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第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 2:雨の渡り廊下と、無防備な君~

 月見坂市を覆い尽くした鉛色の雲が、ついにその腹を裂き、猛烈な春の嵐となって地上に襲いかかっていた。


 新入生代表の令嬢が失踪するという前代未聞のパニックに陥ったメインアリーナを、尿意という極めて生物学的な理由でこそこそと抜け出した僕は、ホテルのロビーよりも豪華な新校舎のトイレで用を済ませ、深い安堵の息を吐き出していた。


(……ふぅ。膀胱の危機は去った。でも、式典、まだゴタゴタしてるんだろうな。今戻ったら『今までどこに行っていた!』って絶対怒られるし、少しだけこの辺で時間を潰すか)


 僕は、洗面台の大きな鏡に映る、自分の冴えない姿を見つめた。


 今日から着ることになった如月学園高等部の真新しいブレザーは、僕のような旧市街出身の泥臭い庶民には、どうにもサイズが合っていないというか、着せられている感が否めない。野暮ったい眼鏡の奥の目には、すでにエリート校の空気に当てられた疲労の色が濃く滲んでいた。


 アリーナへ続くルートとは反対の方向へと、僕は宛もなく歩き出した。


 誰もいない静かな廊下。純白の大理石の床は、僕の安物のローファーの足音すら吸収してしまうほど完璧に磨き上げられている。天井の隅では、青いLEDランプを点滅させた清掃ドローンが、チリ一つの落下も許さないとばかりに無機質な待機状態を保っていた。


(本当に、息苦しいくらい綺麗な学校だ。……僕、ここで三年間もやっていけるのかな)


 現実逃避のように、今夜配信されるはずの推しの地下アイドルのことを考えながら歩いていると、前方の景色が急に変わった。


 無機質な純白の壁が途切れ、床の材質が古びた木材へと変化する境界線。新校舎と、今はほとんど使われていない旧校舎とを繋ぐ『渡り廊下』だ。


 そこは、新校舎の完璧な空調システムから完全に切り離された空間だった。


 雨風を防ぐガラスの壁がなく、木造の太い柱と屋根があるだけの、半屋外のような構造。ゴォォォという不気味な風の唸り声と、屋根や床を激しく打ち付ける雨の音が、容赦なく鼓膜を叩いてくる。


 気温も急激に下がり、僕は思わず身震いをした。


「うわっ、すごい雨……。風も吹き込んできてるし」


 僕が、吹き込んでくる冷たい雨粒を避けようと、慌てて手前の太い柱の陰に身を寄せた、その時だった。


 渡り廊下の中央。


 雨の吹き込む屋根と外の境界線の、ギリギリの場所に。


 一人の少女が、じっと足元を見つめてしゃがみこんでいた。


 僕は、思わず息を呑んだ。


 後ろ姿だけでも分かる、異様なまでの存在感だった。


 手入れの行き届いた、絹糸のように長く真っ直ぐな黒髪が、吹き込む暴風に煽られて大きくうねっている。


 僕と同じ、新入生の真新しいブレザーの制服。しかし、彼女の右半身は、斜めに吹き込む豪雨のせいで容赦なく濡れそぼっていた。


 普通なら『冷たい』とか『濡れる』とか言って慌てて屋根の奥へ避難するはずなのに、その少女は雨に打たれることなど一切気にしていないかのように、微動だにしない。


(……あの子、大丈夫か? あんなに濡れて)


 ここからでも、彼女のブレザーの右半身が重く水を吸って黒ずみ、華奢な背中にべったりと張り付いているのが分かる。


 そして、その『張り付き具合』は、僕の目を強烈に釘付けにした。ブレザーという分厚い生地であるにもかかわらず、容赦なく打ち付ける雨の重みと風の圧力によって、彼女の背中には、内側に着ている下着の肩紐や、細いホックの金具らしきわずかな『凹凸のライン』が、ひどく生々しく浮き出ているようにも見えたのだ。


 女性耐性がマイナスに等しい僕の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。


 ただ背中から浮き出るわずかなシルエットを見ただけで、全身の血が沸騰しそうになる。声をかけるべきだろうか。「雨に濡れるから、こっちに来た方がいいよ」と。それが普通の、親切で爽やかな男子高校生の振る舞いというものだ。


 だが、僕の足は、接着剤で床に固定されたように一歩も動かなかった。


(無理無理無理! あんな絶世の美少女っぽいオーラを出してる子に話しかけるなんて、僕の貧弱なコミュ力じゃ絶対に無理だ! もし振り返って、冷たい目で「は? 誰お前。キモいんだけど」とか言われたら、ショックで即死する!)


 僕は、完全に気配を殺し、木造の太い柱の物陰から、ただオドオドとその少女の背中を伺うことしかできなかった。


 やがて、少女が制服の袖が床の泥水で汚れるのも厭わず、濡れた床の上に落ちていた『何か』に、白く細い手を伸ばした。


(……なんだ? 何か拾ったのか?)


