(一)
短い秋が過ぎ、あっという間に季節は冬になった。気温は一桁まで下がり空気も乾燥している。十二月初旬の四ツ辻診療所では、ポチポチとインフルエンザの患者が現れ始めた。不思議なことに、彼らは胃腸は丈夫なようで食中毒やノロウイルスに罹患しないのだ。
「うん、こんな感じでいいかな?」
開業前の待合室の一角をスクリーンで仕切り、インフルエンザの患者を隔離できる場所を作成した私は、出来上がったスペース内を見て頷いた。長椅子を四脚置いて、専用のティッシュやゴミ箱も設置してある。加湿器は待合室全体に対して二つ置いてあるため、これ以上増やさない。
「よし。必要な物が揃っていれば大丈夫だね」
最後に“インフルエンザ患者専用スペース”という札をつけた。
❆
「おい! 少し指を切っただけで血が止まらないんだけど、どうなっているんだよ!」
また来たなと私は目の前の患者を見ながら、なんとか笑顔で応対する。後数分で日付が変わる夜の診療所には、受付のカウンターから子供の声が反響していた。他の患者達は毎度のことだと知っているため、気にする素振りもない。
「ですから、以前この薬は血栓をできにくくするものですので血が止まりにくくなると、紙面にて説明いたしました。きちんと紙もお渡ししましたよ」
「そんなの聞いてないし、貰ってもいない!」
先程から何度渡したと主張するも、知らぬ存ぜんで全くと言っていい程聞く耳を持ってもらえない。別に今日が初めてというわけではないが、さてどうしたものだろうか。
「お薬手帳に紙を挟んでお渡ししました。帰宅してからご自身のお薬手帳の中は確認しましたか?」
私はカウンターからこちら覗いている癖っ毛のある小さな頭を見つめていたが、やがて待合室へと出て目線を合わせようと中腰になる。
「したさ! けど無いから言っているんじゃないか!」
じっと見つめれば視線を逸らす。ははーん、さては紙を失くしたな。
聞く者によって騒音とも呼べる強い主張を述べている張本人は、小さな拳を握り締めて叫んだ。黒で癖っ毛のある髪に蒼い瞳、無地の翠の着物の上に青の半纏を着ている男の子だ。
彼は怒りで頬を膨らませながら、上目遣いで私を見つめてきた。不覚にも可愛いと思ってしまうが、こう見えて幸福を呼ぶ座敷童子なのである。
座敷童子こと、通称童子くんは去年の冬に心筋梗塞で倒れて診療所に運び込まれ緊急でステント治療を受けた。見た目は齢五〜六ではあるのだが、本当は奪衣婆と同じくらいにかなり古株の老妖怪。
おまけにほんの些細なことでも過敏に反応し、こうして文句をしょっちゅう言ってくる。まあ文句くらいなら多少は目を瞑るがーーそろそろか。
「もういい! あの優男を出せ!」
ほらきた。そう、彼の問題点は過敏症に加えてこの気性の荒さだったりする。
「あ、ダメですよ! 八坂先生は今診察中なんですから!」
診察室に入り込もうとする童子くんの前に回り込み、真正面から抱きかかえて引き留める。なんて軽いのだろう。腕の中で抱えられた彼は目を一際丸くさせた後、暴れ出した。
「うわっ、離せよ!」
「いいえ、離しませんっ」
ぎゅうぅと強く抱き締めると、派手に暴れていた彼は糸が切れたようにぱたりと大人しくなった。やれやれ、どうにか諦めてもらえたようだ。
「先生との面会の時間なら調整しますから。もう少し待っていてください」
視線を腕の中に落とすと、彼は茹で蛸みたいに顔を真っ赤にさせていた。患者に対して少しやりすぎてしまったかもしれない。今更ながら、申し訳なさが込み上げてくる。
「なんだか騒がしいね、って紫苑ちゃん何してるの?」
診察室から患者が出てきた後に、八坂が騒ぎを聞きつけて顔を出した。辺りを見渡していた彼の目は、私に抱っこされている童子くんを捉えたらしく不思議そうに近づいてくる。
「あれ、童子さんじゃないですか。どうしたんですか?」
「優男か。いや、別にこれは……」
「実は話があると来られたので八坂先生は診察中ですと伝えたのですが、構わず診察室に入り込もうとしたのでちょっと抱え込ませてもらいました」
未だに顔を赤くしている童子くんがはぐらかそうとしたため、私はすかさず簡潔に状況を伝えた。八坂はああ、それでこういう格好なわけだねと納得する。
