第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 3:ピーナッツの瞳と、名前の響き~
「見事じゃ。あまりにも見事な物理的矛盾じゃな」
僕の情けない悲鳴など鼓膜にすら届いていないかのように、目の前の少女はうっとりとした声で呟いた。
泥だらけで、両目にピーナッツの殻をねじ込まれたおぞましいクマのぬいぐるみを、彼女はまるで国宝級の宝石でも扱うかのように、細く白い指先で優しく撫でている。
カサッ……カラッ……。
少女の手の中でクマがわずかに揺れるたび、空洞に押し込まれたピーナッツの殻同士が擦れ合い、ひどく乾燥した不気味な音を立てた。その音が雨音に混じるたび、僕の背筋を大量のムカデが這い上がるような強烈な悪寒が走る。
「こ、こんなの、ただの気味が悪いゴミだろ! 早く捨てた方がいいって! 絶対になんかヤバい呪いとかかかってるって!」
僕が後ずさりしながら必死に叫ぶと、少女はふふっと、氷の彫刻が微笑むような冷たい笑みを浮かべた。
「ゴミ、だと? お主は本当に物事の表層しか見えぬ男じゃな。……この狂気的なまでの破壊行動を見ろ。ただ捨てるだけなら、そこらのゴミ箱に突っ込めば済む話じゃ。なぜ、わざわざ両目を刃物で抉り出し、そこに『ピーナッツ』などという全く無関係な有機物を詰め込む必要があったのか」
「そ、そんなの、やった奴の頭がおかしいからに決まってるだろ! 快楽殺人鬼の予備軍とかさ!」
「阿呆。ただの異常者の無軌道な暴力なら、もっとぬいぐるみの全身を無惨に引き裂いておるわ。だが、このクマは『両目』という一点のみに異常な執着を向けられておる。そして、わざわざ代用品を詰め込んだ。……ここには、強烈な情動の匂いがする。人間の、ひどく泥臭くて、歪な情動のルーツがな」
薄暗い雨の渡り廊下で、おぞましい呪物に頬ずりせんばかりに魅入られている、ずぶ濡れの美少女。
僕の目には、彼女自身が、この春の嵐に紛れて現れた最も美しく、最もタチの悪い『怪異』のように見えた。
新市街のエリート校の内部進学生は、みんなこんなにも頭のネジが飛んでいるのだろうか。それとも、この少女だけが特別におかしいのか。
「な、名前は……」
僕は、恐怖と混乱で震える声のまま、思わずそう口走っていた。
この狂気的な状況を前にしても一切動じず、むしろ楽しんでいるこの少女が、一体何者なのか。それを知らなければ、僕のこれまでの旧市街で培ってきた常識が、完全に崩壊してしまいそうだったのだ。
少女は、ようやく呪いのクマから視線を外し、僕の顔を見た。
そして、不思議そうに小首を傾げた。
「人の名を尋ねる前に、まずは己から名乗るのが礼儀というものじゃろう。……お主、名前はなんという?」
「えっ?」
名乗れ、と言われた。
僕は、彼女の底知れぬ威圧感に気圧されながらも、ふと彼女の全身のシルエットを改めて観察した。
……小さい。
先ほどまでは彼女がしゃがんでいたから分かりにくかったし、何より『濡れた最高級インナーの透け具合』という圧倒的な視覚的暴力のせいで冷静な判断力を失っていたが、立ち上がった彼女の身長は、僕の顎のラインにも満たない。おそらく、百五十センチあるかないかだ。
僕と同じ、新入生の真新しいブレザーを着ている。つまり、間違いなく同じ学年の『同級生』だ。
その事実が、恐怖で縮み上がっていた僕の中に、わずかな『男としての見栄』を呼び起こした。
(いくら変人で絶世の美少女でも、相手はこんなにちっこい同級生の女の子じゃないか。僕がこんなにビビってオドオドしてる場合じゃない。ここは一つ、高等部に入学した新入生の男子として、堂々と、頼りがいのある感じで格好良く名乗らなきゃ舐められる……!)
僕は、ガクガク震えていた膝にグッと力を入れ、わざとらしく一つ咳払いをして、背筋をピンと伸ばした。声のトーンも、いつもより半音ほど低く設定し、なるべく大人びた響きを意識する。
「あー、こほん。僕は、朔光太郎。今日から高等部に入る、新入生だ。よろしく」
どうだ。少しは落ち着いた、余裕のある男に見えただろうか。
僕は内心で自分の声のトーンとポージングに合格点を出しながら、少女の反応を待った。
しかし。
少女は僕の顔をじっと見つめた後、「朔光太郎、か」と一度呟き……大仰に、それこそ呆れ果てたように深く、深くため息をついた。
「無駄に長いな」
「……は?」
「『サ・ク・コ・ウ・タ・ロ・ウ』……発音するだけで七文字。鼓膜のエネルギーと時間の無駄じゃ。なんという非効率な名前だ」
「ひ、非効率って……親がつけてくれた大切な名前なんだけど!?」
「それに、お主、さっきから怯えてキャンキャン鳴いたり、突然無理をして胸を張ったり、どうにも落ち着きがない。その湿気でうねった野暮ったい髪といい、どこか飼い主に怒られた哀れな駄犬に似ておるしな」
少女は、濡れた長い黒髪をかき上げながら、僕を道端に転がる小石でも見るような、絶対的な上からの視線で見下ろした。
身長は僕の方が圧倒的に高いはずなのに、なぜか僕の方が物理的に見下ろされているような、すさまじい錯覚に陥る。
「よし。今日からお主は『サクタロウ』じゃ」
「は、はい!? いや、なんで犬扱い!? っていうか、勝手に人の名前の文字を抜いて略さないでよ!」
「黙れ、サクタロウ。わしの思考の邪魔をするな。お主のような凡庸な存在は、この音声記号で十分じゃ」
