第十三回 三人称の種類
三人称といえば、視点の違いで何種かに分かれます。
まずは誰にも寄らないあるいは全員にどっぷりの「神視点」。
それから一人に付きっきりの「一元視点」。
あちこち飛んじゃう「複数視点」。
古典のハードボイルドなどが神視点の代表ですね。登場人物の心情は一切書かない。装飾もしない。
非常に硬質な空気に包まれており、また、良質の作品は読者の想像力を強く刺激します。
しかし、ハートフルな物語などは極端に苦手であり、感動系には恐ろしく不向きです。(おい)
古い中国系の民話などもこの形態が多いです。飄々としており無機質。
わたくし、大好物の文章です。
地の文は見えるものだけをひたすら描写しています。人の内面など、見えないものは一切書きません。書き手の感性に引きずられた描写もありません。神は、無感情です。
映画を文章に直したような感じです、個人的に感じるイメージとしては。
見えるものを見えるままに、一切の感情を排して描写します。大っ好きです。
次に一元視点です。
背景描写などの入った一人称、というところです。「わたし」を「名前」に変えるだけで、色々と書ける範囲が広がります。視点が二つに増えるんです。カメラさんの視点が。
漫画の手法がこれですね、フキ出し以外の場所とかに、登場人物の心情がこう、集中線に囲われる感じで書いてあったりするでしょ? アレです。
カメラ視点=読者視点で、主人公視点の心情描写は多少他人事になります。
まぁ、読者が混乱しさえしなきゃ何でもアリ、と言えるんでOKなんです。(メタの考え方)
むか~しの漫画は、それこそ4コマ漫画しかなかったんですよ。縦割りブチ抜き見開き……ここまで色々な手法が増えたわけでして、小説だって同じなんです。
ただし、読者が混乱しないことが条件なんで、視点が入り乱れるようなこともOKっちゃOKだけど、視点がごちゃごちゃして解かりずらい、と言われたら、その読者に対しては敗北を素直に認めましょう。
ちゃんと読める読者だっています、それが読解力の差ってモンです。読者のタイプが違うので仕方ない。
複数視点は戦記物などに多いですね。てか、神視点全員突入バージョンでしょ、コレ。
単純に、『~は○○○と思った。』の、前後を省いてあるだけの事が多いよ。察しろ、て感じに。
三人称と一人称は明確に区別が付くけれど、三人称の細かいところはわりと混沌としてますね。
三人称の前に、描写には二種類の好みがあります。
写実主義と象徴主義ですかね、言ってみるなら。(絵画のね)
古典のハードボイルドは写実の代表でしょう。見えるまましか書かない。
これが好みのわたしのような読者は、逆の象徴派の文章がたいそう嫌いであったりします。
解かりにくいし、細かいところまで主観を押し付けられて不快だし、動きはのそのそしてるし、もっとシャープに描写出来んのかと文句たらたらですよ。
作者が出しゃばり過ぎだと感じてしまうのです。読者の想像力の邪魔をしていて、そんなに信用出来ないのかと不満を感じます。こう感じなさいとでも言いたげな地の文がとにかく癇に障るんです。
これが、相手は相手で、ストレートに書けばいいってもんじゃない、文章の美しさはどこ行った、なんて事でぶつぶつ言っていたりするんでしょう。(笑
好みの問題、感性の違いだから仕方がないですね。写実派は客観的な文を好み、象徴派は主観的な文を好む。
優雅に広がる白い翼と青い海のコントラストが……うんぬんかんぬん。(笑
これが象徴派の好む装飾文体ですね。
鴎が海面すれすれに飛んでいく。
これが写実派の文章。そっけないもんです。(笑




