私が来ました」
「……六年、よく黙っていらしたこと」
「黙っていただけです」
彼はチーズの布を開いた。
「あなたのおかげで平気だった夜が、何度もありましたので」
セラフィナは膝の上で扇を閉じた。閉じてから、もう直す席次表がないことを思い出した。
(……あら。手が空いておりますわ)
空いた手に、彼が布を持たせた。
無遅刻無欠勤の七年が、その夜で終わった。
——翌月、社交界は三度、休むことになる。




