第四十四回 読み方の本、読了。
思えばなんだかチグハグだったんですよ。自身の気持ちも、周囲の感覚も。
作品を読んでもらい批評をもらう。そこで出た講評を受けとめて改稿してみる。……なんか、違う。
私は自身が初心者の域ではないことくらいは解かっています。表現そのものを云々するようなレベル。一通り、私の書く文というものはちゃんと意味を伝えられるレベルには達しています。細かい技巧を云々していたし、その辺りの批評を聞きたいと願っていたわけです。
けれど実際に聞いてみたらなんか違う……。
確かに、目指していたのは「解かりやすい文章」ですから、誤解無く読者に通じるなら良いとすべきなんですが、そうじゃない。読み方の本には、長らく日本の国語教育は正解主義だった、とありました。作者が何を言わんとしているか、ただ一つの正解を求め、それは作者が持っているという論理です。けれど、批評学の世界においては違います。常に問題となっているのは"一定しない見解"についてです。ある時点では作者を完全に切り離してしまうほど、読者の持つ多彩な解釈について、または普遍の価値に押し上げられるメカニズムについて、時代によって変化するその意義についての学問でありました。
文章とは、作者のものであるのか、読者のものであるのか。表現は何を基準に語られるべきか。ここに違和感の原因があったんです。
素人批評においては、解かりやすい、解釈の分かれない文が良いとされがちです。ですから、具体性や表現を尽くす、余計な文を入れて混乱させないといった原則が持ち出されます。けれどそれはダイジェストの考えです。既知の事柄について正確に伝えることを目的としています。書き手、読み手、双方の了解の為の文章です。
だから、飛ばし読みさえ可能です。ラノベなどになるとさらに極まり、飛ばし読みされる部分をあらかじめで削ってしまいます。まさしくダイジェストなのです。ダイジェスト読みが可能なのは既知の知識に関する事柄だけですから、ラノベなどは似たような事柄だけで構成されるんです。どこかで見た設定、どこかで見た展開、どこかで見た人物像。これらはテンプレートとして、すでに読者は既知の事柄として脳内にインストールされており、読みやすいラノベとは何も新しい事柄が含まれていないという事になっています。目新しいこと、本当に知らないことは未知であり、ストレスのかかる事柄だからです。なので、登場するキャラまでがどこかで見たタイプであり、すぐに分類分けで整理のつくようにと記号化されているのです。
知っている事柄をダイジェスト読みするので、読み手にとってはとても楽なのです。
昨今の国語教育はまた、未知に関しては「一つずつ教えよ」という方針です。教科書はなべて、既知の情報を多数と一つだけ未知の情報、という形で授業を進められるように構成されています。読者はこの方式に慣れているので、多く市場に出回っている書籍もこの形式に倣っているのです。目新しい要素は一冊に一つか二つ、でないと読者には敷居が高く感じられてしまうという事ですね。読みやすいということは、未知の要素がないという事です。
さて、作品の意味とは読者ごとに違っているのが当たり前です。読者の指摘で初めて違う意味を見つけたというプロ作家の話さえ聞きます。作者はすべてを把握している必要はない、いや、把握など出来ようはずがない。なぜなら、現実のこの世界ですら一人一人がまったくベツモノと認識しているからです。同じモノを見ても同じ見解を抱いてはいないのだから、見解というものは決して一致しません。
ならば、作家のやっている事はなんなのか? ここに疑問を持ちました。
三人称神視点の登場です。
神の視点で書かれる古典は、人物の内面に触れないものが多いわけです。現在でも、三人称で地の文がその人格を明確に表明するような書き方はナンセンスとされています。つまり、地の文において意見を述べるような書き方ですね。見え方の意見表明だけでも過去の作者たちは毛嫌いしましたが。~のような○○、というヤツです。
それがなぜなのか。ようやく理屈が解かりました。作品は作者の意見表明の場ではないからです。これで、テーマというものが概要の意味であることにも納得がいきました。「作者は何を言わんとしているのか?」の問いに対する正確な回答は「考えろ、」です。作品は恣意的な価値観に彩られてはいけないんです。ドキュメンタリーのようにそこにある現象を映し出し、見る者に判断させる。そういう媒体の一つ。それが小説。本来の小説です。
違和感があったのは、このせいだったんです。私は、漠然と本来の小説の在り方を理解していました。
けれど、ここのところ進んできたのはまったく逆の方向です。意見、価値観、書き手の言わんとするところを正確に伝えるための論法です。リライトした作品がベタ塗りでべっとりな印象を受けるのも無理はありません。
表現は、正確に伝えることではなく、具象化させることに本来があるのですね。それは、理解させるための目的ではないんですね。"指し示す"為のものなんです。「ここ、どう思うよ?」という指示語なんです。だから、小説は相互コミュニケーションでもあるんです。作者の指し示すところを見て、どう思うか、というジャンル。指し示す部分を発見し、それに対する見解を自身の中に見つけ出し、他者の見解と比較検討する。
作者もまた他者へ問いかける。自身はこう思うが、あんたはどうだ?と。答えは無数にあるだろう。正解を求めるわけです、正解は一つではないが無数でもないはずだから。
ようやく解かったんです。(笑
名だたる批評家たちが「作者かんけーねぇだろ、作者は!」と喧々諤々やってんのがなぜなんだと疑問でしたが。作者の持ちうる回答は、回答の一つに過ぎないからですね。だから、日本で教えるような"作者が言わんとするところ"などというものは、取っ掛かりに過ぎないんです。その先に、作品の「作者すら知らぬ本当の姿」がある、その”本当の姿”を作者も知りたいと思いつつ書くべきである、と。
思い描いたストーリーを誤解無く伝えることではないんです。指し示すのです。
脳裏に映し出される風景を、正確に描写することではないんです。指し示すのです。
登場人物の意見を代弁することでもない。彼や彼女の置かれた状況を指し示すのです。
地の文はカメラです。見るべきものを指し示すのです。
講座にて教わる技術というものは、表現の道具です。ルールではない。
あとは、表現者の表現に関する第三者の意見。つまり、添削という行為。
これは『添削者は原表現に対して破壊的読者である』の一文に表れていますね。表現はこれすべて比喩なわけですが、比喩というものには形式がないんです。一覧表にして提示できるものではなく、これこそ無限にある存在です。つまり、ここにも「正解は無い」という事実が顕われてきます。
今まで、表現が云々と言ってきたけれど、間違いだったんですね。では何を添削出来るというのか。
これは、読んで新たに見つけた”意味”を問うという行為ですね。「この文はこういう読み方が出来るけど、そうなるとこっちと矛盾するわけで、だったら、全体にこういう意味があるってこと?」と。
細かいところをどうこうというのは、ただの破壊でしかなかったんですね。
添削してもらって迷っていたけど、理屈がきれいに自身の中で繋がって、自信が戻りました。(笑
『簡単なことばを使い、抽象的な文を作り、余計に難解なものに変えて、難解なテーマを表現する。』
説明ではなく描写をしなければならない? くそくらえ。(笑
小難しく考えながら世界を見る者たちの頭の中は、理屈だらけだ。
脳みそが感性ぎっしりだというなら、その作者の表現は感性に彩られる。
私という作者の脳みそに詰まっているのは理屈であるから、説明で埋め尽くされるのは当然だ。
読書の面白さには、”ダイジェスト的面白さ”と”登山家的面白さ”とがある。
つまり、わたしが今後目指そうと思っているのは後者の、登山である。
いつか嶮峻なる山を提供したい。(笑




