最終話 上弦の月の下で
また新しい春がやって来た。
四回生になった信一郎たち三人は、相変わらず熱心に合気道の稽古にはげんでいた。
大学の柔道部の方は、まだ引退はしていなかったものの、最後の試合では団体戦を後輩たちに譲り、自分たちは個人戦のみに出場したのだった。
そして勝ち上がった結果、決勝戦では同じ大学柔道部同士で、信一郎と謙三が当たることとなってしまった。
太一は準決勝でまたうっかり合気道の技を出してしまい、反則負けで姿を消したのだった。
決勝戦だというのに畳に上がってもあまり緊張していない感じの二人に、観客たちは同じ大学の友人同士の試合だし、まあそんなものなのだろうという目で観戦していた。
確かに遠目には、信一郎も謙三も落ち着き払っているように見えた。
だがそれは、日ごろ誠真館でそういった平常心を失わない訓練をいやというほど繰り返してきた二人だったからそう見えただけで、深いところでは闘士を燃え上がらせていた。
試合開始後、すぐに観客たちは凄まじいまでの攻防を目の当たりにした。
反則ギリギリの合気道の技を連発し、相手を崩そうとお互いに責め立てる。
お互いの手の内を知り尽くしている二人だからこそ、少しの油断が命取りとなる。二人は探り合いながら、なかなか自分の形に入っていけない状態で時間を使い切ってしまった。
ここからは延長戦となる。
有効や技ありでも先にポイントを取った方が勝つ。そういうルールであるにも拘らず、二人は一本勝ちにこだわっていた。
普段の稽古で鍛え上げられた二人だったが、お互いの苛烈さに、やはりスタミナが削られて少しずつ足が止まってきつつあった。
そしてそのまま攻防は三分を過ぎた。今だ満足な技を出せないままお互いに疲弊していた。
熱い戦いを繰り広げる二人を見て、太一だけはもうすぐ決着がつくことを予感していた。
あいつら、お互いに最後のひと技のために温存してやがる。
太一が考えていたように、信一郎も謙三も最後に爆発的な技を発揮すべく準備をしていた。
お互いに戦いの流れを読み、最大の効果を発揮できる動きを頭の中で作り上げる。
二人は試合中の柔道家というより、お互いにとどめを刺そうと狙い合う大型の肉食獣のようだった。
先に仕掛ければ合わせられるかもしれない。
しかし相手に仕掛けられて僅かでも遅れれば一瞬で極められる。
二人はお互いギリギリの間合いで、僅かに踏み込むことを躊躇った。
恐らく動きの止まった二人に指導を与えようとしたのだろう。
審判がピクリと動いた瞬間に信一郎は仕掛けた。
一気に間合いを詰めて袖を取り引き付ける。
謙三は一瞬だけ遅れた。
信一郎はそのまま腕を取って一本背負いの態勢に入る。
体を反転させ、重心を少しだけ引き出した謙三の体を腰ではね上げる。
「おおおお!」
裂ぱくの気合が信一郎の口からほとばしる。
「くっ」
信一郎が僅かに態勢を崩した。
激しい攻防の中で流れ落ちた汗で、ほんの少しだけ足を滑らせてしまったのだった。
一瞬のすきを見逃がさず、謙三が腕を曲げて体をずらす。
信一郎が崩れた重心を戻す前に謙三は奥襟を取った。
尤も得意としている内股に入る。
謙三は足を跳ね上げた。
信一郎の足が浮き体が跳ね上がる。
ドン!
信一郎の体は背中から畳に綺麗に落ちていた。
「一本!」
お互いに大きく肩で息をしながら、謙三は信一郎に手を貸した。
「やられたよ」
「俺の勝ちだな」
こうして学生生活最後の試合は幕を閉じたのだった。
試合を終えて誠真館に戻った三人を、静江はうっとりするような可憐な笑顔で出迎えた。
「みなさん、お疲れさまでした」
その笑顔で三人とも少し紅くなった。
「お風呂入ってますから三人でお入りになって下さい。私、夕飯の準備をしておきますね」
「すみません静江さん。僕達の為に気を遣って下さって」
信一郎が感謝を伝えると、静江は控えめにはにかんで見せた。
「当然です。皆さんすごく頑張られてましたもの」
「え? ひょっとして会場にいらっしゃってたとか?」
「あっ」
静江は慌てて口を押さえた。
「すみません。実はこっそり……」
ちょっと申し訳なさそうに微笑んだ。
三人はその可憐さにまた少し頬を染めてしまう。
「松田さんが優勝、高木さんが準優勝、相馬さんがえーと……」
「準決勝敗退です……」
あまり気に留めてくれて無さそうだったので、太一は少し傷ついた。
「えっと、とにかくお風呂に行って来て下さい。夕食はちょっと皆さんの好きなものですよ」
「え? そうなんですか何だか楽しみだなあ」
謙三が嬉しそうに反応した。
三人とも上機嫌でありがたく風呂に入らせてもらうことにした。
そして風呂から上がって夕食の席に着いた三人は、そこに並んでいたものを三者三様に捉えた。
