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第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 4:清掃ドローンの死角と、不可解な遺留品~

 新校舎から続く旧校舎の廊下は、外で吹き荒れる春の嵐の騒音を適度に遮断し、ひんやりとした古い木材の匂いに満ちていた。


 僕は両腕にずっしりと重い泥だらけの呪物を抱え、前を歩く絶対君主の背中を、おそるおそる追従していた。もはや僕の辞書に反抗という文字はない。月見坂の全てを支配する如月コンツェルンの令嬢に逆らえば、明日には一家離散の憂き目に遭うのだから。


「歩幅が狭いぞ、サクタロウ。いつまでチンタラついてくるつもりじゃ」


 振り返りもせず、絶対君主の冷酷な声が飛んできた。


「すみません! 今すぐ急ぎます!」


 僕は裏返った声で全力の敬語を使い、小走りで彼女を追う。


 胸に抱えた呪いのクマが揺れるたび、両目の空洞にねじ込まれたピーナッツの殻同士が擦れ合い、カサッ、カラッと乾いた音を立てる。そのおぞましい音が耳に入るたび、僕の寿命は確実に数日ずつ縮んでいた。


 旧校舎の最も奥深く。周囲の喧騒から完全に切り離されたような廊下の突き当たりで、如月さんは一つのドアの前で立ち止まった。


 かつての理科準備室か何かだろうか。ドアノブには赤茶けた錆が浮き、長年使われていない空き教室特有の、埃っぽい静寂が漂っている。彼女は躊躇いなくその扉を開け放ち、中に足を踏み入れた。


「よし。ここなら、あの無能な教師どももすぐには探しに来まい」


 僕も恐る恐るその後に続く。


 薄暗い室内には古い木製の作業台と、薬品の匂いがかすかに残る戸棚が並んでいた。だが、僕の目を引いたのは、その部屋の埃っぽさとは全く無縁の、あまりにも場違いな物体だった。


 部屋の隅に、最高級の黒革で設えられた、鈍い光沢を放つ巨大なトランクケースがポツンと置かれていたのだ。


「黒田の奴、手際だけは良いようじゃな」


 如月さんはそのトランクケースを見つめ、満足げに頷いた。


 黒田というのが誰なのかは知らないが、おそらく如月家に仕える使用人か護衛だろう。入学式が始まる前から、彼女はこの空き教室を自らの拠点として目をつけ、私物を運び込ませていたということだ。新入生代表の挨拶をすっぽかす気満々だったという事実に、僕は改めて彼女のスケールの違いを見せつけられた。


「サクタロウ。その不純物は、中央の作業台に置け」


「は、はいっ」


 僕は指示されるがまま、抱えていた呪いのクマを作業台の上に置いた。ベチャッという嫌な音を立ててクマから泥水が滴り落ち、古い木材の天板を黒く汚していく。


「さて、鑑定の儀式に入る前に……」


 如月さんは小さく息を吐き、自らの濡れた右肩に手をかけた。


 そして、部屋の隅のトランクケースの留め金を外し、パカリと蓋を開ける。そこには、真新しい如月学園のブレザーとブラウス、純白のタオル、そして薄紙に包まれた見慣れない布地――おそらくは新しい下着一式――が、高級ブティックのディスプレイのように美しく整然と収められていた。


「雨で濡れた衣服はひどく不快じゃ。思考のノイズになる。わしはこれから着替えるゆえ、サクタロウ、お主はそこの部屋の隅に顔を突っ込んでおれ」


「えっ」


「一ミリでもこちらを振り向いたら、明日にはお主の戸籍を月見坂から完全に抹消し、一家もろとも路頭に迷わせてやるからな。ゆめゆめ疑うでないぞ」


 冗談でもなんでもない、絶対零度の通告だった。


 僕は「ひゃいっ!」と奇妙な悲鳴を上げ、コマのようにくるりと踵を返して、部屋の最も奥にある古い黒板の隅へと全力で顔を押し付けた。


「絶対に! 絶対に見ません! 僕は今から黒板のチョークの粉の数を数えるという極めて学術的な作業に入りますので、どうかお気になさらず!」


 チョークの粉の匂いを鼻先で嗅ぎながら、僕は目を固く閉じた。


 背後で、濡れて重くなったブレザーがバサリと椅子に掛けられる音がする。続いて、肌に張り付いたブラウスが剥がされる、ひどく生々しい水音。


 見えない。見てはいけない。だが、視覚が完全に遮断されたことで、僕の哀れな聴覚は、数メートル後ろで展開されているであろう『絶対君主の全裸への移行』という事実を、無駄に高解像度で拾い上げてしまう。


(落ち着け、朔光太郎。いや、サクタロウ。素数を数えるんだ。2、3、5、7……あああダメだ、シルクが擦れる音がする!)