 僕の位置からは、彼女の背中が完全に邪魔になって、それが何なのかは見えない。


 ただ、彼女がそれを拾い上げる動作の隙間から、雨と泥でドロドロに薄汚れた、茶色い塊のようなものが一瞬だけ見えた気がした。


(……おかしいな)


 僕は、ふと強烈な違和感を覚えた。


 この如月学園は、清掃ドローンによってチリ一つの落下も許さない完璧な管理体制が敷かれているはずだ。先ほど新校舎の廊下でも、待機しているドローンを見たばかりだ。たとえこの渡り廊下が古い場所だとしても、あんな『泥で汚れた塊』のような明らかなゴミが、床の上に放置されていること自体が不自然だ。


 僕の中で、ミステリーめいた好奇心が、女性に対する恐怖心をほんの少しだけ上回った。


 僕は、柱の陰から、恐る恐る、足音を立てないように少女の背後へと近づいていった。


 三歩、四歩と距離を詰め、彼女の肩越しに、その手の中にあるものを覗き込もうとした、その瞬間。


「さっきからそこで何をしておる」


 凜とした、しかし絶対零度のように冷たい声が、雨音を切り裂いて僕の鼓膜を直撃した。


「ひっ!?」


 僕は、心臓が口から飛び出そうになるほど驚き、カエルのような情けない悲鳴を上げて飛び退いた。


 少女は、しゃがみこんだ姿勢のまま、ゆっくりと首だけでこちらを振り返った。


 ——その瞬間。時が止まった。


 振り返った彼女の顔を見た瞬間、僕は呼吸を忘れた。


 透き通るような、病的なまでに白い肌。そして、長い睫毛の奥にある、宝石のアメジストをそのままはめ込んだかのような、深く、冷たく、そして知的な『紫色の瞳』。


 その瞳が、柱の陰から這い出てきた不審者たる僕の姿を、正確に捉え、氷のように冷たく射抜いていた。


(き、気づかれてた!? 最初から!? うわあああ、完全にストーカーか変質者だと思われた!!)


 僕は顔から火が出るほど羞恥と焦燥に駆られ、両手を激しく振って弁明を試みた。相手がこのエリート学園の内部進学生で、しかも絶世の美少女であるという事実が、僕の思考回路を完全に破壊し、焦りまくった素の言葉遣いを引きずり出してしまう。


「えっと、ち、違うんだ! 覗き見とか怪しいことしようとしてたわけじゃなくて! たまたま通りかかったら、君がこんな雨の吹き込むところでしゃがんでるから、気になって……っ!」


 声が裏返り、自分でも何を言っているのか分からない。


 だが、僕はパニックになりながらも、彼女がこちらを向いたことで、その『濡れ具合』の深刻さを、今度は正面からまざまざと見せつけられることになった。


「とにかく、そんなところにいたら風邪ひくよ! 雨が、君の体に……っ!?」


 ——その瞬間。


 僕は、全身の血液が瞬時に沸騰し、脳のヒューズがけたたましい音を立てて完全に焼き切れるのを感じた。


 横殴りの豪雨をモロに受けていた彼女の右半身。


 振り返った彼女のブレザーの前は開いており、その内側に着ている真っ白なブラウスが、限界を超えて『透けきって』いたのだ。


 いや、ただ『透けている』という表現では生ぬるい。


 雨水をたっぷりと含んだ薄い純白の生地は、すでに布としての隠蔽力を完全に喪失し、まるで極薄のガラス細工のように彼女の肌に吸い付いていた。


 華奢な肩のラインから、うなじから続く胸元のライン、そして雨粒が滑り落ちる鎖骨の深いくぼみに至るまで、濡れたブラウスが第二の皮膚のようにピタリと張り付いている。


 そして、パニックのあまり視線をコンマ一秒だけ下に逸らしてしまった僕の目は、絶対に見てはいけないものを、残酷なほどの高解像度で捉えてしまった。


 透き通った生地の裏側に密着した、僕のような旧市街の庶民が触れたこともないような、滑らかな真珠の光沢を放つ最高級シルクのキャミソールの輪郭。


 安っぽい大量生産のレースなど一切排し、ただ生地そのものの暴力的なまでの気品と、職人の手による恐ろしく緻密な縫製だけで仕立てられた完全な『特注品』だということが、透けたシルエットからだけでも痛いほどに伝わってくる。


 ……さらにその奥。水気を帯びて病的なまでに白く透き通った素肌と、極めてプライベートで、同年代の女子の『絶対領域』とも呼べるアンダーウェアの細いストラップ、そしてその先のうっすらとした境界線までもが、あまりにも無防備に、くっきりと浮かび上がっていたのである。


 息を呑むほど美しい肌と、濡れて透けた圧倒的な高級衣類が織りなす、目に毒すぎるコントラスト。


 それは、神様が僕の貞操観念を試すために用意した、あまりにも過激なトラップだった。


(ああああああああっ!! ダメだダメだダメだ!! 僕は死ぬ! 物理的にも社会的にも死ぬ!!)


