第六話 ないものねだりのモミの木①
あれから5日が経った。
傾きはじめた午後の低い日差しが差し込む病室には、相変わらず俺しかいない。だが、最近は廊下から子供達の声が聞こえるおかげで、さほど寂しさは感じなかった。
今日も何やら騒がしい廊下へ目をやる。開け放された扉の影には、見慣れた銀のつま先が、昨日と寸分違わぬ場所で見切れている。
――多分、いや絶対、異頭さんだよなぁ。
あんなことを口走った手前、無理に招き入れて怖がらせたくない。
そう思って、もう三日になる。
俺は意を決して息を吸うと「歩コウカナー」と大声で宣言をして、できるだけ大きな音を立てながら松葉杖を掴んだ。
廊下を見る。銀の靴は動かない。
靴がピクリとでもしたら戻ろう。
そう決めて、松葉杖で一歩踏み出す。二歩、三歩、進んでも靴は動かない。部屋と扉の境目で、俺は意を決して顔を上げた。
針葉樹のように尖った葉が、わさわさと揺れる。
そこには、大きな人工のクリスマスツリーが立っていた。
てっぺんにはキラキラとした金紙の星が輝き、胴体は金の林檎や胡桃を模した豪華なオーナメントで華やかに飾り付けられている。周囲には子供たちが集まり、キラキラとした目でツリーを眺めたり指さしたりしている。
まだ秋であることを除けば、まさに理想のクリスマスツリーだ。
木の裾から銀の靴が覗いていなければ、これが異頭さんだとは思わなかっただろう。
……異頭さん、だよな?
恐る恐る声をかけようとした俺の隣で、体の小さな子供がツリーに飛び付いてオーナメントを引きちぎった。
「もーらい!」
「あーっ、ずるい!」
そんな声が聞こえ、子供達が一斉にツリーへ手を伸ばす。ブチブチッと紐が切れる音がして、廊下に甲高い子供の声が響く。
慌てて止めに入ろうとした瞬間、ツリーから二本の腕が飛び出して、自らオーナメントを引きちぎった。
小さな破片が床で跳ねる音が、廊下に小さく反響する。
突然の出来事に子供達が呆然としている間に、ツリーは子供の目線に合わせるようにしゃがみこむと、今度は丁寧にオーナメントを外しはじめた。
「一個だけね」
異頭さんの声が優しく廊下に響く。子供達は、ハッとしたようにオーナメントを受け取ると、一目散に駆けていった。
急に静まり返った廊下で、ぽつんと残された彼女が床に手をつく。どこか痛めたのかと慌てて様子を窺えば、ツリーから抜けたプラスチックの葉を回収していた。
俺も廊下にしゃがみ込み、オーナメントの破片を回収する。リノリウムの床は思ったよりも底冷えがして、指先が僅かに強張る。
「子供達、凄かったですね」
「こんな格好で立ってたからか、気付いたら集まってきてて……反省します。誰も怪我しなくて良かった」
そう言って立ち上がった彼女に、オーナメントは一つも残っていなかった。子供達の手が届く範囲の枝は曲がったり葉が閉じたりしていて、不格好に空いた隙間からは青いロングスカートが覗いている。
「異頭さんは大丈夫ですか?」
「いいんです。もうツリーの役目は終わりですから」
誰もいない廊下の先を眺める彼女を見上げて、俺も腰を上げる。強張った足が重く感じて、松葉杖を握る手に力がこもる。
すると、異頭さんが困ったように笑いながら俺を見た。
「パグさんにはご迷惑をおかけしてしまいましたね。ゴミ拾いまでさせちゃって」
「いえいえ。冴木の方がよっぽど迷惑かけてきますから。あいつ、子供がお遊戯会でシンデレラのネズミをしたって未だに自慢してくるんですから。もう何年も前の話なのに!」
「それだけ素敵なネズミだったんですね」
ふふっと笑う声が枝葉の奥から漏れ聞こえてきて、俺はそっと肩の力を抜いた。
このままいけば、独り言を聞かれる前の関係に戻れるかもしれない。
これでいい。
これでいいんだ。
そう自分に言い聞かせる。
病室へと戻りながら、俺は普段よりも活気のある声で異頭さんへ話しかけた。
「異頭さんは、子供の頃の思い出とかありますか?」
「そうですね……私は学芸会で“オズの魔法使い”をしたんです。でも、ドロシーとライオンに人気が集中しちゃって、その二役だけ三人ずつくらいいて」
なんとなく想像できて、笑いが漏れる。俺はベッドに松葉杖を立てかけると、隣に立つ彼女を見上げた。
「あ〜、ちょっと分かるかも。俺もライオンがいい」
「私はドロシーより銀の靴に憧れたなぁ。かかとを鳴らして今すぐ飛んでいきたい〜って」
羽ばたくように枝を揺する彼女に椅子をすすめると、足元に寄せた机に手をついてベッドへ腰を下ろす。
彼女はワサワサと壁に葉を擦りつけながらベッド横へと身を滑らせると、手間取りながらも椅子にちょこんと腰掛けた。あつらえたように狭いベッド横のスペースに収まったツリーの裾からは、ゆらゆらと揺れる銀の靴が覗いている。