 顔が沸騰したヤカンのように熱い。


 僕のような旧市街の泥臭い庶民にとって、同年代の、しかもあの絶世の美少女が同じ部屋で着替えているという状況は、致死量の猛毒に等しい。背後から聞こえる、新しい衣服に袖を通す微かな衣擦れの音や、下着のホックがパチンと留められる小さな金属音さえもが、僕の理性を真っ赤に焼き切ろうとしてくる。


 もし一瞬でも魔が差して振り返れば、僕の人生は確実に終わる。一家離散だ。親の泣く顔が脳裏をよぎり、僕は必死に壁の冷たさに額を擦り付けた。


 永遠にも思えるほどの拷問のような数十秒が経過し、やがてトランクケースが閉められる音が聞こえた。


「よし。振り向いてよいぞ、サクタロウ」


 僕は恐る恐る、錆びついたロボットのようにぎこちない動きで振り返った。


 そこに立っていたのは、先ほどまでの雨に濡れた姿など嘘のように、シワ一つない完璧な制服を身に纏った令嬢だった。


 長い黒髪はタオルで手早く水気を拭き取られたのか、しっとりとした艶を放ちながら背中に流れている。彼女の紫の瞳は、一切の羞恥も隙も感じさせない、冷たく研ぎ澄まされた王者の光を放っていた。


「体温の不快感は消え去った。道具も出したことじゃし、さっそくこの不純物を解剖するとしよう」


 作業台の上には、いつの間にか分厚い革張りのノート、アンティーク調の万年筆、そして銀色に輝く折りたたみ式の特注ルーペが、手術前の医療器具のように整然と並べられていた。


 如月さんは作業台の前に立ち、ルーペを右目に当てた。


 部屋の空気が一瞬にしてピンと張り詰める。


「サクタロウよ。先ほどお主も気づいていたようじゃが、この不純物が抱える第一の物理的矛盾はなんじゃと思う?」


 不意に話を振られ、僕はビクッと肩を揺らした。


「第一の矛盾。それはやっぱり、清掃ドローンですよね。あんな目立つ泥の塊が普通に床に放置されていること自体が不自然だというか」


「ほう。怯えた駄犬の割には、最低限の観察力は持ち合わせているようじゃな」


 如月さんはルーペから目を離さずに口角をわずかに上げた。


「そうじゃ。この如月学園の清掃システムは、わが如月財閥の最新鋭AIによって完璧に制御されておる。新校舎はもちろん、あの渡り廊下や旧校舎の一部に至るまで、天井に設置されたドローンが十五分に一回のペースで巡回し、赤外線と画像認識でチリ一つ見逃さず回収するシステムになっておる」


「十五分に一回。じゃあ、あんなデカくて泥だらけのぬいぐるみが、床の上に落ちていて許されるはずがない。ドローンがすぐに飛んできて、アームで回収してゴミ箱にポイですよね」


「その通りじゃ。ドローンのAIは無謬じゃ。人間の清掃員のように、見落としや手抜きなど絶対に発生せん」


 如月さんは万年筆の裏側の金属部分を使って、クマの濡れた布地をそっと押しのけた。


「さらに言えば、この雨じゃ。気象データによれば、この猛烈な春の嵐が降り始めたのは今から約三十分前。もしこのぬいぐるみが三十分以上前からあそこに落ちていたのなら、雨が降る前にドローンに回収されていなければおかしい。逆に、雨が降り始めてから誰かが落としたのだとすれば、そもそもこの入学式の真っ最中に、あんな吹きさらしの渡り廊下を歩く生徒などおらん」


「確かに。じゃあ、誰かが式の直前に、わざわざドローンの目を盗んであそこに捨てたってことですか?」


「捨てる?」


 如月さんは僕の凡庸な推論を鼻で笑った。


「サクタロウ。お主は本当に物事の表層しか見えぬ男じゃな。わざわざ両目を刃物でえぐり、ピーナッツを詰め込むような凄まじい執念と手間をかけた供物を、ただ捨てるためにドローンの目を盗むと思うか?」


 如月さんの冷たい声が、薄暗い理科準備室に響く。


 僕は背筋に冷たい水滴を垂らされたような感覚に陥った。


「これは捨てられたのではない。隠されたのじゃ」


「隠された。あの渡り廊下にですか?」


「左様。それも、ドローンの赤外線センサーやカメラが絶対に届かない場所にな」


 如月さんはルーペを外し、僕の方へと振り向いた。


 その紫の瞳が、僕の平凡な思考を試すように細められる。


「サクタロウ。先ほどあの渡り廊下で、お主はわしの濡れた姿から目を逸らそうと、怯えきって上ばかり見ておったな。あの渡り廊下の天井付近、どのような構造になっておったか覚えておるか?」


 僕の顔がカッと熱くなった。自分の不純な動機による行動が、まさか推理のヒントとして活用されるとは思わなかったのだ。


 僕は必死に誤魔化すように、あの古い木造の天井の記憶を掘り起こした。


「ええっと。新校舎と違ってすごく古くて、太い木材が剥き出しになってて。そうだ、屋根を支えるために、何本も太い梁が交差してました」


「ご名答じゃ」


 如月さんは満足げに頷き、再び泥だらけのクマを指差した。


「このぬいぐるみに付着している泥汚れをよく見てみろ。渡り廊下の床は、雨が吹き込んでいたとはいえアスファルトや土ではない。木の板じゃ。にもかかわらず、このクマはひどく泥にまみれ、さらに厄介なものを身に纏っておる」