「なら早めに話を聞いた方がよさそうだね。ちょうど診察にも区切りがついたところだから。こちらへどうぞ、童子さん」
ようやく抱っこから解放された彼は恨めしげな瞳でちらちらと私の方を見ながら、八坂の後に続いて診察室の隣の談話室へ入って行った。
「全く……毎日毎日騒がしい爺だね」
「童子の奴は相変わらずじゃのう」
カウンターに置かれた籠の中で経緯を傍観していたタマさんの隣には、いつの間に来ていたのか雪葉さんの姿がある。彼奴は鬱陶しいと顔を逸らす猫に対して、雪女は昔から賑やかな奴だと笑っていた。
前に八坂からこっそり聞いたことがあるが、タマさんと雪葉さんと奪衣婆と童子くんは同年齢の老妖怪なのだそうだ。人間で言うなら、同級生にあたる間柄だとか。
「昔からああいった性格なんですか?」
受付のカウンター内に戻った私は、童子くんをよく知っている猫達に聞いてみる。記憶が正しければ、彼は入院している間から今日までずっとあんな感じだった。
「さあ、どうだったかね」
目を閉じたままタマさんは考え込む。耳は動いているが、今にも寝そうだ。会計の仕事も一区切りついたから休憩へ入るらしい。
「いいや……昔は過敏で気性の荒い奴じゃなく、素直で賑やかな好青年だったのじゃ」
すやすやと寝ている猫の代わりに雪葉さんが教えてくれた。素直で真面目な部分はともかく、好青年ってあの姿で? 今でも姿と中身のギャップがすごいのに想像がつかなさすぎる。
「じゃあ、どうして気性が荒くなってしまったんでしょうか?」
「うむ、さすがにそこまでは儂にも分からんのじゃ」
何せプライベートな話題はしなかったからのう、と当時を思い出しているのか彼女は懐かしそうに瞳を細めていたが、ふと思ったのか私を見つめてきた。
「何故そこまで童子に拘る?」
「童子くんは心筋梗塞を起こしているんですよ。気性が荒いというのは常に心身にストレスが掛かるわけですから、心臓に負担が掛かっていないか心配なんです」
意外にもストレスが原因で起こる病気というものは多かったりする。私が恐れているのは再発するのではないかということだ。心臓に限らず、死んでしまった細胞というのは再生することはないのだから。
談話室の方へ耳を傾けてみると、微かながら騒がしい声が聞こえてくる。八坂が心配になってきた。様子を見に行った方がいいだろうか。
「悪いことは言わないよ。放っておきな」
椅子から立ち上がりかけた私をしゃがれ声が引き留める。籠の中に視線を向けると、タマさんが片目だけを開いてこちらを見ていた。引き留められるのも無理はない。今様子を見に行けば、確実に巻き込まれるからだ。
「そ、そうですね。八坂先生なら大丈夫ですよね。私より対応が上手いですし」
「ああ。八坂の坊やに任せときな。好きなだけ喚かせればいいんだよ、あんなショタ爺」
心底気に食わないといった感じで言い放つ猫は童子くんが苦手のよう。それにしてもショタ爺とは、また衝撃な言葉を作ったものだ。
いや待て、ロリ婆があるくらいだ。ショタ爺もそこまで衝撃的な言葉ではない……気がする。
再び椅子に座り考え込んでいる間にも、談話室では男二人の話し合いが繰り広げられているようだった。
「結局、童子くんの話って何だったんですか?」
仮眠と休憩を兼ねた夜中の二時に休憩室で小腹を満たすためにスープを飲んでいた私は、目の前で同じくスープの入ったカップを手にしている八坂に聞いてみた。
彼が、この薬を飲んだら切った指の血が止まらない! と言っていたので大凡の話の内容は察しがつく。
「バイアスピリンの効果で切った指の血が止まらないんだがどうしてくれるんだって、何故か僕が怒られたよ」
「やっぱり、怒られたんですか」
「うん。そもそも心筋梗塞は血栓が原因で起こるんだから、バイアスピリンなどの抗血栓薬を飲むわけだよ。止めるわけにはいかないでしょ」
「まさか飲むのを止めるって言われたんですか?」
驚いて聞き返すと、八坂は困った顔で頷いた。さすがの彼も童子くん相手は疲れたらしく、いつもの笑顔はない。たった一時間相手をしただけなのに、生気を全部持って行かれたかのようにげっそりしている。
「なんとか説得はしたんだけど自己判断で中止しないとも限らないから、目は光らせておいてね」