「だから、いつも銀の靴を?」
軽い気持ちで尋ねたのだが、異頭さんには違って聞こえたらしい。彼女はまばらになった枝葉の奥に足を潜り込ませると、俯きがちに呟いた。
「この靴を買った時は、夢が叶ったようで嬉しかったなぁ。心の中で踵を三回鳴らして強く願えば……そうすれば、行きたいところへ行ける気がして」
パタパタと廊下を歩く足音が近付き、遠ざかっていく。俺は首を傾げて彼女を見た。
「行きたいところ?」
「踏み出せない一歩の先とか、私が望んでも行けない未来とか。玄関で踵を鳴らして、いつも願うんです。私を連れて行って、私を……」
言葉が途切れ、ツリーが揺れる。
てっぺんに輝く金紙の星が傾いて、そのまま深く項垂れた。
「……それも、もうおしまい」
床に落ちる午後の日差しが暗く沈んで、カラスの鳴き声が遠ざかっていく。もうすぐ日が暮れる。
噛み締めるように呟かれた言葉の意味を確かめる間も無く、異頭さんは明るい声で話し始めた。
「今日は、アンデルセンの“モミの木”をモチーフにしているんです」
――アンデルセン。
人魚姫のような悲しい物語の印象が強い作者の名前に、胸がざわつく。でも認めたくなくて、わざと明るく話しかけた。
「えっと、どんなお話なんですか?」
「幼木だったモミの木は、成長を急ぐあまり今を楽しめないまま大きくなり、ついに憧れのクリスマスツリーになるんです。綺麗に飾りつけられて、モミの木は一生で一番たのしい日を過ごすんですよ」
「一生で一番、たのしい日……」
異頭さんが頷き、心臓が大きく脈打つ。
モミの木が一生で一番たのしかった日の姿を選んで被ってきたということは――。
もしかして、異頭さんにとって今日が一生で一番たのしい日になる、という意味だったりするのだろうか。
俺に会いに来た、今日が?
……まさか、いや、そんな。
夢みがちな自分に、心の中で首を振る。
でも、一度思えば期待せずにはいられない。ちらりと彼女を見る。廊下で子供達にオーナメントを分け与えていた姿は、物語のモミの木と同じく、まさに理想のクリスマスツリーだった。
彼女の心情が物語と同じなら、万が一、いや億が一だとしても、彼女も俺を憎からず思ってくれている可能性が、ある?
一緒に未来を歩む可能性が――?
異頭さんへ向ける視線に、思わず期待が乗る。
すると、彼女は小さく頷いて、落ち着いた声で話し始めた。
「モミの木は知らなかったんです。また素敵なことが起きると思って冬を越し、春に枝葉の枯れた自分の姿に愕然とする。もうだめだ、もうだめだって後悔しながら燃えきって、おしまい」
「……えっ、おしまい?」
衝撃的な結末に、間の抜けた声が出る。
浮かれていた思考と物語の結末の落差が激しすぎて、気持ちがついてこない。
異頭さんが椅子を引き、擦れ合った葉が薪のような音を立てる。混乱する俺を見かねたのか、彼女は言い聞かせるように話し始めた。
「私ね、パグさんが思うほど若くないんです。それなのに家事も仕事も人並みにできないし、被り物がないと家からも出られない」
「急に、何を……」
「だから、ここに来るのは今日で最後」
言葉が冷たい水のように体の中を通り、腹の底に落ちる。
熱が引いていく。
――なんだ、そういうことか。
彼女は俺の独白を聞いて、その答えを伝えに来たんだ。
わざわざ自分の悪いと思う所を並べ立ててまで。
「この間のは、その、久しぶりに話すのが楽しくて感慨深くなっただけで、特別な意味は全然……」
……ないと言えるか、本当に?
自省する声に反論できず、唇を噛む。
身勝手に期待していた自覚があるのに、何事もなかったように振る舞うことなんてできない。そもそも、こうして異頭さんと話していること自体が、負担になっている可能性だってある。
そこまで考えて、ようやく俺はハッとした。
何も言わずに言葉の続きを待つ異頭さんを見ながら、俺は自分の手足が冷たくなっていくのを感じた。
――俺のせいか?
何日も部屋に入ってこなかったのも。
被り物が全身を覆うほど大きいのも。
彼女が今、何も言わないのも。
全部、俺が原因?
「この度はご迷惑をおかけしました。余計なことを言って、傷付けて、本当に……申し訳ない」
俺は姿勢を正すと、異頭さんから自分の顔を隠すように深々と頭を下げた。
ギリっと唇を噛む。どこまでも自分勝手な自分が許せなくて、歯に力が籠っていく。喉が締まって息ができない。
脳裏に母の冷たい眼差しが蘇る。
『自分さえ良ければいいと思ってるんでしょ』
そんなことはない。
俺は、彼女の気持ちを最優先にしてきたはずだ。
――本当に?
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