(三)
恵さんに聞いた結果から、童子くんが薬を飲んでいないことが露呈してしまった。彼女は、彼が誤魔化すために貼っていた薬の包みは恐らく偽造の可能性が高いと眉を顰めている。
「でもいけない患者ね。抗血栓薬は生涯に渡って飲んでもらいたいものなのに」
呆れた顔でぶつぶつ言っている彼女の言葉は、私の耳を通り抜けていくだけで留まりはしない。
なんだかんだで文句は言うけれど、一度も内服を怠ったことがなかった彼は一体いつから飲むのを止めて、偽造に奔るようになってしまったのだろう。頭の中をただそれだけがぐるぐると巡り、思った以上に私は自分がショックを受けていることに気付いた。
「大丈夫?」
「え……? あ、はい。大丈夫です」
心配そうな表情で見つめてくる恵さんに対して、笑顔を浮かべる。しかし彼女は表情を和らげるどころか、ますます強張らせた。
「あのね、東雲ちゃん。無理して笑おうとしなくていいのよ。笑えない時は笑えないままでいいんだから」
「そうですね」
諭すような彼女の声色に、ハッとした私は浮かべた笑顔を消した。いつの間にか患者の前だけではなく、誰の前でも常に笑顔を浮かべてしまう癖がついてしまったらしい。
道理で最近、顔が引き攣って仕方ないわけだ。
「患者の前で笑顔でいるというのはいい心がけだと思うわ。笑顔で接しられて気を悪くする人なんて、よっぽど性格がひん曲がっていない限りはいないもの」
話が逸れたわね、と彼女は浮かべていた微笑を消して真面目な表情へ切り替えた。この件については、彼女も見過ごせないらしい。証拠に眉間に皺が寄っている。
「本来なら、なんで飲むのを止めたのか洗いざらい吐いてもらうべきなんでしょうけど、それじゃあただの恐喝にしかならないわ。何か理由があるはずなの」
「理由ですか」
恵さんの言う通り、今まで続けてきた内服を止めるなんてことは正気の沙汰ではない。今は変化はなくても、いつか遠くない未来には必ず命に関わるだろう。
通常飲むのを止めてしまった場合、薬物にもよるが効能が持続するのは約三週間程だと言われている。
「こればかりは、童子くんのことに詳しい方じゃないと分かりませんね」
「誰か宛はないの?」
宛と言われて浮かぶのは、老妖怪達の顔。雪葉さんや奪衣婆ならともかく、タマさんが協力してくれるかどうか実に怪しいところだ。どういうわけか彼女は童子くんにのみ接し方が冷たい。
今回の件を伝えたところで、どうせ“あの爺がくたばっても、わたしには関係ないね”とか言いそうなものである。いや、絶対に言う。
「何か心当たりでもあるの?」
「まあ、あるにはあるんですけど。三人のうち一人が果たして協力してくれるかどうか心配で……」
例え協力してもらうことになったとしても、全てを話してくれるのかと問われれば、私は自信を持ってイエスとは言いきれない部分がある。
「あるのならいいに越したことはないわよ」
「はい。でも童子くんはどうするんですか? 私が何か嗅ぎ回っているのがバレたら、そこで終わりですし」
タマさんは滅多なことでは外に出ないし、雪葉さんはせつなさんの所へ、奪衣婆に至っては外で一度も見かけたことがない。なので自然と揃って会う場所の候補は診療所だけとなる。
当然童子くんも診療所通いなわけで、私達との鉢合わせは避けられない。
「ふふっ、彼の相手はあたしに任せて」
首を傾げている私を見て、恵さんはウィンクをしてみせたのだった。
❆
「あはは! それで調剤室から悲鳴が聞こえてきたわけね、何事かと思ったよ」
遅れて休憩室に入ってきた私が、一連の出来事を話し終えると八坂は腹を抱えて笑っていた。というより、今も笑っている。いくらなんでも笑いすぎだ。
「笑い事じゃないですよ。こっちは本気で殺されるかと思ったんですから」
笑いすぎて涙を浮かべている彼を見て、ムッとしつつ卵焼きを口に運ぶ。あの怖さは実際に体験してみないと伝わらないだろう。
何より人間というのは本当に驚いた時、声すら出ないということが分かっただけでもいいのかもしれない。
「はー、面白かった……で、恵さんが童子さんの相手をすると言い出したんだ、意外だね」
「意外なんですか?」
ハンバーグを箸で半分に割りながら問う。絶叫でいらないエネルギーを消費してしまったせいか、空腹感が半端ない。
「うん、彼女は滅多に人前には出ないからね。自分から患者を相手にするなんて言い出すのは、僕がここを継いで以来初めてだよ」
へえ、そうなのか。切り分けたハンバーグを口にしようとして気付く。継いで以来? 私はてっきりここを開いたのは彼自身だと思っていたが違うのか。
「四ツ辻診療所って、八坂先生が開いたのでは?」
「いやいや、その時僕はまだ医学生だったから」
どれくらい前かと聞こうとして口を噤んだ。聞いてもきっと驚くだけだ。それにあまりこの話題には触れない方がいい。
過去を懐かしむような笑みを浮かべていながら、どこか踏み込ませまいとしている彼を見て、一言そうですかと返した。初めて線引きをされた。
彼の過去には大いに興味があるし、今の話にしても根掘り葉掘り聞きたいくらい気にはなるが、これ以上触れてほしくないと線を引かれてしまってはどうしようもできない。
「そういえば八坂先生、奪衣婆さんの通院日って確か再来週ですよね?」
