第1話
どこまでも青い海を、白い帆船が進んでいく。
カイリナを出てから今日で三日。
船は順調に進み、もう間もなく港につける予定だった。
(船旅も、たまにすると気持ちいいなぁ)
そう思えるのは、シャルロットが用意してくれたのが一等客室だったおかげである。
かつての旅では船倉にある小さな船室に押し込まれていたが、今回は三つの寝室とお風呂までついた豪華な客室だったのだ。
料理も海産物を使った豪華なもので、あまりの待遇に初日は緊張してしまったほどだ。
といっても、せっかくの豪華な船旅の大半を、イザベラは呪いの本を解くことに費やしていた。
おかげで、ようやく呪いの全容をイザベラは掴み始めていた。
クリードが側にいないのを確認してから、イザベラはデッキのベンチに座り、本を開く。
(それにしても、本当にやっかいな呪いね……)
本に記されているのは『変化の呪い』とみて間違いない。
そしてそれは、使用を禁じられている最悪の呪いでもあった。
かつて、人と魔王との戦いが激化した時代――、人は形勢を逆転させるために魔物の力を取り込むという案を見いだしたのだ。
当初は魔法という形で、身体の一部を魔物に変化させ、その力を使おうと考えた。
だが人と魔物は、相容れない。
魔物の要素を得た人間は気が狂い、魔物も人間も見境なく襲うようになってしまったのだ。
それを見た魔王は変化の魔法を呪いに変え、人々に振りまいた。
多くの人間が魔物に変わり、あまりにもたくさんの血が流れた。
その後、勇者と魔法使いたちが呪いを封印し、変化に関わる魔法は二度と使ってはいけないと取り決めたのである。
そしてその禁じられた呪いが、今イザベラの手の中にある。
(もしもこれが本当に『変化の呪い』だとしたらクリードは……)
恐ろしい予感に震えていると、イザベラの方へと足音が近づいてくる。
慌てて本を隠せば、現れたのはシャルロットだった。
「おはようございます」
「ひどい顔だな、寝不足か」
「老師からの課題が、ちょっと……」
力なく笑うと、シャルロットが隣の席に腰を下ろす。
「あまり無理をするな、もとより解けないものだと皆わかっている」
「でも、それじゃあ……」
「老師は多分、お前に兄上のことを少しでも教えたくて書を託したのだ」
「そういうシャルロット様は、呪いのことは……」
「僕は兄上のことはなんでも知っている」
普段なら得意げになるところだが、今このときばかりはシャルロットの表情は浮かない。
「だが、僕もまたそれを口に出来ぬ呪いにかかっている」
ということは、喋ろうとしたらミゲルのような珍妙な顔になるのだろうか。
などと思ってしまい、イザベラは慌てて考えを振り払おうとする。
「お前、いま凄まじくどうでもいいことを考えただろう」
「す、すみません、ミゲル老師も同じことを言っていたので……」
「老師がかかった呪いは更に複雑だ。彼は兄上の呪いについて深く踏み込みすぎたからな」
「なら私も、知りすぎたら呪いをかけられるのですか?」
「そうだ。この呪いは秘匿とされるもの――踏み込めば、秘密を守る者たちがお前に呪いをかけに来るだろう」
「じゃあ、私もいつか……」
「老師と同じ変な顔になるぞ」
からかうように、シャルロットが笑う。
「だが、お前がその本を持っていることは僕と老師しかまだ知らない。だから今のうちに、少しでも調べておけ」
シャルロットの言葉に、イザベラは頷く。
そして早速本を開こうと思ったとき、突然「きゃあ!」と黄色い悲鳴がデッキに響く。
「な、何事でしょうか」
「この手の元凶は、兄上に決まっているだろう」
シャルロットと共に悲鳴のする方へと向かったイザベラは、そこで危うく自身も悲鳴を上げそうになる。
(ひ、久々の……勇者モード……!)
