そのじゅう
翌朝、まだ日が登らないうちにレーネは起き出した。
汲んでおいた水で顔を洗い、軽く身支度を整えて天幕を出る。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
「俺も手伝いますから、召喚円を描いてしまいましょうか」
「はい」
朝食もそこそこに、早速、すでに起きていたハルと協力して準備を始めた。“灯”の魔法で辺りを照らし、ハルがざっくりと描いた召喚円を、レーネ自身がきっちりと仕上げていくのだ。
「あの、ターシスさんと……カルナートは?」
「ターシスさんは、念のために周囲を確認に行ってます。カルナートは先の番だったから、まだ寝ていますよ」
「そうですか」
昨日はずっと機嫌が悪いままで、ろくに話もできなかったなと考える。
カルナートは、自分がたいした才能もないのに魔法使いを続けようとしていることが、やはりおもしろくないのだろうか。
けれど、まともにできることがこれしかないのに辞めてしまったら、それこそ、レーネなんて価値のない存在になってしまう。使い魔を呼んでちゃんと魔法使いなのだと示せたら、自分のことを認めて、もう辞めろなんて言わないでくれるだろうか。
「レーネさん」
「あ、はい」
「描けたら最初から全部チェックしてください。俺もやります」
「はい」
「それと、儀式の間はとにかく呼ぶことに集中してください。君はどうもあれこれ考え過ぎるところがありますが、余計なことは考えなくていいんです」
「……はい」
また、気を散らしていたらしい。
小さく息を吐いて、レーネは召喚円に集中する。
日が昇るまでもうあとわずか、というところでようやくチェックも完了し、レーネは召喚円の中心に座った。
香を焚き、集中し、ゆっくりと詠唱を始める。
ここからは本人の体力と魔力がモノを言う長丁場だ。ここから先、レーネ以外の者には、ただ見守ることしかできない。
ハルは小さく息を吐いて腰を下ろすと、アルティを抱き上げた。
それから、気配を殺して戻ったターシスに気付いて目礼だけを返す。
「あとは待つだけです。何か近づいてきたらくれぐれも手は出さず、俺に教えてください。危害を加えることが明らかでなければ大丈夫です。基本的に使い魔候補として寄って来た生き物ですから、使い魔にならなければ、勝手にいなくなります」
「わかりました」
ぼそぼそと話しながら沸かしておいた茶を渡すと、ターシスも腰を下ろしてレーネのほうを眺めやった。
「うまく現れるといいですね」
「現れますよ」
膝で丸くなったアルティを撫でながら、ハルは当たり前だと頷く。
使い魔召喚の失敗は、魔法使いが使い魔に期待するものと周辺にいる生き物が合わなかっただけに過ぎない。
魔法使いとしての力量云々に関係はないのだ。
もちろん、分不相応に強大な生き物を呼びたければ、それなりの力量が無くては成功しようがないのは言わずもがなだが。
「来る来ないより、むしろ“何が来るか”のほうが問題なんですよ」
「なるほど、“何が”ですか」
ハルは首肯する。
できれば、レーネの自信を後押ししてくれるような、それなりに力のあるものが来るといいのだが。
そんなことを考えながら、一心に集中するレーネを眺めていると、ごそごそとカルナートが起き出してきた。
夜明けから一刻ほど経ったろうか。太陽はだいぶ高くなっている。
「レーネ」
天幕から顔を出して小さく呟いたカルナートを、ハルはじっと観察する。
万が一、何かちょっかいを出すようなら、すぐに取り押さえなければならない。
けれど、レーネを気にしながらも、カルナートはそれ以上の何かをすることもなかった。
そのことに、ハルは少しほっとする。
「本当に、あのまま丸一日、飲まず食わずで座りっぱなしなのか?」
カルナートはレーネから視線を外さずにぽそりと尋ねた。その目は少しだけ心配そうに眇められている。
「そうですよ。正確には、体力か魔力のどちらかが尽きるか、使い魔になろうという生き物が現れるかするまではずっとです」
ハルの答えに顔を顰めて、けれどやはり視線はレーネから外れない。
「大丈夫なのか?」
「何のために俺たちが付いてると思っているんですか」
む、とへの字に曲がった口元に、ハルは呆れた顔で吐息を漏らす。
「終わった後は当然ふらふらです。それだけじゃなく、儀式を続ける間だって相当に無防備なのも、見てわかるでしょう。
だから、こうして俺たちが付いてるんですよ」
「なんで、そこまで……」
どことなく不満そうなカルナートの口振りに、ハルは思い切り顔を顰める。
「レーネさんが、魔法使いでありたいと願ったからです」
「レーネが?」
「そうですよ」
それきりカルナートは黙り込む。
ハルは、レーネをひたすら見つめたままのカルナートをちらりと見て、ふん、と鼻を鳴らした。
ふたりのやりとりをじっと見守っていたターシスも、それ以上何もないことに安堵したのか、小さく吐息を漏らす。