若干重くなってしまった空気を何とかしようと、話題を変えた。元々聞くつもりではあったため、順序が少し逆になっただけだ。
「そうだよ、彼女の通院日は……再来週の火曜日だね」
仕事用のタブレットを操作しながら彼は答えた。タブレットを使って患者や家族に病状説明を行う医師がおり、彼もまたその一人である。
愛用の機械の中には、各患者の通院日、病状経過、服薬情報などが記録されている。
「火曜日ですね、ありがとうございます。恵さんにも伝えないといけませんね」
「彼女の所に行くのなら、今度は驚かされないようにね?」
「二度目はありませんから!」
忙しくしている間に奪衣婆の通院日がやってきた。あれから童子くんは一度も診療所に顔を出していない。何度か八坂と共に彼の家へ行ったが、当然の如く帰れ入院はしないの一点張りで中にも入れない始末だ。
どうやら彼は、他の患者よりも悪い意味で我儘らしい。おまけに薬も飲まない問題患者だ。今のところ彼がワースト一位である。
「童子くんって、座敷童子なんですよね?」
タマさんと雪葉さんに加わり診療が終わって引き留められた奪衣婆が、受付前に集まって私の素朴な疑問に何を今更といった視線を向けてくる。
「急にどうしたんだい」
「いえ、普通の座敷童子って他人の家に住むんじゃないんですか?」
何と言おうが彼は幸福を呼ぶ座敷童子。住み込んだ家庭に幸福をもたらすのが本来あるべき姿だろう。
しかし彼は小さな一軒家に一人暮らしときた。例え住んでいる所が他人の家だったら、それはそれで踏み込みにくいことこの上ないが、一人暮らしというのもどうもしっくりこない。
正直に言えば変の一言に限る。
「前は老夫婦のところに住んでいた。でも、その夫婦が亡くなってからはずっと一人さ」
奪衣婆が記憶を辿るように話しているのを見ながら、他の一人と一匹の反応を盗み見る。雪葉さんは相槌を打っている以外特に変わりない。タマさんはというと、夢の世界へ旅立ってしまっている。
「少しは役に立ったかね?」
「はい、もちろんです。ありがとうございます。じゃあ童子くんが今住んでいる家は、元々はその夫婦のものなんですか?」
「いや……家は、ずいぶん前に取り壊されたんじゃなかったかね。その後に建てられたのが今の家だったはず」
「なるほど。ちなみに、どれくらい前のことですか?」
「ざっと百年前くらいさ」
「ひゃ、百年……」
聞かなきゃよかった気もするが、多少情報が得られただけでもいいと思うことにする。
老夫婦のこと以外は他に何の情報も得られそうになかったので、各老妖怪達にお礼を言ってひとまずお開きとなった。
「鍵は老夫婦なんでしょうか?」
メモに聞き出した情報を簡単に書いていきながら、私は目の前で読書をしている八坂に声をかけた。
「でも得られた情報って、これだけなんでしょ? 老夫婦を今回の問題の鍵とするのは早計じゃないかな?」
「やっぱりそう思いますよね。あー、童子くん自体に話を聞けたらいいんですけど」
眠気を覚ますために伸びをする。休憩時間とはいえ夜中なわけで眠くなるのは抗えない。欠伸を噛み殺していると、大きな音が診療所内に響いた。
何かが派手に倒れたと思わせるような音。無言で顔を見合わせた私と八坂はすぐに休憩室を飛び出した。
そして音が聞こえた入口の方へ向かうと、そこには童子くんが倒れこんでいた。
「童子さん!?」
「大丈夫ですか!」
慌てて彼の元へ駆け寄り意識がないことと呼吸が止まっていることを確認した私達はーー
「呼吸停止確認……CPR(心肺蘇生)開始します」
その場で心肺蘇生を始めた。八坂が主に胸骨圧迫を、私は人工呼吸とAEDを担当する。胸部に両手を当てた状態で肘は曲げずに真っ直ぐ伸ばし、全体重を掛けて一定のリズムで圧迫し全身に血液を巡らせる。
「二十七……二十八……二十九……三十!」
彼が三十回胸骨圧迫をしたところで、私が童子くんの額に手を当て顎を持ち上げ気道を確保し人工呼吸をする。
目で胸部が確実に膨らむのを確認しながら、二回息を吹き込む。そのサイクルを地道に繰り返す。
「八坂先生、AED装着します!」
「分かった……っ」
息切れし始めた彼の代わりにAEDの電源を入れ、アナウンスに従って二枚のパットを指定された場所に貼りつける。
『これより電気ショックを行います。患者から離れてください』
周囲に誰もいないことを確認してボタンを押すと、童子くんの身体が微かに跳ねた。AEDは心電図の解析を行っている。
『心電図の解析終了しました。反応ありました』
「先生っ……!」
泣きそうになりながら彼を見れば、彼は童子くんの胸に耳を当てていた。そして心臓の鼓動を聞き取ったのだろう、疲労を浮かべた表情が安堵の色に変わる。
心停止を確認してから実に三分。これ以上時間が経過すれば、生存の確率は格段と下がっていくのみだった。
もう助からないのではという気持ちが芽生え始めていただけに、私達は座り込んでしまう。荒い呼吸を整えて、顎から伝う汗を拭った。
身体がまだ震えている。もし、息を吹き返さなかったらと思うと。
「よかったっ……本当によかったっ」
意識が戻らないままの童子くんの血色づいた顔を見て、私は嗚咽を漏らしながら溢れてくる涙で頬を濡らした。




