第四話 空の鳥籠は揺れて①
冴木が見舞いに来てくれたのは、異頭さんとカフェへ行った三日後のことだ。俺は冴木に礼を言いながら、彼が見舞いの品として持参したマジックハンドでボックスティッシュを掴んだり離したりするのを、ぼんやりと眺めていた。
見舞いに来てくれるのはありがたいし、感謝もしている。文句などあるはずがない。
でも、なんで見舞いの品がマジックハンドなんだ?
「お前、俺のこと小学生だと思ってないか?」
「マジックハンドは必須だって! 楽しいし、もうベッドから落ちなくて済むだろ」
「だとしても、見舞いの品で遊ぶなよ……」
思わず漏れた溜め息が、軽快な笑い声に掻き消される。冴木はマジックハンドを布団の上に置くと「童心に帰るのも悪くないぞ」と俺の肩を叩いた。
振動で揺れた足が痛み、声にならない声が出る。
「ごめん、痛かったか?」
心配する冴木に手を振り、痛みを逃す。ふと情けない顔をした彼と目が合って、強がって笑ってみせた。
「……だ、大丈夫。もうすぐリハビリだし、これくらい慣れていかないとな」
「悪かった、次から気をつける。あ、手伝えることがあったら遠慮なく言えよ。すぐ来るから!」
そう言って去っていく背中を見送りながら、本当に良いやつだなぁと溜め息をつく。なんであんな良い奴が俺なんかを気にかけるんだろう? あの優しさに裏でもあれば、いっそ安心できるかもしれないのに。
拗らせた思考を振り払うように布団を引っ張ると、マジックハンドが音を立てて床に滑り落ちた。
「やべっ」
慌てて手を伸ばしたが、届かない。
俺はベッドに腹這いになり、上半身を垂らすようにして手を伸ばした。指先がマジックハンドを引っ掻くたびに、体が揺れて上半身がずり落ちていく。臍から下をベッドの上に残したまま、床に手をついて身を乗り出す。
あと少しで掴めるというところで、視界の端に銀色の靴が飛び込んできた。
異頭さんだ。
俺はマジックハンドを見ながら口を開いた。
「ちょっと待ってもらえますか? 今、立て込んでまして」
「またベッドから落ちちゃいますよ?」
「あと少しなんで」
俺が言い終わる前に、上から伸びてきた手がマジックハンドを拾い上げていく。ズリズリとベッドに戻る俺の頭上から「無理せずナースコールしてくださいって、前も怒られてたじゃないですか」と溜め息が降ってきた。
彼女の前では格好がつかないことばかりだ。ばつの悪さから顔をあげられずにいると、目前にマジックハンドが差し出された。
……もしかして、今日も違う被り物をしているんだろうか?
脳裏に先日の痴態が蘇る。
もう驚かないと意気込んで、顔を上げた。
紺色のロングスカートに、漢服のような白い上衣。首の上には煌びやかなドーム型の鳥籠が乗っている。それはいい。
だが、籠の隙間からは病院の白い壁が覗いていて、肝心の中身が見当たらない。
「頭は!?」
俺は慌てて周囲を見渡したが、彼女の頭らしきものは見当たらない。
「落ち着いてください、頭はあります」
「頭は大丈夫なんですか!?」
「ふはっ、それはもう悪口では?」
笑い声とともに異頭さんの頭が揺れ、ドームの最上部についた吊り下げ用の輪や扉の金具が小さく音を立てる。よく見れば、鳥籠の中に蛍光灯や病室のカーテンなどが映り込んでいるようだ。
「あれ、空洞じゃない?」
「頭を覆う部分にマジックミラーを貼っているんです。病院は壁も天井も白いので、映り込みが分かりにくいですよね」
異頭さんは少し屈むと、鳥籠に両手を添えて、鏡に手が映りこむのを見せてくれた。
「確かに手が映ってる。えっ、まさかこれも手作りで?」
精巧な作りに感心する俺に合わせて、異頭さんがスッと腰を落とす。被り物がより見やすいように気を遣ってくれたのかと思ったが、彼女はそのまま格闘家のように力強く拳を構えはじめた。
「先日のお約束は覚えていますか?」
その言葉に、よだか姿の彼女とカフェで交わしたやりとりが脳裏に蘇る。
『もし違ったら、俺をぶん殴ってください』
『……本気ですか?』
あの時、彼女は笑って言った。
『約束ですよ』
ゾクっと背中に悪寒が走り、咄嗟に自分の体を掻き抱く。
――まさか。
「殴らせてくれるんですよね?」
有無を言わさぬ声色に、あの人が脳裏をよぎる。俺は姿勢を正して座り直すと、深々と頭を下げた。
「すみませんでした。何も知らずに、余計なことを」
「……」
「お詫びになるかは分かりませんが、一思いにお願いします」
「……いいんですか?」
勢いよく顔を上げ、無言で頷く。勝手な憶測で傷つけたのだ、罰は甘んじて受けよう。俺は力いっぱい目をつむり、カタカタと鳴りそうな歯を精一杯食い縛る。ぎゅっと体を硬直させたところで、おでこからペチンと軽い音がした。
「痛っ……い?」
「なんで疑問形なんですか」
恐る恐る目を開けると、異頭さんがナースコールへ手を伸ばしていた。淡々と看護師を呼ぶ声に、ぎょっとする。
もしや、今から本番?
