皇真の回想
郵便受けの隙間から白い封筒が箱に入る瞬間が、スローモーションに映る。
(また、この夢か)
耳にこびりついて離れない。鉄の口が閉じる軽い音が、今も皇真を苦しめる。
月がやけに綺麗だった日の出来事だ。
去年引っ越したマンションのリビングに皇真は居て、振り返れば、少し年季の入った玄関ドアが待ち構えていた。
リビングから玄関はすぐそこで、『まだ間に合う』距離の筈なのに──
(走れ、早く。早くしろよ)
記憶と異なり、長い廊下が玄関までの道を果てしなく伸ばしている。
頭の中で幾ら命令しても、思った通りに動かない自身の体に吐きそうなくらい鼓動が打つ。
届いた手紙の内容を知っている。読んだ後に、何が起きるのかも。それなのに、早く手紙を読まなくては。ただその一心が皇真を支配する。
ゆっくり玄関に近づく視点に「もっと早く、早く!!」と叫んでも、声は喉に張り付いて、掠れた息しか出ない。ちぐはぐの脳と体が気持ち悪い。
やっと手が届く所まで来て、屈んだ時だ。背後に強い視線を感じた。
(窓、こんなデカかったっけ⁇)
誰も居ないリビング。見慣れた部屋に発生した違和感が背筋を震わせる。
窓枠の上から丸い影が映り込む。真っ黒な影が下に進むごとに形を露わにして、皇真の脳に理解させる。
人間の頭だ。
目で捉えようもないのに、わかってしまう。落下する影は頭から肩へ腰から足へ。影は瞬く間に消える。後に見えるのは満月のみ。月の光が瞳に反射する。
へたり込む皇真の背後で、今度はカタカタと蓋のぶつかる音が鳴る。何度も。何度も。呼ぶように。
ガクンと膝が勝手に折れ曲がる、足を踏み外したのと似た感覚で、ベッドに横たわる皇真は目を覚ました。
限界まで見開く瞳孔が、暗くてもしっかり天井を見せる。しかし、ここが何処なのか。夢と現実の狭間で混濁する意識が認識を妨げる。
パニックに乱れる息遣い、上下する胸元から脈打つ、脳まで響く激しい鼓動。無意識に塞いだ唇の隙間から、情けなく引き攣った声が指の間をぬってもれる。
どれほど時間が過ぎたか。次第に正常の呼吸に落ち着いた皇真がまず思ったのは、風呂に入りたい、であった。汗でじっとり湿り肌に張り付く寝巻き。不快感と寒気にぶるり震えた体は、のろついた動きで寝返りを打つ。
夢が尾を引く意識が皇真に全身を重く感じさせた。
(今、何時だ)
ぼんやり暗い室内。ベランダを避けて瞳だけ右往左往させる視界の端、枕に半分埋もれているスマートフォンを捉える。
シーツに手を這わせ引き抜き押したホームボタン。パッと咲いた光に目を細める。
画面に並ぶ4と00の数字。中途半端な時間だが、スマートフォンを眺める皇真の顔に少しの安心の色が浮ぶ。
さてこれからどうするかと思考したところで、
「五宝様、どうされましたか」
「うぉ‼︎ びっくりした」
突如、画面の下からにょっきり湧いて出た、紫帯びた黒髪頭に再び口を押さえた。
「顔色が良くありません。119番を致しますか」
「いらんいらん。するなよ、絶対にだ」
声を潜め布団に潜る。
「救急車の手配が必要かチェックを」
「必要ねぇっての」
「ですが……」
「あぁ、くそ。夢見が悪かった。そんだけだ」
過剰な心配する叶空へ観念した皇真が吐き捨てて、口を閉ざす。全てが億劫に思える。怠い体。
真っ暗な布団の中、自動で適切な明るさになったスマートフォン。その光が、ロウソクの火のようで。皇真の目は段々と焦点がぼんやりしだす。
寝たくはない。ないのだが疲労に瞼は下がり始める前に──
「質の良い睡眠が必要と判断しました。音楽はいかがでしょう」
「……いや、お袋が起きたら困る。テキトーに何か話せ」
叶空の心配性が幸いした。会話をしていれば寝ないし、気分も紛れるだろう。
スマートフォンを握り、画面を顔に向ける。
「かしこまりました。それでは五宝様の幼なじみの方について」
「紛れんわ‼︎ 却下」
「では、五宝様の好きなタイプを教えてくだ」
「わざとか。おい、お前まだ投げられたの根に持ってる⁇」
ことごとく地雷を踏む叶空の質問を遮り、皇真は頭を抱えた。
「いいえ。趣味・好きな人物の話題は、精神疲労に効くと判断した結果です」
叶空の言葉に、皇真の目が見開く。
「趣味の話を致しますか」
暫し沈黙が流れる。皇真は視界を覆う腕を外して、小さく息を吐いた。そして緩く左右に首を振る。
「いいや」
森口華恵は、五宝皇真にとって嫌な話か。
「いいや。しよう。華恵について」
現状は最悪でも、華恵の話に蓋をするのは、違う気がしたのだ。それでは彼女と築いてきた過去まで悲惨な扱いをしているも同然ではないか。
本当に、今日は叶空に気づかされてばかりいると自覚する。
皇真は深呼吸をして、言葉に詰まった。華恵の何を語ればいいのか。どこから言うべきか。
悩み始めた皇真の前で、叶空がレインボースーツの懐からマイクを出して画面に向けた。
「ズバリ‼︎ 幼なじみのどんなところを好きになられたんですか」
クイズ番組さながらのノリに、一瞬驚き、次いで皇真は笑って答えた。