「分かりました。次から残薬確認します」
よろしくね、と言い残して彼はカップの中身を飲み干すと仮眠室に行ってしまった。足取りが妙にふらついていた気がするが大丈夫だろうか。
残された私は童子くんの残薬確認をどうやって成し遂げようか、ほんのり温かいスープを口に含みながら考える。
基本的に童子くんは人の話を聞いても忘れてしまうし、大切な紙は渡せば失くしてしまう。だが薬だけは絶対に忘れたことはない。きっと本人はわざとではないのだろうが、こちらは不安で仕方ないのだ。
試しにお薬手帳の表紙にでも、残薬確認の旨についてシールを作って貼ってみるか。結果次第では飲み忘れそうな患者に今後使えるかもしれない。部屋の隅に置いてあるダンボールから機械を引っ張り出した私は、黙々と作業に取り組むことにした。
❆
翌晩ーー、
「はあ? 残薬確認?」
「はい。童子くんのことですので、毎日内服は忘れずしてくれていることは分かっています。ただ、中には自己判断で飲むのを止めてしまう患者さんもいるので、残薬確認という方法を取ることにしたんです。そこで、この手段のテスト試行に協力していただきたいのですが……ダメでしょうか?」
案の定お薬手帳の表紙に貼られたシールに気付いた童子くんは眉を顰めた。反応については予想通りであったため、私は『残薬確認のテスト試行』という名目で協力をお願いしてみることにしたのだ。
正直に“勝手に止めてしまわないように残薬の確認をしていいですか?”なんて言ってしまえば、彼の神経を逆撫ですることは目に見えていた。
だから敢えて下手に出ることで一歩先を行き、相手が断りにくい状況を作り上げる。他人が見れば姑息な手段そのものではある。
「ま、まあ……そこまで言うなら、協力してやるよ」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
なんともすんなり彼は了承してくれた。よし、上手くいった! 頭を下げた後、心の中で密かにガッツポーズをとる。
「で、俺は何をすればいいわけ?」
「あ、はい。童子くんにしていただくことは一つです。日付と朝昼夕が印字された薬の包みを、捨てずにこの専用の手帳に貼ってくださるだけでいいんです」
八坂にも協力してもらって新しく作った手帳を渡す。残薬を確認するには残りの薬を数える方法が手っ取り早いが、確実に服用したかという確認も兼ねて包みは捨てないようにしてもらうのだ。
以前働いていた所では患者が薬を飲んだかどうか口を開けてもらい、直接この目で見て確かめていた。本当に服用しているかどうか知りたいなら、目の前で飲んでもらうのが一番だが、そんなことを頼めば信頼されていないと思われる。
折角の苦労を水の泡と化さないためにも、ここは慎重に事を運ばねば。
「包みを捨てずに貼る……たったそれだけ?」
「はい。簡単だと思いますが」
心底胡散臭そうな瞳で見つめてくる彼の視線を受け止めながら、私はあらかじめ用意していた言葉を口にした。
「手帳の中を見てもらったら分かると思いますが、縦に三つ、横に三つ計九マスの欄があります。縦は現在童子くんが服用されている薬の表記で、横は朝昼夕の飲んだ時間を表します。包みを貼っていただくだけで、私達だけではなく童子くんにも一目で残薬が分かるようになっているんです」
「へえー……手帳の全ページに薬の名前は表記してある。これいつ出すの? 一冊で何日分?」
「出していただくのは通院した時ですね。一冊で大体一ヶ月分です。新しいのが必要な場合は受付で言ってくださればいいので」
パラパラと残薬手帳を捲っていた彼は、ふーんと言いながら帯の内側に手帳を直した。どうやらきちんとしてくれるらしい。
「分かった。次来た時に持ってくるよ」
「はい、お願いします」
薬をもらった童子くんは微かに口元で笑って帰って行ったのだった。
『第四回 東雲 紫苑の医療講座』
皆さん、こんにちは。毎度おなじみの、東雲 紫苑です。第三症例はいかがでしたか? なかなか大変な事態となってしまいました。
問題は何一つ解決していない未消化な終わり方でしたが、第四症例で問題の原因が明らかとなります。
