空と少女
アリアと兄と、兄の友人のお話
それは少しだけ昔の物語、そして、まだ少女の笑顔が無邪気だったころの物語。
まだ雪もない、暖かい日。
「まあそんなに硬くならずに、楽にしてくれよ」
明るい茶色の髪と柔和な笑みが、そう朗らかに言う少年の人柄を表わすかのように優しい色合いとして印象に残る。
立派な屋敷の居間で向かい合い、談笑する二人の少年は、奇妙なくらいに正反対だった。
片や前述の通りであり、もう片方は黒髪にほぼ動かない無表情が、その怜悧に整った風貌を一層際立たせている。
宮廷騎士隊への入隊を目指し、小姓期間を短縮し鍛錬に励むために王立の教育機関が設立されたのは、もう数世紀も前であるという。
十三の歳を数える少年達はその訓練生であり、同級生であった。
互いの家に頻繁に訪れるほど親密ではないにしろ、黒髪の少年が茶髪の少年の誘いを断ることは多くない。要は気が合うといったところか。
黒髪の少年は、明るく笑う旧友の言葉に一つ頷き、差し出されたカップをそっと手に取った。
温かい湯気と共に冷涼に香る紅茶にふう、と息をついたところで、部屋の扉が細く開いた。眼の端に捉えていたその空気の動きを気に留めなかったのは、当の友人がそちらに笑顔のまま向いたからに他ならない。
敵とみなしたものに容赦がないことは、付き合いの中で悟っている。
扉の方を向いた少年はそのままそちらに歩み寄り、訓練慣れしたなめらかな身のこなしでしゃがみ込んだ。
「起きてきてはだめじゃないか、風邪は大丈夫なのか?」
「ええ! おにいさま、おともだち?」
ああそうだよ、と半身を返した友人――ディオスの肩越しに顔を出したのは、細くまっすぐに流れる栗色の髪に、大きな瞳が印象的な少女だった。
十数年も経てば、間違いなく美少女として際立つであろう可愛らしさである。
兄の隠れた人気具合を思えば、そう不思議なことでもないのだが。
血は争えぬものだ、と心中のみで苦笑すると、少年は自分の前までゆっくり歩んできた少女に目を移した。
「はじめまして、おはつにおめにかかります」
「……邪魔をしている」
慇懃に「ごあいさつ」した妹と、挨拶らしきものを返したものの、彼女を無表情で見返した友人を交互に見て、ディオスは苦笑した。
「セイン、名前くらい名乗ってくれよ。これは妹のアリア。今年で四歳になる」
「……これは失礼した。セイン・スカイサードという」
「スカイサード様。いごおみしりおきを」
再びぺこりと腰を折ったアリアを直視して、セインは思わず口元に手をやった。
一生懸命に淑女を目指していることはわかるが、いかんせん年端もいかない少女である。
釣り合わない言動と姿に笑いが込み上げるのは仕方がないことなのか。
「あはは、アリアはすごいなあ」
「すごい、ですか?」
「セインの表情を動かすなんて、並の人間にできることじゃない……そうだよな、ああ、セインも人間だったんだな!」
機械か何かかと思っていたよ、と続けるディオスの恐ろしいところは、全く悪気なしに毒を吐けるところだとセインは常々思っている。
カップを傾けつつ、慣れたとばかりに暴言を聞き流す少年の傍にそろそろと寄って行ったのは、件の妹である。
不思議そうな色を宿して見上げてくる瞳を見返せば、一瞬びくりと肩を揺らしたあと、手を伸ばしてセインの服の端をきゅっと掴んだ。
「…………?」
「アリア、そいつ固まってるから」
くすくすと笑いながら諫めるディオスは、友人と妹の行く末を見守る姿勢を選んだらしい。
助け舟を出す様子はなく、かといってセインに良い対応策が浮かぶはずがない。
部屋に妙な沈黙が流れたまま、若干の時間が経過した。
「………なんだ」
やがて、ようやく渋々といった態で自分に向き合ったセインに、アリアはきらきらと瞳を輝かせて身を乗り出した。
今まで見せていた遠慮のようなもの、その片鱗すらない。早い切り替えに、やはり子供だ、と思う。遠慮勝ちだった両手も既に、ソファに座っているセインの両膝の上だ。
「おにいちゃんのひとみ、きれいな色ね!」
「は?」
「きれいな紫。よるとあさのあいだの、お空の色だわ! どこまでも広い、たかいたかいお空の色!」
高らかに言い切った少女の言葉に嘘がないことは、その笑顔で証明されている。
自分の考えによほど興奮しているのか、先ほどまでかろうじて保っていた淑女の姿勢は、どこかへかなぐり捨ててしまったようである。
へえ、と感心したようにアリアの頭に手をやったのは彼女の兄だ。
「高貴な宝石のようだとは定番だけど、空っていうのは初めてじゃないか? セイン」
さすがアリアだ、と笑うディオスの声は、セインの耳には入っていなかった。
「……空の、色?」
「そう! 晴れた朝の、はじまりをおしえてくれる色ね!」
広く高い空のように、その万物を包む大気のように。そんな強さが欲しいと願ってきた。
殺す強さではない、守る強さが欲しかったのだ。もっと多くのものを、もっと大きなものを、そしてもっと、大切なものを守る力が欲しかった。
(そうか、俺にはそれがあるのか)
目指すものは、傍にあった。
紫霄を宿す瞳で前を見据える少年は、分からないくらいに口端を緩め、微笑んだ。
それを友人が嬉しそうに眺めていることにも気づいていたけれど、どこか気恥ずかしくて、気付かないふりをした。
ただ、それに気づかせてくれた年下の少女に尊敬を覚えたことは、本人ですら気がつかなかった。
――そしてその数年後、上官からの急ぎの書状をもったセインは馬を飛ばし、久しぶりに訪ねる友人の家へと駆けた。
酷く寒く、月のない雪の夜だった。
「……覚えてはいない、だろうな」
「え? すみませんセイン様、聞き取れなくて……」
仕事の手を止めて顔を上げたアリアに何でもないと返すと、セインは休憩を切り上げて腰を上げた。
かつて共に剣を振るった友はすでになく、彼が宝物のように大事にしていた少女が、何の因果か今は一番近い傍にある。
そして少女は今も、セインの瞳を覗き込んでは嬉しそうに目を細める。
朝焼けを見るたびに自分を思い出すのだ、と呟く。
そうして気がつけば、少女は自分の傍らで柔らかに笑んでいる。それを愛しいと思う自分には、いい加減に気付いていた。
少し腰を折って、別れの挨拶がわりというには少し親密に唇を重ねれば、いつまでたっても恥ずかしそうに目を伏せるからたまらない。
(大切なことを気付かせてくれた少女を守れと、そう言っているのか、ディオス)
問いかけるも、答えがあるはずがない。あの雪の夜、すべては終わって、始まった。
いつまでも浸っていたいような甘い空気を振り切り、軍服を整えて一息つけば、青年の纏う空気はすっと切り替わる。
「訓練に戻る」
「はい、お気をつけて」
微笑む少女のやわらかな笑顔は幼い頃見たそれと変わることなく、あの頃憧れた紫霄で咲いていた。
いったんこちらでお話が終わります。機会があれば続きを書いてみたいなと思いますが、これ以上はムーンライトのほうになってしまいそうな…? 折を見て、2人の続きを書ければ嬉しいです。ありがとうございました。