 女性耐性がマイナスに等しい僕の防衛本能が、最大級のエマージェンシー・アラートを鳴らした。


 これ以上、あと0.1秒でもあの胸元を直視してしまえば、間違いなく僕はルビコン川を渡る。網膜が焼き切れ、鼻血を噴き出し、もし相手がとんでもない権力者の娘だったりしたら、明日には僕の戸籍ごと社会的に完全に抹殺されて、親の仕事まで奪われて、一家もろとも月見坂市から追放されるに違いない。


 僕は「ひゃうっ!」という奇声を上げ、まるで太陽を直視してしまった吸血鬼のように、バチッと効果音が鳴りそうな勢いで顔を背けた。


 首の骨が鳴るほど全力で顔を上へ向け、渡り廊下の古い木造の天井を、ただひたすらに血走った目で見つめる。


「な、なな、濡れてる! 君、すごく濡れてるから! ブラウスが、その、透けっ……張り付いてて! 下着とかキャミのラインが、いや、何でもない! だ、だから僕は絶対に見てない! 天井の木目の数しか数えてないから!!」


 顔は沸騰したヤカンのように熱く、心臓は肋骨を突き破りそうなほど早鐘を打っている。僕の人生において、女性の、しかも同年代の美少女の『濡れ透け』という致死量のアクシデントに遭遇したことなど、ただの一度もない。


 しかも相手は、振り返ったその一瞬の所作と、着ているインナーのシルエットだけで『住む世界が違う』と理解らせてくるような、恐るべき令嬢のオーラを放っているのだ。


 僕は両手で自分の目を覆い隠すようにしながら、天井に向かって必死に叫び続けた。


「と、とりあえず安全な場所へ! 新校舎の方に戻って、タオルか何かで拭かないと、その、色々と大変なことに……!」


 しかし。


 僕がこれほどまでに童貞の命を懸けてパニックに陥り、死に物狂いの配慮と自己防衛を見せているというのに。


「お主、何を一人で喚いておる」


 少女から返ってきたのは、僕の気遣いなど文字通り『路傍の石』程度にしか気にしていない、絶対零度の声だった。


 彼女は、自らのブラウスが濡れていようが、最高級のインナーが透けていようが、そんな俗物的なアクシデントなど一切の興味がないとでも言うように、深く、静かなため息をついた。


「まあよい。お主、ちょうどいいところに現れたな」


「え……?」


 僕が恐る恐る指の隙間から視線を下ろすと、少女は相変わらず雨の吹き込む床にしゃがみこんだまま、手に持っていた『それ』を、立ち尽くす僕の目の前へと真っ直ぐに突き出した。


「これを見ろ。極上の不純物じゃ」


 それは、大人の両手ほどの大きさの、布製のぬいぐるみだった。


 雨と泥をたっぷりと吸い込み、元が何色だったのかも分からないほど薄汚れているが、丸い耳の形からして、おそらく『クマ』を模したものだと思われる。


(……なんだ、ぬいぐるみか。誰かが落としたゴミ……)


 僕が安堵の息を漏らしかけた、その直後だった。


 少女がそのクマらしきぬいぐるみの正面()を僕に向けた瞬間。


「……っ!?」


 僕の全身の毛穴という毛穴が一気に粟立ち、先ほどまでの甘酸っぱい『透けブラウスパニック』など一瞬で宇宙の彼方へ消し飛ぶほどの、強烈な悪寒が背筋を駆け抜けた。


「な……んだ、これ……」


 僕は、声にならない悲鳴を上げ、無意識に二歩、三歩と後ずさった。


 それは、あまりにもおぞましく、冒涜的な光景だった。


 本来ならば、可愛らしいプラスチックのボタン目が縫い付けられているはずの、クマの顔の両目の位置。


 そこが、鋭利な刃物か何かで、中の綿がグチャグチャにはみ出すほど無造作に、深く、えげつなく抉り取られていたのだ。


 それだけではない。ただえぐり取られているだけなら、まだ残酷なイタズラや破壊衝動で済んだかもしれない。


 しかし、そのぽっかりと空いた暴力的な空洞の中に。


 本物の『ピーナッツ』の殻が、左右の目に一つずつ、まるで代わりの眼球であるかのように、ぎゅうぎゅうに、強引に詰め込まれていたのである。


 雨の薄暗い渡り廊下。


 僕の目の前で、泥だらけのクマのぬいぐるみが、虚ろなピーナッツの瞳でこちらをじっと見つめている。


 まるで、ホラー映画の呪いのアイテムか、あるいは猟奇的な儀式の供物。人間の悪意と、理解不能な狂気がそのまま形になったような、圧倒的な『異物』であった。


「な、なに、それ……っ! 気持ち悪っ! 誰かの嫌がらせ!? 呪いの儀式か何か!?」


 僕は、ガクガクと膝を震わせながら叫んだ。


 しかし、対照的に、目の前の少女の紫の瞳は、まるで世界で一番美しい宝石を見つけた子供のように、知的な興奮と歓喜でキラキラと輝いていた。



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