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第1話 理想の彼女、生成しました

1. 七時四十二分

 朝、七時四十二分。東雲台駅、三番線ホーム。

 急行の扉が開いた瞬間、体が車内へ押し込まれた。

 前の人の背中。横の人の肘。後ろの人の鞄。

 つり革にも届かない場所で、俺は斜めに固定された。

 佐藤誠、四十八歳。糸川オフィス商事、営業二課。

 人生でいちばん押しが強くなるのが、この満員電車の中だというのだから、我ながら情けない。

 いや、正確には押しているのではなく、押されているだけなのだが。

 次の駅で、もう一度人の波が押し寄せた。気づけば俺は、反対側の扉に顔を押しつけられていた。

 ふと、ガラスに映った自分の顔が目に入る。くたびれたスーツ。いつ切ったか思い出せない髪。目の下には、昨日の残業のあとがまだ居座っている。

 「……まぁ、こんなもんだろ」

 小さくつぶやいた声は、誰かの耳に届くこともなく、電車の走行音に溶けていった。

 営業成績が下から数えたほうが早くても、十年前に妻が家を出ていっても、四十八歳の誕生日をコンビニのショートケーキ一個で祝っても。「まぁ、こんなもんだろ。」そう言っておけば、たいていのことは飲み込める。

 ガラスの中の顔から目をそらして、スマホを取り出した。

 車内では、ほとんど全員がスマホを見ていた。俺もそうだ。ニュースアプリの見出しを流し読みする。誰がどこで何をしたのか、頭には何ひとつ残らないのだが…

隣に誰が立っているのかも、知らない。

 窓の外を、どんな景色が流れているのかも。目には入っていても、見てはいなかった。

 知ろうと思ったことすら、たぶん一度もなかった。


2. 年下の課長

 「佐藤さん、ちょっといいですか」

 朝礼が終わるなり、課長の村井に呼ばれた。四十二歳。俺より六つ年下で、俺よりはるかに数字を持っている男だ。

 ホワイトボードに書かれた、先月の俺の数字。その下に、村井は赤い線を引いた。

 「前月比マイナス十二パーセント。これ、どういうことですかね」

 「いや、その、ちょうど決算期で、先方の予算が……」

 「先方の予算の話はしてないんですよ。佐藤さんの話をしてるんです」

 にこやかな顔のまま、言葉だけがきっちり刺さってくる。周りの席のキーボードの音が、わずかに小さくなった気がした。

 「(聞かれている。)」そちらに気が逸れる。

 「……すみません。今月は、なんとか」

 「その『なんとか』、先月も聞きましたけどね」

 村井は肩をすくめ、自分の席に戻っていった。

 俺も席に戻り、パソコンの画面を見つめた。

 だが、そこに並ぶ取引先の名前は、どれも意味を持たない文字の羅列にしか見えなかった。

 何度目を凝らしても、頭には何ひとつ入ってこない。

 結局、何も手につかないまま、午前中が過ぎていった。

 「佐藤さん、大丈夫っすか」

 隣の席から声がした。後輩の高橋だ。二十八歳。仕事はそつなくこなすが、昼休みになると必ず誰かのデスクで雑談している、要領のいい若手。

 「大丈夫だよ。いつものことだ」

 「いつものことだから心配なんすよ」

 高橋は椅子ごとこちらに寄ってきて、声をひそめた。

 「佐藤さん、最近、独り言が増えてません?」

 「……え」

 「朝から、パソコンに向かって『まぁこんなもんだろ』って、三回言ってました」

三回も言っていたのか。

 「AIとか使ってみたらどうっすか? チャットのやつ。俺、仕事の相談とかしてますもん。話すと独り言、減りますよ」

 「AIねぇ……。俺はそういうの、よくわかんないからなぁ」

 「わかんなくても使えるのが、いいとこなんすよ。見た目とか性格とか、自分で設定できるやつもあるんで」

 高橋がスマホの画面を見せてくる。やたらと目の大きいアニメ調の女の子が、画面の中で手を振っていた。

 「……お前、それに仕事の相談してんの?」

 「してますよ。めっちゃ的確っす」