僕のささやかな男のプライドと抗議は、絶対君主の冷徹な一瞥によって、見事にゼロ・コンマ・一秒で斬り捨てられた。
サクタロウ。それが、この日から現在に至るまで、僕の月見坂におけるアイデンティティとなってしまった瞬間である。
「くっ……。なんなんだよ、君は。人の名前を勝手に犬みたいに変えておいて。……じゃあ、君の名前は? 教えてくれるって言ったよね」
僕は半ばヤケクソになって尋ねた。
これだけ人の神経を逆撫でしておいて、名乗らないなんてことは許されない。そもそも、こんな常識外れな態度をとる人間が、エリート校のどこに属しているのか知らなければ、僕の気が済まなかった。
少女は持っていた泥だらけのクマのぬいぐるみを脇に抱え、静かに姿勢を正した。
吹き込む雨が彼女の白い頬を濡らしているが、彼女はそれを拭うことすらしない。ただ、薄暗い嵐の中で、自らの胸に手を当て、世界の中心に立つ王族のように誇り高く宣言した。
「わしは、如月瑠璃じゃ」
「……」
雨の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。
「……きさらぎ、るり」
僕は、その名前を間抜けな声でオウム返しに呟いた。
如月、瑠璃。
どこかで聞いたことがあるような……いや、つい数十分前に聞いたばかりの、あまりにも重すぎる名前だ。
僕の脳内で、先ほどまでいたアリーナの光景が、突如として超高解像度のフラッシュバックとなって鮮明に蘇ってきた。
『——続きまして、新入生代表の挨拶』
『新入生代表、如月瑠璃さん。壇上へ』
『如月さん? 如月瑠璃さん、いらっしゃいますか!?』
マイクを通した教頭の、あの焦燥しきった声。
壇上に用意された、ポツンと空いたままのパイプ椅子。
血相を変えて、半狂乱になってアリーナ中を探し回る何十人もの教師たち。
そして、周囲のエリート生徒たちが息を潜めて口々に囁いていた、畏怖の言葉。
月見坂市の経済、インフラ、警察、教育……そのすべてを牛耳る、絶対的な支配者である『如月コンツェルン』。
その頂点に立つ一族の、直系令嬢。
入学式の最中に脱走し、今まさにこの学園を未曾有のパニックの渦に叩き込んでいる、絶対君主。
「……えっ」
僕の顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。
目の前にいる、ずぶ濡れで最高級シルクを透けさせ、呪いのクマを大事そうに抱え、初対面の僕を『犬』呼ばわりしたこの頭のおかしい美少女。
彼女こそが、あのパニックの中心にいる、学園の頂点に君臨するお嬢様、その人だったのだ。
「き、きさ……如月財閥の……!? い、一番偉い人の……!?」
僕の口から、ヒューという酸素の漏れるような情けない音が鳴った。
先ほどまでの『同級生だからってちょっと格好をつけて名乗った自分』を、今すぐタイムマシンに乗ってバールで殴り殺してやりたい。
僕は、月見坂のトップに君臨する本物の令嬢に向かって、「風邪ひくよ!」だの「キモい!」だの「なんなんだよ、君は!」だのと、馴れ馴れしいタメ口で暴言の数々を吐き散らしていたのだ。
あまつさえ、その透けた胸元や下着のラインをガン見して、「僕は天井しか見てないから!」などと、セクハラまがいの言い訳まで叫んでしまった。
(終わった……。僕の高校生活、入学式の一時間で終わった……)
僕の視界が、グラリと揺れた。
如月コンツェルンの力なら、僕のようなしがない旧市街の高校生一人を消すことなんて、本当に指先一つでできるはずだ。
明日には僕の戸籍はデータ上から完全に抹殺され、親の勤めている会社は倒産に追い込まれ、一家もろとも住む家を奪われて、この月見坂市から永遠に追放されるに違いない。
社会的死。
その四文字が、僕の脳裏に絶望的なネオンサインとなって点滅した。
「も、申し訳ありませんでしたぁぁっ!!」
僕は、反射的に直角九十度の、サラリーマンも顔負けの完璧な最敬礼を繰り出していた。
「き、如月さんとは露知らず! 数々の無礼な暴言、平にご容赦ください! わ、忘れてください! 僕という存在そのものを、今すぐ視界から完全に消去してくださいませ!!」
ガチガチに震え上がり、土下座せんばかりの勢いで叫ぶ僕を、如月さん——いや、如月お嬢様は、ゴミでも見るような目で冷たく見下ろした。
「おい、サクタロウ。いつまで石像のように突っ立って喚いておる。五月蝿いぞ」
「ひぃっ! す、すみません!」
「お主の無礼など、いちいち記憶に留める価値もない。……それより、そのクマを持って、ついてこい」
如月さんは、顎で新校舎とは逆の、旧校舎の奥の方をしゃくった。
「わしの完璧な鑑定の儀式には、少しばかり道具が足りん。どこか静かな空き教室に移動するぞ」
「も、持っていくんですか!? これを僕が!?」
「当然じゃ。わしは手が疲れた。下僕が荷物を持つのは当たり前であろう」
もはや『君』という対等の呼び方など、僕の辞書からは完全に消滅していた。
逆らえば社会的に殺される。僕に与えられた選択肢は「はい」か「Yes」の二択しかなかった。
「……は、はい。喜んで、お持ちいたします……」
激しい春の嵐が吹き込む、渡り廊下。
これが、月見坂の闇に潜む数々の不純物を裁定する如月瑠璃と、その専属助手となる僕の、あまりにも最悪で、おぞましく、そして絶対的な『運命の出会い』であった。