事前に看護師を呼ぶレベルで殴られるのか?
内心慄いていると、彼女は急に笑い始めた。
「もう! 母には散々笑われたんですからね!」
「それは……」
「『鈍すぎ』って! 母も言ってくれたらいいのに、全く……。ふふっ、あんなに笑う母は久しぶりに見ました」
明るい声を響かせながら、マジックミラーの頭が病室中に光の欠片をキラキラと投げかける。
まるで真昼の星空だ。
その中心に立つ彼女もまた幻想的な姿をしていて、溜め息が漏れた。
「綺麗だ」
ぽつりと呟けば、異頭さんが大袈裟に体を揺らした。
「えっ、あの」
「良かったです、誤解が解けて」
「あ……りがとうございます」
蚊の鳴くような声を出すと、彼女は突然一歩下がって俯いてしまった。
何かまずいことでも言っただろうか?
不安になってベッドから身を乗り出したところで、ナースコールで呼ばれた看護師が部屋に入ってきた。渋い顔で「一人で移乗したらダメですからね?」と念を押す看護師に頭を下げ、脇腹を抱えられて車椅子へ移る。
ちらりと異頭さんを見ると、彼女も元通り顔を上げていた。
「カフェまで押しましょうか?」
「いえ、リハビリも兼ねてますので」
「……そうですか」
車椅子を漕ぎながら、隣を歩く異頭さんを見上げる。首がほんのりと色付いているのが気になって、俺は躊躇いながら口を開いた。
「あの、どうかしましたか?」
鳥籠の金具が小さく高い音を立て、迷うように顔が揺れる。
「いや、その……そうだ、呼び方。私もパグさんとお呼びしてもいいですか?」
「えっ」
「初めて聞いた時から、ピッタリだなぁと思っていて」
チン、とエレベーターホールから音がして、彼女の意識が逸れる。その隙にリノリウムの床をタイヤで擦り、唇を噛んだ。
あだ名に意味なんてないし、誰にも悪気がないことだって分かっている。呼び名なんて何だっていい――そう思おうとするたびに、幼い頃に聞いた母のカサついた声が脳裏をよぎる。
『その食べ方、犬みたいね』
車輪の縁を強く握り、俺は彼女から顔を逸らした。
「あー、そんなに犬っぽいですか?」
「犬というか、パグには古い英語で“優しく愛されるもの”という意味もあると何かで読んだことがあって。良いあだ名だと思っていたんです」
嬉しそうな声に合わせて、彼女の足が軽やかに前へ進む。その後ろ姿を眺めながら、呆然と呟いた。
「……優しく、愛される?」
そんな意味があるなんて知らなかった。
仮に知っていても、そんな言葉は自分には当てはまらないと切り捨てていただろう。
でも彼女は――異頭さんは、そういう意味で呼びたいと言う。
「勝手なことを言って、申し訳ありません。もう言いません」
何やら誤解した様子の彼女が、深々と頭を下げる。俺は頭を上げるよう促しながら呟いた。
「初めてです、そんな風に言われたの」
「……お嫌でしたか?」
しおしおと項垂れる鳥籠というのは何ともシュールで、なんだか可笑しく思えて仕方がない。
「驚いただけですよ。少し照れるけど、嫌とかじゃ……嫌じゃ、ありません」
噛み締めるように呟くと、彼女が軽やかに笑った。
「じゃあ、あだ名の由来がひとつ増えましたね。ふふっ、色々な本を読んできた甲斐がありました!」
そう言って自慢げに胸を張る姿に、自然と口の端が緩む。
異頭さんには悪いけど、俺はこのあだ名が好きじゃない。いくら由来が増えたって、それだけで嬉しいなんて思えない。
ただ、俺を“優しく愛されるもの”と思ってもらえた。そう呼びたいと言ってくれた。俺なんかには一生届かないと思い続けてきたものを、なんて事ない声と仕草で、彼女は俺に示してくれた。
それが嬉しい。
でも、そんなことを言えるわけがない。
言葉が俺の中に溢れて、まるで星を飲んだみたいに胸が熱くなる。救いを求めるように異頭さんを見上げれば、不思議そうに小首を傾げられた。鳥籠の金具が、澄んだ音を立てて揺れる。
「どうかしましたか?」
「……いえ、別に」
眩しさに目を細めながら、誤魔化すように顔を伏せる。廊下に漂う外の冷気が、火照る頬に心地よい。くしゃみをすれば労わる声が聞こえてきて、その優しさが少しだけ擽ったい。
今日はホットの方がいいかもしれない。
カフェに着いたところでホットココアを注文した俺は、またしても会計を異頭さんに奪われてしまった。せめて席への移動くらいは一人で済ませようとしたが、入口付近のテーブル席はベビーカーで埋まっている。俺は店員に声をかけ、窓際にあるカウンター席の椅子を一つ動かしてもらうと、車椅子ごと席へ着き、大人しく彼女を待つことにした。
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