 如月さんはトランクから極細のピンセットを取り出し、クマの濡れた毛並みの中から何か極小の欠片をつまみ上げて、僕の目の前に突き出した。


「これを見ろ。繊維の奥深くに突き刺さっていた不純物じゃ」


 僕が顔を近づけて目を凝らすと、それは泥ではなく、腐りかけた木材の破片。古いささくれのようなものだった。


「古い、木の破片」


「そうじゃ。さらに、このクマの背中側には、長期間放置されたことで降り積もった大量の綿埃が雨水と混ざり合い、泥のようにこびりついておる。清掃ドローンが床を徘徊するこの学園で、これほどの埃が蓄積する場所は一つしかない」


 如月さんの言葉に、僕の脳内でバラバラだったピースが急速に繋がり始めた。


 古い木の破片。大量の埃。そしてドローンのセンサーが届かない場所。


「まさか、渡り廊下の天井の梁の上ですか」


「その通りじゃ」


 如月さんは完璧な証明を終えた数学者のように、悠然と微笑んだ。


「このおぞましい供物は今日落とされたのではない。ずっと以前から、あの渡り廊下の天井高く、太い梁の上の死角に隠されておったのじゃ。ドローンは床や壁面しか清掃せん。天井の梁の上など、最初からプログラムの範囲外じゃからな」


「じゃあ、なんで今日になって床に落ちてたんですか?」


「あの春の嵐じゃよ」


 如月さんは、真新しいブレザーの肩をすくめ、窓の外で激しく吹き荒れる暴風雨へと視線を向けた。


「あの渡り廊下には壁がない。今日のような記録的な暴風が吹き荒れれば、屋根の下とはいえ、梁の上に置かれていた軽いぬいぐるみなど簡単に吹き飛ばされて床に落下する。長年積もった埃の塊が吹き込んだ雨水と混ざり合って、あたかも泥だらけのゴミのように見えていたというわけじゃな」


 完璧な論理だった。


 清掃ドローンが絶対のこの学園で、いかにしてこの異物が存在し得たのか。その物理的な矛盾が、いともたやすく鮮やかに解体されていく。


 僕は目の前の少女の異常なまでの知性と観察眼に、恐怖を忘れてただ圧倒されていた。


 これが月見坂のトップに君臨する如月の令嬢。ただ権力と財力があるだけの箱入り娘ではない。彼女自身の頭脳が、刃物のように鋭く研ぎ澄まされているのだ。


「すごい。如月さん、本当に頭がいいんですね」


 僕が思わず感嘆の声を漏らすと、如月さんは少しだけ得意げに唇を綻ばせた。


「当然じゃ。わしは月見坂の全てを裁定する鑑定士じゃからな。それに、これはただの物理的な事実に過ぎん。まだ入り口に立っただけじゃぞ、サクタロウ」


 如月さんは再び泥だらけのクマへと視線を戻した。


 その紫の瞳に、先ほどよりもさらに深い、底知れぬ探求の光が宿る。


「第一の矛盾たるドローンの死角は解けた。だが、真に恐るべきは第二の矛盾じゃ」


 僕の視線も自然と、クマの顔へと吸い寄せられた。えぐられた空洞に詰め込まれた、あのピーナッツへと。


「そうじゃ。なぜこの持ち主は、わざわざ両目を刃物で抉り出し、そこにピーナッツを詰め込んでまで、このぬいぐるみを梁の上に隠さなければならなかったのか」


 如月さんの声が一段と低く、静かな熱を帯びた。


「ただの嫌がらせや破壊衝動なら、切り裂いてゴミ箱に捨てるか、焼却炉に放り込めばいい。わざわざドローンの死角を探し出し、そこに存在を残し続けることを選んだ。そこには、論理だけでは測れない、ひどく歪で哀しい人間の情動が隠されておるはずじゃ」


 窓の外の雷鳴が、低く腹の底に響くように轟いた。


 薄暗い理科準備室の中で、泥だらけのクマのピーナッツの瞳が、僕たちを虚ろに見つめ返している。


 これ以上、このぬいぐるみのルーツを掘り下げてはいけない。掘り下げれば、取り返しのつかない人間の真っ黒な悪意に触れてしまう。僕の凡庸な直感が、最大級の警報を鳴らしていた。


 だが、完璧な制服姿に戻った目の前の絶対君主は、そんな僕の怯えなど知る由もなく、自らの細い指でそのおぞましいピーナッツの殻をそっと摘み上げた。


「さあ、サクタロウ。ここからが本番じゃ。お主のその泥臭い視点で、このピーナッツの瞳が映していた真実の地獄を、共に覗き込んでみようではないか」



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