第四十五回 小説の文章力(登山家読みを基礎とする)
まず、ここまでに書いた事柄、論と証は一組だとか正確に伝わるようにとか言ったことは基本です。初心者の基本よりは上の中級にも基礎はあるわけです。初心者には無理だから分離されている部分で、後から付けたしする基礎ですね。いわば中学生の国語で、キチンと習得すれば大学で卒業論文書く時に慌てなくて済む、というような技術です。偉そうに言ってますが受け売りです。(笑
これは、ジェンガで使う積み木をきれいに高く積み上げられるようになったという状態でしょう。初心者が知っているのは、高く積んでいくうちには崩れるような杜撰なやり方です。そりゃそうです、バランスを見ながら微調整をするという方法は、教える人が居なければ習う事が出来ませんから。それこそがプロットの役割でもありますし、残念ながら教育現場ではもう教えない事柄だそうです。
だから何も知らない初心者は、物語の破綻や空中分解など、失敗を繰り返すうちに自然と低い位置で物事を構築するようになるわけです。で、順当に行けば徐々に高い構築も出来るようになっていきます。これはやり方が解かったというものでなく、勘どころが養われて確率が上がったという意味ですから何の解決にもなっていません。低い位置の物語とは単純な道筋しかないとか、含むものが少なく混乱が起きにくいとか、そういうストーリーのことです。組み込む要素が少ないものなら、破綻させずに作り上げられるということです。中級では組み込む要素を増やさなければなりませんから、正確に積み上げる技術が必要となるわけです。正確に積むことで実現できるようになる物語の代表が推理です。
小説の文章力はいわば、この論文的文章力という土台の上に構築されねば意味がありません。この"小説の文章力"は引き算や掛け算に値するのではないか、というのが私の実感です。論文的文章力は足し算です。「1+1+1+・・・」という具合に、正確に伝えることにおいては付けたしさえ出来れば可能という部分がありますから。それに対して、小説の文章というものは余計な表現は削らねばいけません。論文ならばくどくどと説明をするのでもOKですが、小説にそれは許されません。だから、引き算なのです。そして、表現を差し替えることも必要です。これは括弧付きの計算と言えます。なので文章力は「頭脳+α」と多く言われています。頭脳、比較計算です。論文的に構築した文章から、どんどん差っ引いていき、どんどん差し替えていくということです。文豪ヘミングウェイが改稿を30回以上やるというのは有名な話。銀行の金庫に預けておいて、忘れた頃に引っ張り出して改稿したんだそうです。つまり「正確に伝える文章が書ける」という土台があってこそ、応用編である「小説的に美しい文章」というものは小説として機能するのだ、という事です。
さて、この時に必要な能力というものがあります。現在の国語教育の在り方が変わってしまった為に失われた方法論で、かつては養われていた能力です。今はつまり、誰もが持つ能力ではなくなっています。
読み方の本によれば、読み方には二種類があるようだと提言されています。仮に「アルファ読み」と「ベータ読み」と命名し紹介されています。私はもっとイメージを近付けて「ダイジェスト読み」と「登山家読み」としておきます。これは一つに国語教育の変質、もう一つに出版物の氾濫によって引き起こされた弊害だそうです。詳しいところは述べません、二つの読み方があるという事だけご紹介して終わりです。さて、ダイジェスト読みに関しては前回触れましたが、ここで登山家読みをちょこっと説明しましょう。
登山をするイメージを考えてください。苦しい道のりを経てその過程を楽しんだり、特に登頂の歓びはとても大きいものです。これがそのまま当てはまる読み方が、「ベータ読み」ここで言う登山家読みです。プロデビューする作家に読書好きが多いことには理由がありまして、小難しい本を解説ナシで読んでいく行為がそのままこの登山家読みを鍛える方法論だからなんです。つまり、登山家読みというものは「未知」の事柄を、文面を検討しながら推測や分析を交え、独自で解析しながら読む、その読みを言うわけです。
対してダイジェスト読みは、すでに知っている事柄を都度で当てはめて考えます。試行錯誤の手間が省かれるので、楽に読めるはずです。登山家読みでは逆に試行錯誤を楽しみながら、あーでもないこーでもない、と推察で読むものという事になります。答えが書いていない文章を、答えを推測しながら読むのが登山家読みであり、評論家がやる批評の為の読み方です。ダイジェスト読みでは書かれてある事柄以上の推察はしないルールで、登山家読みは書かれてある事以外に含まれた意味を推察するルールです。行間を読むとか、空白の意味とかいうアレです。
登山家読みのその特性を知った上で、逆算で、登山家読みで読んでくれるだろう空白や行間に意味を込めて、文面からは消し去ってしまうのが、本来の意味での「小説としての文章力」です。論文的書き方ならば、書きたい事は言葉を尽くし、例えば寓話や解説をこれでもかと連ねれば、誰にでも通じるものに出来るはずです。けれど、それは論文や報道文であって、小説ではありません。小説にするには、これでもか、ではダメなんです。方法論は限られてきます。「書きたい事をシンプルにして簡単な言葉でも解かる程度に作り替える」か「文面からは隠して推測してもらう」か。
後者では、表面に見える部分と、沈んで表面からは消えた部分の両方を使うことで、容量そのものを増やせると言いますか、読者に託す部分を増やすことで文章を軽減させると言いますか、そんな風な感じになります。その場合、消された部分の意図を読み解ける読者というのは、先に挙げた「登山家読み」が出来る読者に限られるという事になってくるわけです。以前はそれが当たり前に出来ていましたので、作者の側でもこの方式で気を遣う必要はなく、またスタンダードだったわけです。かつての文学青年というものは、読めない本に遭遇すれば、それは自身の至らぬせいであるという理屈になったわけで、現在は「読めないような書き方が悪い」という価値観の読者が多く、それが結果、先の二択において前者しか選べないという状況を作り出しているわけです。
かくして、世に送り出される出版物は「書きたい事をシンプルに、要点を絞ったものにして、簡単な言葉を連ねて解説を多く入れた、具体性に富んだ読みやすい文章」で溢れかえることになったのです。これは簡単に言いますと、「実が非常に少なく、説明がとても多い文章」のことです。満足を与えてくれる要素、作者のメッセージであったり主張であったり未知の情報であったりは、ごく僅かしか含まれず、すでに知っている事柄になぞらえた解説や寓話などの説明の部分が大半である、という意味です。そういう本がとても多いらしく。ラノベはですから、この理屈の最たるジャンルだと思われます。単語を変えただけ、手順を変えただけの焼き直し作品でも受け入れられるのは、読者が「既読」で満足するダイジェスト読みをしているからです。
文学が登山家読みを基本とするジャンルでしょうか。また、ミステリーはその性質から、登山家読みが出来ねば完全な受け身に回ってしまい、推理を楽しむということは出来ないのかも知れません。書くとなれば、必須の能力となるでしょう。




