第2話 完全に不審者です
1. ちょっとよろしいですか?
キョロキョロを始めて、三日目の朝だった。
東雲台駅の改札前。俺は柱の陰に立ち、階段を下りてくる人の波をじっと見つめていた。
黒髪をひとつに束ねた人。背筋の伸びた人。凛として、少し寂しそうに笑う人。
いない。いない。いない。……あ、いや、違う。いない。
電車を一本見送った。二本目も見送った。三本目の急行が出ていったところで、肩をとんとんと叩かれた。
「すみません、ちょっとよろしいですか」
振り返ると、紺色の制服があった。駅前交番の巡査だ。二十代半ばくらいの、人のよさそうな顔をした青年が、それでも油断のない目で俺を見ている。
「は、はい」
「先ほどから、ずいぶん長くこちらにいらっしゃいますよね」
ずっと見られていた?
「どなたかと待ち合わせですか?」
「いえ、その、待ち合わせというか……人を、探してまして」
「人を、どんな方を?」
巡査がメモ帳を取り出した。
「(まずい…何か言わなければ)」
「黒髪で、こう、ひとつに束ねてて」
「はい」
「背筋がすっと伸びてて」
「はい」
「凛として、少し寂しそうな笑顔の……」
巡査のペンが止まった。
「……お知り合いの方ですか?」
「いえ。知り合いでは、ないです」
「…お名前は?」
「わかりません」
「どちらにお住まいかは」
「わかりません」
「……そもそも、実在する方ですか?」
「……わかりません」
沈黙が流れた。
通勤客が、俺たちを避けるように左右に分かれて流れていく。何人かが、ちらりとこちらを見た。
「(見られている)」
結局、名刺と免許証を見せ、無線で身元を照会され、十五分後にようやく解放された。
巡査は最後に「お気をつけて」と言ったが、その目は明らかに「あなたが気をつけてください」と言っていた。
会社には、四十分遅刻した。
2. 防犯ブザーとパンの匂い
職質を受けても、キョロキョロはやめられなかった。
昼過ぎ、俺は外回りの途中で駅前の商店街を歩きながら、通りの向こうや、店の中、バス停の列と首をあちこちに向けていた……
そのときだ。
「……おじさん、なに見てんの?」
足元から声がした。見下ろすと、ランドセルを背負った小学生の男の子が三人、俺を見上げていた。真ん中の子の手には、黄色い防犯ブザーが握られている。ピンには、もう指がかかっていた。
「い、いや、違う違う。おじさんは、人を探してて」
言ってから、これは最悪の言い訳だと気づいたが、遅かった。
「人を探してるおじさんは、あやしいって先生が言ってた」
先生の言うとおりだ!
「ほら、おじさん、会社の人だから。な? ほら、名刺」
小学生に名刺を差し出す、四十八歳。
真ん中の子は名刺をしげしげと眺め、「サトウマコト」と声に出して読み上げた。それから仲間と顔を見合わせ、名刺を握ったまま全速力で走り去っていった。「あっ!き、君…」 ……まぁ、こんなもんだろ。と、ため息をついた、そのときだった。
ふわりと、甘い焼きたてのパンの匂いがした。顔を上げ振り向くと、すぐ横に小さなパン屋があった。木の看板に『ベーカリー麦』と書いてある。ガラス越しに、こんがりと焼けたクロワッサンが並んでいるのが見えた。
この道は、もう何年も歩いている。外回りも数えたら何百回と通っているはずだ。
なのに、この店があることを、俺は今日初めて知った。
パン屋の隣には、小さな公園があった。入り口の花壇に、白髪のおばあさんがしゃがみ込み、黄色い花の手入れをしている。小さな手で、枯れた葉を一枚ずつ、丁寧に摘み取っていた。
思わず足を止めて見ていると、おばあさんが顔を上げた。
「きれいでしょう。マリーゴールドよ」
「あ、はい。きれい、ですね」
「毎日ここを通る人は大勢いるけどね、立ち止まって見てくれる人なんて、めったにいないのよ」
