楓の森
夜、楓の森の奥深くで鹿とカバラが向かい合っていた。
鹿はカバラを一睨みした後、無言でゆっくりと頭を下げた。
「それが答えか?」
そう言い鼻でせせら笑うと、カバラもまたゆっくりと頭を下げた。
二頭の鹿が頭の角を互いに向けあっているその様は月明かりの下だとまるで大きな人間が握手を求めあっているようにも見える。
だが状況はそんな友好的な握手とは凡そ程遠い。
どちらかが死ぬかもしれない。いやどちらとも死ぬかもしれない。そんな予感が辺り一面に立ちこめていた。
「ねぇ! 止めて!!」
鹿の後ろで様子を見ていたターシャは思わず叫んだ。
それを合図に空気が一瞬揺らめく。互いが同時に動いた。
角のぶつかり合う音が楓の森の中に鈍く響く。
一瞬の静寂。
二頭はピクリとも動かない。
しかし、やがてカバラはゆっくりと地面へと倒れ込んだ。それを見てカバラが引き連れてきていた群れの鹿は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
ふふっ、鹿なのに。後に立っていた鹿はそんな冗談を吹かそうかとも思ったが喉が焼けるように熱く声が出ない。カバラの角が分厚い毛皮を僅かに貫いていたのだ。真っ赤な血が後から後から溢れてくる。
鹿はふらつく身体をなんとか必死で保ちながら後ろで見守っていたターシャの元へ歩み寄っていく。
だが、やがて鹿もどさりと地面に倒れ込んでしまった。
木から飛び降りたターシャは鹿の元へ駆け寄り「ねぇ! 嘘! 嫌だ! ねぇ! 鹿くん!」と真ん丸な瞳からポロポロと大粒の涙を零した。
「お願い! 死なないで! ねぇ!」
そんなターシャの叫びに呼応するように鹿の目がゆっくりと開いた。
「……死ぬわけないだろ」
鹿はそう言ってゆっくりと立ち上がる。
「明日も綺麗な場所を探しに行くんだから」
鹿の言葉にターシャは何度も頷く。
「この森で一番綺麗な場所を探しに行こう……ずっと一緒に……」
噛み締めるように鹿は呟いた。
鹿の首元にターシャは抱きつく。
血とターシャの涙が染み込んだ鹿の栗色の毛皮を秋風が優しく撫でた。
まるで楓の森からの手向けとでも言うようにターシャと鹿の頭上に色鮮やかな紅葉が舞い降りる。
嘗ては死ぬしかないと思い始めたはずの旅だったが鹿は今、ターシャと共に生きる場所を探しに夜の森を再び歩き始めた。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。