* * *
レーネが集中を続ける間、三人はひたすら待った。
たまに周囲を確認したり、水を汲み直したり、身体を動かしたり……普通の野営と違うのは、レーネの集中を邪魔しないよう、なるべく静かに動き回ったことだろうか。
「何か、来ますね」
「何か?」
「そこそこの大きさの獣のようですけど」
獣の気配には敏いターシスが、小さく呟いた。とたんにきょろきょろとあたりを見回し始めるカルナートを制して、ハルも周囲に注意を向ける。
「その場を動かないでください。レーネさんの使い魔候補のようです」
三人はぴたりと動きを止める。カルナートはじっと座り込んだまま視線だけを動かし、ターシスは耳を澄ませる。
ハルがレーネの周囲に目を凝らすと、ガサリと茂みが大きく揺れて、金色の目の灰色の鼻面が、ぬっと現れた。
アルティが天敵とも言える相手を警戒して、背中の毛を逆立てた。それを宥めようと喉を擽りながら、ハルは獣から目を離さない。
くるくると耳を動かし鼻をひくつかせながら、獣も三人を伺う。じっと伺い、やや警戒しながらも、ゆっくりと脚を進めて茂みから姿を現した。
ふと、レーネが顔を上げた。
しばしぼんやりと宙を眺め、それからおもむろに首を巡らせる。
レーネの目の前には、いつのまにかすぐそばまで寄ってきた灰色の狼がいた。その大きな顔を正面から見つめて、レーネは瞠目する。
「あなた、が?」
掠れた小さな囁き声で問うと、狼は耳をぴくりと動かし、首を傾げるようにしてレーネを見つめ返した。
『巣穴に一匹だけ残された仔狼のように鳴く声が聞こえた』
「――仔狼?」
『不安に怯え、震える声だ。だが、恐れに潰されてはいなかった。己の脚で立とうという気概があるものの声だった。
だから、私がお前の助けになろう』
レーネはぽかんと狼を見つめた。
灰色の毛皮に金色の目を持つ大きな狼は、レーネのかたわらへとゆっくり近づき、確かめるように匂いを嗅ぐ。
レーネがおずおずと狼の鼻先に手を差し出すと、その掌をペロリと舐めた。
『お前の名は?』
また、頭の中に声が響いて、レーネは狼を見つめた。
やはり、この声はこの狼のものなのか。
「レーネ、です」
『なら、お前は私を何と呼ぶ?』
狼は金色に輝く目で、相変わらずレーネをじっと見つめている。
「……“強き者”。私、強くなりたい。強くなって、私にもできることがあるんだって、思いたい」
『なるほど』
ふむ、と狼は頷いた。
レーネは震える手で狼の毛皮に触れる。表面の毛はさらりと固く滑らかで、けれど内側は柔らかく……とてもふかふかで暖かい毛皮だ。
弾力のある厚い毛に覆われた首を、レーネの細い腕が抱き締める。狼はまるで仔狼を慈しむかのように目を細める。
頬に擦り寄せるように頭を押し付けられて、レーネもにっこりと笑う。
「シュテーク、私はまだ未熟者だけど、よろしくお願いします」
『ああ。仔狼を一人前に育てるのは、我々年長者の役目だからな』
長い舌で大きく頰を舐められて、レーネは擽ったそうに笑った。
「驚いた。まさか、あなたみたいな“古老”と呼ばれるような獣が来るなんて、思いもしませんでしたよ」
「古老?」
ハルの感嘆に、カルナートが怪訝な顔になる。ちらりと狼を見て、もう一度ハルへと視線を戻した。
「こういう魔力だまりのある土地で長生きした獣の中に、ごく稀に現れるいわば土地の“主”のような存在です。ふつうの獣よりもずっと知能が高く、身体も頑丈で力もありますし、個体によっては意思の疎通も可能です」
『小僧、そんなに私のような狼が珍しいか?』
頭の中に響く声にぎくりとして、カルナートは少し薄気味悪いもののように狼を見てしまう。動物が頭の中に話しかけてくるなんて、ひとりだったら気が狂ったかと考えてしまうところだ。
『大きなナリをして、私が怖いか?』
くっくっと笑われたような気がして、カルナートは思わず眉根を寄せた。
「狼なぞ、怖くない」
『なるほど。お前は成獣になってはじめての秋を迎える若狼といったところだな。首の毛が逆立っているぞ』
「お、俺の首に毛なんか生えていない!」
まるで笑っているかのように狼の唇がめくれ、白い牙が剥き出しになる。
狼なんかに馬鹿にされたといきり立つカルナートを押さえて、ハルは一歩前に歩みでた。
「あまりカルナートさんをからかわないでください。
ともかく、俺はレーネさんの師である魔法使いハルで、こいつは俺の相棒のアルティです。よろしく」
『こちらこそ。それではレーネについていてやりたいのだが、いいかな?』
「はい、もちろんです。お願いします」
狼はのそりと立ち上がり、レーネが寝かされた天幕へ入っていった。
その後ろ姿をじっと眺めて「なんで、狼なんか」と呟いたカルナートをちらりと振り返り、狼は、また、ニヤリと笑むように目を細める。
たちまち真っ赤になったカルナートに、ハルは小さく溜息を吐いた。