第四十三回 私の人称解説がグダグダになる理由
『現代の批評理論』より抜粋。
『物語のテクストが読者に与えるものには意味のみか、当然、価値や信念の規範も含まれる、と考えるのがブースの立場である。但し、「作者」が意識的であれ、読者が読むものを選択しているという意味でテクスト全体に表現されている意味や価値や信念は作者自身の現実実況とは関係がない。ブースはこう考えるから、フローベールとその支持者が作者に求める必須条件としての科学者的な中立の姿勢も、登場人物に対する公平な態度も容認できない。なぜなら、現実に作者は無数にある素材と表現法の中からひとつだけ選択し、その行為に自己の価値観を暗に示しているのだから、それだけでも客観的に書いているなどとは想像できない。また作者がある人物の話を中心に据えながら、その他の人物の話も公平に語ることも程度問題に過ぎない。例えば『ユリシーズ』の「作者」はブルームやスティーブンの周辺に群がるブルジョワ的人物に対して公平ではない。『チャタレー夫人の恋人』の核心には偏見を抱く「作者」が隠れており、公正を欠く尺度に基づいて人物を評定している。』
『結局、作家は物語の現実を読者に伝えるのに適切なレトリックを選択しているのである。主題を明らかにする、と同時にその主題の本質から自然に出て来るレトリックは、アリストテレスの「可能な限り自らは語るべきでない」という戒めを破ってはいないのである。避けるべきは作品が求める目的に合致しない余分なレトリックである、とブースは忠告している。』
『そもそも全知の特権の定義そのものが両意的である。フォークナーの作品の没個性的な語り手だって、極力沈黙を守ってはいるが、フィールディングの全知の語り手に負けず劣らずすべてを、それも不自然に知っているのである。『若き日の芸術家の肖像』に劇化されている精神は自己が想像するすべてを記録している。テクスト内に「作者」の声が聞こえるのは技法上の欠陥である、という勝手な法則を盾にとっても、では、なぜ現実に「作者」の沈黙が許容されたり、語り手を介した注釈が要求されたり、あるいは許容されなかったりするのかが説明できない。『トリストラム・シャンディ』には「語る」行為が「示す」行為の役割を、注釈自体が話の筋の役割を充分に果たしている見事な実例がある。もしこの種の注釈付きの語りが出しゃばっている、欠陥のある技法だと言うなら、現代小説が利用する象徴やイメージも同様の非難を受けるべきではないか。いずれのレトリックもテクストから削除できない、固有の要素に変えられているなら、それがそのテクストの場合には最善の策なのである。』
『読者は通常、「作者」、語り手(または観察者)、登場人物との距離に応じて彼らに反応し、この反応から連帯、共感、一体化の意識を覚える。「信頼できる」語り手の注釈を正当化する典型的な例のひとつにオースティンの『エマ』がある。作家はテクストに好ましい効果を選択するものだが、それはテクストに「黙示されている」規範によって自然に決められている、とブースは信じている。『エマ』の場合には語り手は一方では内的観点を通して読者の共感をそそり、他方ではエマの過ちに明快な判定を下して読者の判断を正しく導いている。この語り手は「作者」の代理人であるから、読者が知る必要のあるすべてをすでに知っているからそうする権利と義務がある。この語り手を選択することでオースティンはジェイムズお気に入りの写実、客観の効果を犠牲にするが、この代価を払っても惜しくはない効果を得た。つまり、読者は語り手との心的距離を特に意識することなく「作者」の規範に従って読み進み、「黙示的読者」になることができる、とブースは分析する。
ところが、没個性的な語りの場合、語り手は「作者」の規範から反れ、「信頼できない」語り方をすることが多いから、距離の混乱が起こる。もしウェルギリウスが「信頼できない」としたら、その後を追うダンテの足取りは心もとなくなるだろうことを想像すればよい。例えば、フォークナーの『響きと怒り』だが、この「作者」が想定する「読者」は『エマ』の語り手の導きは頼れない。今や読者は自分でこの作品を書いたつもりでテクストを構築する努力を持続させなければならない。この過度の要求に応じられない読者は登場人物の精神世界の背後に潜む「作者」との連帯・共謀を楽しむことはできない。』
『もちろん「作者」の沈黙のレトリック、つまり、「作者」が作品から退却するお蔭で読者が鼻持ちならぬ人物や極度の生理的嫌悪すら催す人物とも情緒的距離を縮められることはある。』
『没個性的な語りが「作者」も意図していない曖昧さを生み出す場合もよくあり、やはり犠牲になるのは読者なのである。』
『その中でジュネットは、従来視点という用語で考えられてきた問題の紛糾原因を究明し、「どの作中人物の視点が語りのパースペクティブを方向づけているのか、という問題と、語り手は誰なのか、というまったく別の問題とが、あるいはより端的には、誰が見ているのか、という問題と、誰が語っているのか、という問題とが、混同されている」と指摘する。こうして、前者の問題が叙法中のパースペクティブの領域に収められ、後者はより大きな「態」という第三の分野へと独立させられるのである。その上で、視点という過度の視覚性を払拭するため「焦点化」という術語が採用される。』
・・・とまぁ、こういう論争を経てですね、ただ今も紛争中、ということらしいです。
(読み始めたばかりの本なんでまだ結論は不明)
ようするにだ、私が言いたかったのは、「カメラワークのように作品全体を映し出す意思がまず存在し、そこに出現するオブジェクトを書き記す意思がまた別個に存在し、その上に神視点以外の視点において語りを担当する意思が場合によってはまた別個で存在するよなぁ、」という事でありますね。言ってる意味、解かる?
それが曖昧模糊としてるもんで、書くたんびに『一人称と三人称』の解説がビミョーな事になるんですわ。
そんだけ。
今、幕末にのめり込んでた頃以来の本気度合。
三人称は客観的に描写する、あるいは描写という概念を徹底して解析中。皆は気にならないのか? こうです、と言われてそれをなぜ鵜呑みに出来るんだ?