船内からデッキへと歩み出てきたのは、魔王を倒した証として国王から賜った、勇者の衣を纏ったクリードだ。
黒を基調にしたそれは彼の旅装を元にデザインされており、実用性に特化している。
軽装を好むクリードのために金属の類いは使わず、生地は皮と布だけであつらえられていた。
勇者の証として用いられるマントも左肩を覆うだけに留まっており、それが風になびく姿は神々しい。
さらにいつの間にか髪型も元に戻っており、長い銀髪に黒衣の組み合わせは素晴らしすぎるとイザベラは拝みたくなった。
「イザベラ」
だがその姿を、まっすぐに見られたのは彼が遠くにいたときだけだ。
近くに来られると、余りのかっこよさにイザベラの拍動が乱れる。
(いつもより破壊力が高いのは、前より好きになっちゃってるからかな……)
もはや目を合わせるのも困難で、イザベラは纏っていたローブのフードを深くかぶった。
「なぜ顔を隠す」
「ちょっと、心を落ち着かせたくて」
「何か、心を乱されるようなことがあったのか?」
「……お前だろう」
息も絶え絶えなイザベラに代わって、シャルロットがぼやく。
「俺は何もしていない」
「まともな服を着ているだろう」
そうなのだ、今のクリードは完全にまともなのだ。
「うぅ……この下がビキニアーマーだったら、こんなに緊張しないのに」
「お前がそんなこと言ったら、兄上がまた着るかもしれないだろう」
「なんだかよくわからないが、イザベラが望むなら……」
「着なくていい!」
「着るんじゃない!」
はからずとも、イザベラとシャルロットの声が重なった。
その途端、クリードがすねたような顔でイザベラの腰に腕を回す。
「二人が、前より仲良くなっている気がする」
「今のは、ただの見解の一致よ」
「だが少し、面白くない」
うなだれた拍子に、銀の髪がイザベラの頬をくすぐる。
(心臓も頬もこそばゆい)
勇者の姿で執事の距離感を取られると、どうにも落ち着かない。
でもそれを顔に出すともっとすねた顔をされたので、イザベラは逃げ出したい気持ちを堪える。
そしてそっとフードを外し、クリードの顔を正面から見た。
「勇者のあなたを、こんなに近くで見たのは初めてだから戸惑っちゃって」
「そういえば、昔は近づくとすぐ逃げられた」
「クリードは格好いいから、近づきがたかったの」
「でも今は、逃げないでほしい」
「うん、わかってる」
こうして側にいられるのは、きっと貴重なことだ。
何よりクリードが「離れる」ことを怖がっていると知った今、逃げるようなことはしたくないとイザベラは思ったのだ。
「ただ、ちょっと挙動不審になるのは許してね」
「わかった。あと本当に必要があれば、ビキニアーマーでもなんでも着るから言って欲しい」
「いや、いいってば!」
「だが君が離れてしまうくらいなら、俺は何だって着る」
シャルロットの言うとおり、クリードの尊厳は自分の肩に掛かっているようだ。
「私も勇者のあなたに慣れたいし、絶対そのままでいて」
「わかった」
笑顔で頷くクリードにほっとしていると、そこでわざとらしい咳払いが聞こえてくる。
「僕を空気にしてイチャイチャするなと、何度言えばわかる」
「い、イチャイチャじゃないです」
「そうだ、イチャイチャではない。そういうのは二人きりのときにすると決めている」
後半は言わないで欲しかったと思っていると、シャルロットは特大のため息をこぼし、「勝手にしろ」とその場を後にした。
残されたイザベラが胃の痛い思いをしていると、そこで身体に回っていた腕がほどけた。
いつもなら、「二人きりだな」などと言ってもっとひっついてきそうなのに、ここ数日のクリードは珍しく距離を取りがちだ。
先ほどはああ言ったが、二人きりの時でも触れあいを我慢している気配がある。
そしてそのたび、彼は何かを迷うような顔をする。
理由の一端を知った今、イザベラは離れた腕を寂しく思う。
そして意を決し、あえて自分からクリードの手を取った。
「着くまで、少しこうしていてもいい?」
おずおずと尋ねれば、クリードが幸せそうに目を細める。
「ああ、そうしよう」
自然と指が絡まり、恋人のように手を繋ぎながら二人は海を眺める。
遠くに見え始めたカリストの森を眺めながら、イザベラは少しだけクリードの方に身を寄せる。
するとクリードもイザベラの頭にそっと頬を押し当てた。
「思えば、夢がまたひとつ叶ったな」
ぽつりとこぼれた言葉に、イザベラは小さく首をかしげる。
「夢って何が?」
「君とこうして、船に乗ることだ」
「船なら、前も乗ったじゃない」
「だがあのとき、君は隣にいなかった」
寂しそうな声で言いながら、クリードは繋いだ手に力を込める。
「旅の時、君はいつも視界の隅にいた」
「近づく勇気がなかったの」
「でもいまは、側にいてくれる」
クリードの微笑む気配に釣られ、そっと顔を上げる。
すると思いのほか近くに、彼の顔があった。
ほんの少し背伸びをすれば、キスできる距離だった。
でもクリードはぐっと身体をこわばらせている。
その目には迷いと怯えが滲んでいて、いつものように距離を近づけて来ない。
(しないほうが、いいのかな……)
クリードが望まないならばと思う一方、手の力だけは増していく。
彼が自分を求めているのを感じ、ならばとイザベラはそっと背伸びをする。
二人の唇が優しく重なると、今更のように恥ずかしさがこみあげてくる。
でもこの距離感では赤くなった顔を隠せないので、イザベラは唇を放しながら潔く照れ笑いを浮かべた。
「今日はまだ、おはようの挨拶してなかったから」
言い訳のようにそう言った瞬間、堪えきれないとばかりにクリードからもキスをされる。
呼吸ごと奪うような荒々しさに戸惑うも、イザベラは彼に身を委ねる。
キスは長く続き、イザベラの息が乱れ始めたあたりでようやく止まった。
「キスって、ふつう……こんなに長いの……?」
呼吸を整えながら聞けば、「すまない……」とクリードがうめいた。
「普通のキスにも、挑戦しているのだが」
「挑戦はしてるんだ……」
「ただ君が余りにも可愛くて、つい……普通に出来ず……」
言いながら、ぎゅっと身体を抱き寄せられる。
「苦しめて、すまない」
「息は苦しいけど、すごく幸せだからいいの」
「俺も君とのキスは、世界で一番幸せだ」
笑顔が重なり、そして今度は自然と二人の唇が重なる。
ふれ合うだけのキスが成功し、二人はまた笑った。
「出来たじゃない」
「出来たけど、ちょっと物足りない」
そこでまた唇が近づきかけるも、船の汽笛が甘い時間を終わりにしてしまう。
「もうすぐ着くみたいね」
「……うぅ」
落ち込むクリードを可笑しく思いながら、イザベラはうなだれる彼の頭を撫でる。
これまでとは違う銀色の髪を見ても、もう緊張はしない。
代わりに愛おしさを覚えながら、「またあとでね」とイザベラは笑った。