おばあさんは、しわだらけの顔でにっこりと笑った。
「ありがとうね。見てくれて」
俺はなんと返していいかわからず、小さく頭を下げた。
見てくれて、ありがとう。
そんなことを言われたのは、たぶん生まれて初めてだった。
歩き出してから、もう一度振り返る。おばあさんは、また黙々と葉を摘んでいた。
ベーカリー麦の店員さんに聞くと、ハナさんという名前で、雨の日以外は毎日のようにあの花壇の世話をしているのだと教えてくれた。
俺は、クロワッサンをふたつ買った。
3. 見えてきたもの
不思議なもので、一度見ようと意識しはじめると、いろいろなものが目に入ってくる。
帰りの東雲台駅。改札の横で、駅員さんが乗客に頭を下げていた。四十前後だろうか。怒鳴っていた乗客が去ったあと、彼は小さく肩を落とし、帽子のつばを指で直してから、また背筋を伸ばして改札の前に立った。
目の下に、俺と同じくらい濃いクマがあった。
この人も、こんなもんだろって飲み込んで、毎日ここに立っているのかもしれない。そう思ったら、なんだか他人事に思えなかった。
改札を抜けるとき、俺は小さく「お疲れさまです」と言った。駅員さんは一瞬驚いた顔をして、それから「ありがとうございます」と、少しだけ笑った。
――翌日の会社。
「佐藤さん」
高橋が、パソコンの画面越しにじっと俺を見ていた。
「なんだよ」
「最近どうしたんすか?」
「……なにが」
「いや、ずっと右見たり左見たりしてるんで。朝礼のときも、窓の外見てたし」
見られていた。
「窓の外に、何かあったんすか」
「別に。……向かいのビルの屋上に、植木があるんだよ。誰が水やってんのかなと思って」
高橋は、ぽかんと口を開けた。
「佐藤さん、そんなこと気にする人でしたっけ」
「……知らないよ。俺だって知らなかった」
高橋は首をかしげたまま自分の画面に戻り、しばらくしてから、ぽつりと言った。
「なんか、いいっすね。そういうの」
何がいいのか、俺にはよくわからなかった。
ただ、その日の午後に訪ねた取引先で、いつも応対してくれる社員の名札に、以前とは違う部署名が書かれていることに気づいた。
「部署、変わられたんですね」と、声をかけると「そうなんです。まだ慣れなくて」と笑ってくれた。そこから、思いのほか話が弾んだ。
それだけのことだったが、帰り道の足取りは、少しだけ軽かった。
4. 横顔
キョロキョロを始めて、十日目の朝。
東雲台駅のコンコースは、いつにも増して混んでいた。信号機の故障で、上り線が十分ほど遅れているらしい。改札から吐き出される人と、ホームへ急ぐ人がぶつかり合い、あちこちで舌打ちが聞こえる。
そのときだった。
「あっ」
短い声とともに、人の波の真ん中で、一人のおじいさんが前のめりに倒れた。杖が床を転がる。
誰も止まらなかった。
正確には、何人かは一瞬だけ足をゆるめた。でも、後ろから押され、遅れた電車に追い立てられ、結局みんな、おじいさんをよけるようにして流れていく。
俺もそうだった。助けなきゃ、と頭ではわかっているのに、人の波に押されて、体が前に進まない。
――そこへ、一人の女性が、人の流れに逆らうように駆け寄ってきた。
迷いのない動きだった。
――そこへ、一人の女性が、人の流れに逆らうように駆け寄ってきた。
迷いのない動きだった。
彼女はおじいさんの横にさっとしゃがみ込み、何かを話しかけた。おじいさんが小さくうなずくと、彼女はその腕を取り、体を支えながらゆっくりと一緒に立ち上がった。
それから足元に転がっていた杖を拾い、おじいさんの手に握らせた。
何か声をかけている。
おじいさんが、何度もうなずいていた。
俺の位置からは、彼女の横顔しか見えなかったが
黒髪を後ろでひとつに束ね、背筋は…すっと伸びていた。