さて、それでは今回も病気や用語といったコラムをご用意しました。どうぞ、お立ち寄りください。
【心筋梗塞って、どんな病気?】
手始めに、心臓について少しお話したいと思います。皆さんは心臓がどういった役割を持っているかご存知かと思います。
そう、全身へ血液を送るポンプの役割です。
心臓には四つの部屋があります。私達の目線から見れば左側は右心房、右心室。右側は左心房、左心室となっています。
もっと詳しく血液循環について解説しましょう。
全身を巡った血液は大静脈を通り、まず右心房へ還ってきます。この時静脈の中を流れているのは、二酸化炭素や老廃物等を含んだ静脈血です。
そして、右心房から右心室へと流れた静脈血は右心室から肺動脈を通って肺へ送られます。肺に送られた静脈血はここで酸素を多く含んだ動脈血へと交換され、肺静脈を通って今度は左心房へ流れ込みます。
左心房から左心室へ流れた動脈血は、最終的に強い圧力を受けて左心室から大動脈を通って全身を巡るのです。
これが、一連の血液循環となります。
では、次に心筋梗塞とはどういった病気なのでしょうか。
先の血液循環でちらほら血管の名前が出てきたかと思います。実は心臓は中身だけではなく、表面も細い血管に覆われているのです。
表面の血管を冠動脈といい、主に心臓に栄養や酸素を運ぶ役割を担っています。
この冠動脈が糖尿病、肥満、高血圧、脂質代謝異常(高コレステロール血症など)や喫煙などにより、動脈硬化(プラークと呼ばれるもので血管内が狭くなる状態)を起こします。そこにドロドロの血液が塊となって血栓を作ると、心臓には酸素や栄養が行き届かなくなり細胞が壊死するのです。
簡単にまとめると、冠動脈が詰まることで栄養が滞り、結果心臓の細胞が死んでしまうということで起こる病気が心筋梗塞ということになります。
【主な症状ってどんなものがあるの?】
心筋梗塞の症状として、まず胸痛が挙げられます。痛みは鉛のかたまりを乗せたような重苦しいものだったり、焼けつくような激しいものだったりと様々です。また胸部だけではなく、背中や肩、首などにも拡散することがあります。
他に胸痛が症状としての心臓の病気で狭心症がありますが、痛みが三十分以上続く場合もしくは狭心症の方でニトログリセリンを舌下で五分ごと服用しても胸痛が消極しない場合等は、心筋梗塞と疑っていただければと思います。その時はすぐに救急車を呼びましょう。
その他の症状としては、呼吸困難や吐き気、嘔吐、冷や汗などがあります。
【治療は何を行うの?】
詰まった血管を広げて開通するために、ステント留置の手術を行います。
詰まった血管にまず、バルーンカテーテルを挿入してバルーンを膨らませて道を作ります。次にステントを被せたバルーンカテーテルを通し、バルーンを膨らませて縮んだステントを押し広げた後、カテーテルを抜き取るとステントだけが留置される仕組みです。
これを再灌流療法といいます。
または血栓溶解薬を六時間以内に静脈内投与する手もあります。
術後は抗血栓薬や抗凝固薬を内服することになります。これは非常に重要なものですので、絶対に自己判断で中断しないでください。
治療は他にも色々ありますが、ここまでにしておきましょう。
回復が順調に行けば、社会復帰を目指すために心臓リハビリテーションを行うようになります。
リハビリ療法士の指示に従って、リハビリに励むようにしましょう。
【血栓溶解薬と抗血栓薬ってなに?】
血栓溶解薬とは、血液の凝固によりできた血栓をまだ新鮮なうちに溶解させるものです。出来たばかりの血栓に有効な薬となっています。用途としては、急性心筋梗塞や脳梗塞(ただし出血がない場合)に使用されます。
有害作用として、重篤な出血の危険がありますので出血傾向がある患者には使用しないようにしましょう。
一方、抗血栓薬とは血管が破損した際に生じる血管の収縮と血小板の凝集を妨げる薬です。代表的なものとして、バイアスピリンなどがあります。
補足としまして、心筋梗塞は時に無症状の場合もあります。何かしら異常を感じたら、医療機関に受診してください。また発作は冬場に多く、特に夜から早朝に起こることが多いともいわれています。
体調管理はしっかりしましょうね。