「優しいところ」
「具体的には⁇」
「印象残ってんのがさ。小4の始めら辺だっけか。教室移動中に、生徒の1人が吐いちまったんだ」
行儀よく並んで歩いていた生徒は皆。廊下にぶち撒かれた嘔吐物に表情を歪ませて、膝をつき吐く子から一斉に離れた。皇真もいきなり押し寄せた人垣の合間見えた光景に、気持ち悪いと、鼻を摘んだ。
どよめく生徒に気づいた、先頭にいた教師が保険の先生を呼びに行く。その間、ただ囁き合う集団の中、真っ先に飛び出した生徒がいた。
「それが華恵。あいつさ、別段仲良くもなかった奴の背中摩って。大丈夫って声かけて。足元にある嘔吐物の水溜りなんか目にも入ってない感じだった」
思えば、華恵を明確に意識し出したのはこの時だったかもしれないと皇真は思う。
誰も彼もが生理的嫌悪が先立ち、忘れていた。否、しようとさえしなかった。吐くほどに具合を悪くしている子へ、手を差し伸べる。人としての大事な想いに。
「後から恥ずかしくなった。普通、先に心配するもんだろって」
自慢げに、顔を綻ばせて即答した皇真に、叶空も微笑み頷く。
「思いやりの大切さを知れるエピソードです」
「だろ‼︎ 後、その時から親も大切にしてた。マジすげぇよな」
「はい。素晴らしい人物です。他には⁇」
さらに画面アップに映るマイクへ決まっていると続けて答えようとして。
「そんなの……」
笑みがくずれる。言いあぐねる皇真をマイクを引いた叶空が見つめる。
じっと待つ叶空へ、一言一言、慎重に皇真は語り出した。
「努力家で、諦めない、ところ」
「素晴らしい長所ですね」
「うん。そう、そうなんだけどよ」
その長所が仇になったのだ。
華恵の遺書を最初に読んだのは、皇真であった。
彼女は親でなく、皇真に最後を託した直後、皇真の住んでいたマンションから身を投げた。
消印のない手紙に下手くそな字で綴られた言葉。突如響いた嫌な音。皇真が直ぐに部屋を飛び出していなければ、彼女は手遅れになっていたそうだ。
イジメを苦に女子中学生が飛び降り自殺。ありきたり、で済まされる歪んだ世の中。遺書に書かれた真実を、証拠不十分と無いものにした警察。マスコミがマンションへ日夜押しかけて騒ぐ迷惑を、自分達親子へなすりつけた近隣住民。
全てがおかしい世界から、皇真は母に手を引かれて逃げた。
「あいつは逃げれなかったってのに」
スマートフォンがシーツに倒れる。皇真は両手を顔に押し付けて、語る。
「俺は、知ってた。あいつがイジメられてたのを。だから、だから言っちまったんだ」
逃げていいんだ。その一言があれば変わっていたかもしれない。
目に水の膜張って鼻啜りながらプリントに向き合っていた彼女。鉛筆の芯で黒くなってた手。
対して親の金で手に入れたゲームのスコアを競い合い、指だけ動かして得た結果にふんぞりかえってたイジメッ子達。しかもイジメていた中には、件の廊下で体調不良を起こしていた生徒まで混ざっていたのだ。
思い出して、ふつふつと湧き上がる怒りに、皇真の話が早口になる。
「華恵は要領悪かった。周りをイラつかせてたこともある。けどよ努力してたんだよ。結果が全てじゃないだろ。それに華恵にだって誇れるもんはあった」
中々身を結ばぬ努力。だが人には得手不得手があるように、集団生活では劣る彼女にも立派な結果は訪れたのだ。
夏休みの読者感想文。幼くして光と音を失った偉人の女性の物語。『ヘレン・ケラー』皇真と華恵の大事な思い出の小説を綴った、彼女の輝かしい想いは賞という形で花開いた。
それを「内容じゃなくて感想を書いてたのが、貴方しかいなかったからよ」と受賞の知らせと共に蔑ろにした担任。
「表彰式に立ってた華恵、すげえ寂しい顔してた」
どちらが悪いかなど明白だった。
額に爪を立てて、言う。
「だから、さ。だから」
あの時、皇真は言葉を間違えた。
あんな奴らに屈っしてはいけない。正しいのは華恵なのだと。言ってしまったのだ。
『立ち向かえ。負けるな。戦え』
無責任な言葉は全て、皇真が華恵に送った刃物だ。
「どんなに強い人間だって、限界が、ある。休まなきゃならない時も、あるんだ」
助けを求めていた彼女は、きっと断崖絶壁の縁にいた。まだ、まだ、あの頃ならば、引き返せた。
「それなのによ、華恵に、逃げることさえ許さなかった。なんで俺は側にいて気づけなかった。それどころか、追い詰めたのは」
涙でぼやける視界。支離滅裂な語りは小さな「俺だ」の告白で終わる。
「五宝様」
返事をしない皇真に叶空が問う。
「だから、貴方は、超能力者になった。違いありませんか」
ハッと顔をスマートフォンに向けた。
暗い布団の中で、薄い光を放っているそれに、目をパチパチさせて。また皇真の顔に笑みが戻る。
「ああ。そうだ。その通りだっと」
勢いよく布団を剥ぎ、ベッドから立つ。
「今、何時」
「朝の5時です」
「ん〜。はえーけど。風呂入って、走るか」
腕を天井に、背筋を伸ばす。
意識は良好。高まる感情。瞳に強い意思を色づかせて、皇真は部屋を出た。