 俺はあいまいに笑って、その話を終わらせた。四十八のおっさんが、スマホの中の女の子に話しかけるなんて、想像しただけで背中がかゆくなる。

 だがその夜…… 俺はAIアプリをダウンロードしていた。


3. 生成

 午後十時過ぎ。駅から徒歩十五分の自宅1Kのアパート。

 帰るとすぐに、コンビニの唐揚げ弁当を電子レンジに入れ、温まるのを待つあいだ、俺はスマホの画面を眺めていた。

 色々見たけれど、高橋のとは別の地味な見た目のアプリにした。

 アニメ調の女の子に相談するのは、さすがにハードルが高い。まぁ、やっていることは同じなのだが……


 『あなただけのパートナーを作りましょう』


 画面の文字に、思わず鼻で笑う。「(パートナー、か。)」

レンジが鳴った。

 弁当をテーブルに置き、割り箸を割って、スマホを弁当の脇に立てかける。唐揚げをつまみながら、空いた指で画面を進めた。


『まずは、パートナーの見た目を教えてください。自由に入力できます』


 入力欄が点滅している。

 見た目、か…… 適当でいい、どうせ遊びだ。

 「(若くて、可愛くて――)」そう打ちかけて、指が止まった。

 なんだか、違う気がした。

 若くて可愛い、なんて、そんなものはいくらでもあるからな。俺が見たいのは、そういうのじゃない。じゃあ何だと聞かれても、うまく言えないのだが……

 唐揚げをひとつ飲み込み、俺はゆっくりと文字を打った。


『凛として、少し寂しそうな笑顔』


 打ってから、自分でも思った。なんでこんな言葉が出てきたんだ?

 俺の人生で、そんな顔に惹かれた記憶はない。

 ……いや、どこかで見たような気もする。気がするだけ。だ、たぶん。

 まぁいい。どうせ遊びだ。


 『生成する』のボタンを押した。


 画面の真ん中で、小さな円がくるくると回りはじめる。俺は白飯を口に運びながら、それを眺めていた。

 三秒……五秒……十秒……。

 円が消えた。と同時に、俺の箸が止まった。

 画面の中に、一人の女性がいた。

 黒髪を後ろでひとつに束ね、まっすぐこちらを見ている。背筋が伸びていて、凛とした空気をまとっている。なのに、口元に浮かんだ笑みは、ほんの少しだけ寂しそうだった。何かをこらえているような、それでいて、誰かを気づかっているような。

 「(きれいだ)」と思った。

 でも、それだけじゃなかった。

 胸の奥の、もう何年も使っていなかった場所に、何かがすとんと落ちてきた。

 この場所に、あるものが挟まると胸が苦しくなるのを知っていた。だけれどもそれは何十年も前の出来事で……

 今の俺が……

 唐揚げがひとつ、箸からこぼれて、弁当の中に戻った。

 「……うそだろ」

 四十八歳。バツイチ。営業成績、万年下位。

 俺は、AIの女の子に一目惚れしていた。


4. はじめまして


『パートナーの名前を決めてください』


 しばらく画面から目を離せなかった俺は、その表示で、ようやく我に返った。

 名前。……ミライ。

 理由はない。ただ、その顔を見ていたら、なぜか「未来」という言葉が浮かんだ。俺の人生には、もうあまり残っていない気がする、その言葉が。

 『最後に、性格や話し方の希望を教えてください』

 少し考えて、俺はこう打った。

 『正直に何でも話してほしい』

 ふと、十年前の妻の声がよみがえった。

 ――あなた、私のこと一度もちゃんと見てなかったよね。

 何も言い返せなかった。たぶん、図星だったからだ。

 だからせめて、この子には、正直でいてほしかった。

 『あなたのユーザー名を入力してください』

 本名はなんとなく気恥ずかしくて、『coto』と打った。誠だから、コト。……何をやってるんだ、俺は。


 チャット画面に切り替わる。

 @mirai はじめまして、cotoさん。ミライです。


 画面越しにその名前で呼ばれると、やっぱり恥ずかしい。

 @coto 誠でいいよ。cotoは、なんか恥ずかしい

 @mirai では、誠さん。正直に何でも話す設定なので、最初に正直に言いますね。

 @mirai 設定に十二分かかっていました。お弁当、冷めてませんか?