「アジフライか……」
「ポテトサラダと稲荷もあるな……」
謙三と太一が微妙な面持ちで夕食に向かい合う。
「やった。好物ばかりだ。流石静江さんだ」
大喜びしている信一郎の視線の先で、ポッと頬を染めた静江が恥ずかし気にはにかんでいた。
優勝したのは謙三だったのだが、夕食の献立に何も影響していないことを知ったのだった。
夕食後、少し肌寒いにもかかわらず、三人は縁側でまだ酒を飲んでいた。
大島が優勝祝いにと差し入れてくれた、少し上等の日本酒だった。
三人は陽気に酒を酌み交わす。
内弟子たちは稽古で疲れて、もう離れに戻って行ったので三人だけだった。
そこへ静江が大皿におつまみをこしらえて持ってきてくれた。
酔ってはいたが、三人はすぐに正座をして姿勢を正す。
「すみません。また静江さんに気を遣わせてしまって」
「いいんですよ。今日はゆっくりしてください」
あまり普段は誠真館でそこまで酒を飲まない三人だった。
多分、三人は酔っていたのだろう。
きっと普段なら遠慮して口にしない。そんな一言が信一郎の口から洩れた。
「良かったら静江さんも少し頂きませんか」
「え? はい。じゃあ一杯だけ」
あっさり了承してくれて三人は浮足立った。
「い、いいんですか?」
「はい。私も成人しましたので頂きます。皆さんのようには飲めませんけれど、ちょっと練習します」
「あ、じゃあ、こちらにどうぞ」
信一郎が自分が敷いていた座布団を差し出す。
「すみません……」
少し頬を紅く染めながら、静江は信一郎と謙三の間に座った。
「今日は月が綺麗ですね」
静江の見上げる先に上弦の月が出ている。澄んだ空気のせいか、かなり明るかった。
「本当ですね」
謙三は静江の新しい湯呑に、半分ほど酒を注いだ。
「すみません。では頂きます」
「あ、その前に乾杯しませんか」
謙三の気の利いたひと言に、信一郎も楽し気に賛成した。
「あ、そうだな。静江さんと初めてお酒が飲める記念に」
「そりゃいいな。滅多にあることじゃないからな」
「大袈裟ですね」
静江は仰々しく話すそんな三人に、可笑しそうにクスクス笑った。
「じゃあ静江さんに」
謙三が湯呑を掲げた。
「静江さんとこうして飲めることに」
太一も湯呑を掲げる。
「こうして静江さんと同じ月を見られることに」
信一郎が最後に上手くまとめた。
したり顔をした信一郎に、謙三と太一が不満を漏らす。
「なんだお前だけカッコいいじゃないか」
「いいとこ持っていきやがって」
「へへへ。おれは詩的センス抜群なんだよ」
またちょっと揉めだした三人に、静江はまた可笑しそうにクスクス笑った。
静江の笑顔に三人の表情が自然に緩む。
「私にも言わせてください。そうですね……」
静江はすぐに思いついて口を開いた。
「こんなに素敵な三人に」
静江は湯呑を掲げる。
「それじゃあ駄目ですよ。静江さんが入ってないとむさくるしいだけです。じゃあ素敵な四人にってことで」
謙三がもう一度湯呑を掲げた。
「素敵な静江さんとむさくるしい三人の合わせて四人に」
「ははは、なんだよそれ」
「いや、そうだな。違いない」
「うふふふ。なかなかまとまりませんね」
そして四人は湯呑に口をつける。
喉の奥に流れる冷たい酒を追いかけるように、熱いものが広がってゆく。
「とってもおいしい」
上弦の月が照らし出す静江の微笑みは、三人の酔いを醒ましてしまうほど可憐で美しかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
「ひかりの恋」のサイドストーリーとして、誠司の父信一郎と亡き母静江の出会いと恋模様を描いた本作は、親友の松田謙三と相馬太一との友情をふんだんに盛り込んだ物語となりました。
ちょっと癖の強い誠司の祖父、大島誠太郎の興した誠真館があり、その技が信一郎、誠司へと受け継がれていったことで「ひかりの恋」の冒頭で起こる事件からひかりを救うことが出来たのだという意味では、一つの大きな出発点であったと言えるかもしれません。
誠司は父信一郎と一途なところがそっくりです。運命的な出会いをした誠司と信一郎。同じ様に命をかけた経験を持つ父子だからこそ多くのことを共感しあえる関係なのだと思います。
そしてきっと信一郎は、誠司とひかりの姿に若かりし日の自分と静江を重ね合わせてしまっているのでしょう。
サイドストーリー「若き獅子は目覚めてからも夢を見る」はここで完結し、これから「ひかりの恋」は最終章へと突入していきます。
暖かくひかりたちを応援して下さった皆様、願わくばもう少しこの子たちを見守ってあげて下さい。
最後にもう一度。
お付き合いくださってありがとうございました。
そしてまたきっとお会いできると期待しています。
ひなたひより