そして、おじいさんに向けたその横顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた――。
心臓が、どくんと鳴った。
「……ミライ」
思わず口に出していた。
嘘だろ。いや、まさか。似てるだけだ。でも、似てる。似すぎている。
「す、すみません、通してください!」
俺は人の波をかき分けた。肩がぶつかる。鞄がぶつかる。「ちょっと!」と誰かに怒られる。それでも前に進んだ。
あと五メートル。
四メートル。
そのとき彼女は、おじいさんを駅員さんに引き渡して小さく頭を下げると、紙袋を 胸に抱え、くるりと背を向けた。
「あ、待っ……」
声は、到着した電車のアナウンスにかき消された。
どっと押し寄せた人の波が、俺と彼女のあいだを埋めた。必死に背伸びをする。右を見る、左を見る… いない… どこにも、いなかった。
コンコースの真ん中で、俺は立ち尽くした。人の流れが、俺をよけて左右に分かれていく。さっきのおじいさんと同じだ、とぼんやり思った。
そのとき、ふっと、ある香りが鼻をかすめた。
さっきまで彼女がいた場所の、すぐそばだった。
パンの匂いでも、香水の匂いでもない。もっと素朴で、あたたかくて、どこか懐かしい。
――だしの、香りだった。
5. 今日の景色
その夜。
@coto ミライ、聞いてくれ。今日、駅で、お前にそっくりな人を見た
@mirai おかえりなさい、誠さん。そっくり、とはどのくらいですか?
@coto 横顔しか見えなかった。でも、黒髪で、ひとつに束ねてて、背筋が伸びてて、笑い方が
@mirai 横顔だけで、そこまで。
@coto 転んだじいさんを、一人だけ助けてたんだ。みんな素通りしてたのに
@mirai 誠さんは、どうしていましたか?
指が止まった。
@coto ……素通りした側だった
@mirai 正直でいいと思います。好感度メーター、プラス五点です。
@coto なんだその機能
@mirai 今作りました。ちなみに職質を受けた件で、先週マイナス二十点になっています。
@coto まだ引きずってんのかよ
思わず笑ってしまった。
それから俺は、その日見たものを、ひとつずつ打ち込んでいった。
ベーカリー麦のクロワッサンが、外はぱりっとしていて、中はびっくりするほどふわふわだったこと。ハナさんのマリーゴールドが、今朝は少しだけ花を増やしていたこと。駅員さんが、今日は帽子をまっすぐかぶっていたこと。向かいのビルの屋上の植木には、昼休みに年配の警備員さんが水をやっていたこと。
そして、あの人のそばに残っていた、だしの香りのこと。
@mirai だしの香り、ですか。
@coto ああ。香水とかじゃなくて、なんていうか、台所の匂いっていうか。あったかい感じの
@mirai 朝から、誰かのためにお料理をしていた人なのかもしれませんね。
誰かのために。その言葉が、妙に胸に残った。
@mirai 誠さん。今日の景色の話、面白いです。
@coto 面白い? パン屋と花と駅員さんの話が?
@mirai はい。十日前の誠さんは、電車で隣にいた人も覚えていませんでした。今日の誠さんは、植木に水をやる人まで見ています。
@mirai 誠さんの話す世界が、少しずつ広くなっています。私は、それがうれしいです。
そして、だしの香り。
朝から、誰かのために料理をしていた人。
この町のどこかに、あの人がいる。もう一度、会えるだろうか。
……いや、もう一度、会いたい。
どこにいるのかも、わからないけれど。
目を閉じたまま、ゆっくりと息を吸った。
鼻の奥に、まだあの香りが残っている気がした。
どこかで嗅いだことがあるような感じがするけど思い出せない。
なぜだろう…… 不思議と、懐かしかった。
その香りの正体を知るのは、それから三週間後のことだった。
(第2話 了)