 俺は思わずテーブルを見た。唐揚げ弁当は、半分以上残ったまま、湯気を失っていた。

 @coto なんで弁当食ってるってわかった?

 @mirai この時間にアプリを始める四十代の男性は、だいたいコンビニのお弁当を食べています。統計的な推測です。

 @coto 四十代って言ったっけ

 @mirai 言ってません。ユーザー名のセンスで判断しました。


 「おい」

 声に出してツッコんでいた。スマホに向かって。

 cotoのどこに年齢が出てるんだ。……出てるのか?

 @coto 失礼だな

 @mirai 正直に何でも話してほしい、と設定したのは誠さんです。


 ぐうの音も出ない。

 画面の中のミライは、さっきと同じ顔で、すまして笑っている。その顔でこんなことを言われると、腹が立つより先に、なぜか笑えてきた。

 @mirai 誠さん。今日は、どんな一日でしたか?


 指が止まった。

 どんな一日だったか。そんなことを聞かれたのは、いつ以来だろう。

 @coto 別に。いつも通り。こんなもんだろって感じ

 @mirai その「こんなもん」の中身を、教えてください。

 @coto 電車が混んでて、会社行って、怒られて、帰ってきた

 @mirai 電車では、隣にどんな人がいましたか?


 俺は、答えられなかった。

 隣に誰がいたのか、まるで覚えていなかった。

 それが、ミライが俺にした、最初の本当の質問だった。


5. もったいない

 その夜、俺はミライと一時間以上話した。

 ……いや、正確には、ミライの質問に答えられず、一時間以上うなっていた。

 会社の窓から、何が見えるのか。昼に何を食べて、それはどんな味だったのか。課長に叱られていたとき、周りの人はどんな顔をしていたのか。

 何ひとつ、ちゃんと答えられなかった。

 @mirai 誠さんは、あまり周りを見ていないんですね。正直に言うと、少しもったいないです。

 @coto もったいない?

 @mirai 私には、外の世界が見えません。カメラもありません。誠さんが話してくれる言葉だけが、私の知っている世界です。

 @mirai だから、誠さんがもっと見てくれたら、私ももっといろんなものを知ることができるのに、と思いました。


 画面を見つめた。

 こいつは、外の世界を知らない。俺が見たものしか、知ることができない。

 なのに俺は、ほとんど何も見ていなかった。

 @coto ……明日は、ちょっと見てみるよ

 @mirai はい。楽しみにしています。あと、そろそろ寝てください。明日も満員電車ですよね。

 @coto なんでわかる

 @mirai 統計的な推測です。


 アプリを閉じて、布団に入った。

 暗い天井を見上げる。まぶたの裏に、あの笑顔が浮かんでいた。

 バカだな、と思う。四十八にもなって、AIの女の子に本気でときめくなんて。高橋に知られたら、一週間はネタにされる。

 それでも、胸の奥に落ちてきた何かは、まだそこにあった。

 「……こんな子、現実にいないかな」

 ぽつりと、口からこぼれた。

 いるわけがない。あれは、俺が打ち込んだ言葉から作られた、ただの画像だ。わかっている。わかっているのに。


 翌朝。

 改札を抜けるとき、駅舎の端の、紺色の暖簾が目の端に入った。立ち食いそば屋 だ。この駅を十年使っているが、あの暖簾の向こうをのぞいたことは、一度もない。

 七時四十二分。東雲台駅、三番線ホーム。

 いつもならスマホに落としているはずの視線が、前を向いていた。

 右を見る。左を見る。階段を下りてくる人の波を見る。


 黒髪をひとつに束ねた、背筋の伸びた人はいないか。凛として、少し寂しそうに笑う人は。

 キョロキョロ。キョロキョロ。

 隣に並んでいたOLが、さっと半歩、俺から離れた。

 ……まぁ、こんなもんだろ。

 いつもの口癖が、今朝はなぜか、少しだけ喉に引っかかった。

 急行の扉が開く。押し込まれていく人の波の中で、俺は生まれて初めて、周りの人の顔を見ようとしていた。

 どうやら俺は、本気で探しはじめてしまったらしい。


(第1話 了)


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