196年①微、学ぶ
ちょっとベタな話ですが。
【田疇】が【微】に教える話。
春。
この村で暮らし始めて、いくつか月が過ぎた。
【微】は朝の仕事を終えると、庵の前に座っていた。
膝の上には、薄い木簡がある。
「……これが『山』?」
「そうだ」
向かいに座った【田疇】が頷く。
「簡単でしょう?」
「形を覚えればな」
【微】は木簡に書かれた文字を指でなぞった。
「じゃあ、これは?」
「『水』だ」
「こっちは?」
「『人』」
「これは?」
「……それは違う」
「え?」
【微】が自分で書いた文字を見せる。
「『人』を書いたつもりなんだけど」
「お前の『人』は、何かが転んでいるように見える」
「ひどい」
【微】は頬を膨らませた。
【田疇】は小さく笑った。
「何度か書けば覚える」
「本当に?」
「少なくとも、今よりはましになる」
「じゃあ、いっぱい書く」
【微】は木簡を引き寄せた。
筆を持つ。
何度も同じ文字を書いていく。
山。
水。
人。
少しずつ形が整っていく。
「……面白い」
「何がだ?」
「昨日まで読めなかったものが、読めるようになる」
【微】は書いた文字を眺めた。
「交易の時にも役に立つかな?」
「役に立つ」
「値段も?」
「数を覚えればな」
「じゃあ、数も教えて」
「欲張りだな」
「商人だもの」
【微】は笑った。
村へ来てから、【微】は以前よりも多くのことを知るようになっていた。
山道の歩き方。
水の流れ。
薬草の見分け方。
村で使われる道具。
そして、文字。
草原で暮らしていた頃にも、知らないことはたくさんあった。
けれど、その時は知らないことを知らないままでも、特に困らなかった。
馬に乗れば遠くへ行けた。
交易をすれば必要な物は手に入った。
分からないことがあれば、誰かに聞けばよかった。
村へ来てからは、それだけでは済まないことが増えた。
「これ、何て読むの?」
「それは――」
【微】はまた【田疇】に尋ねる。
【田疇】が答える。
【微】は木簡に書き留める。
そんな時間が、少しずつ増えていった。
ある日。
【微】は村の道を歩いていた。
手には、先ほど教えてもらった文字を書いた木簡がある。
村の子供が一人、後ろから覗き込んだ。
「それ、何?」
「字」
「読めるの?」
「少しだけ」
【微】は得意そうに木簡を見せた。
「これは『山』」
「山?」
「そう」
「じゃあ、これは?」
「……分からない」
「読めないじゃん」
「まだ習ってないの!」
子供が笑う。
【微】も笑った。
そのまま二人で木簡を眺める。
山の上では、松の枝が風に揺れていた。
盤山で過ごす時間は、静かだった。
市へ出ていた頃とは違う。
毎日、何かが起こるわけでもない。
けれど、【微】は退屈していなかった。
知らないことを一つ覚える。
できなかったことが、一つできるようになる。
それだけで、少し楽しかった。
夕方。
【微】は庵へ戻った。
「今日、文字を三つ覚えた」
「そうか」
「明日はもっと覚える」
「焦る必要はない」
「でも、交易するなら知ってた方が便利でしょう?」
「そうだな」
【田疇】は頷いた。
【微】は木簡を眺めた。
そこには、まだ拙い文字が並んでいる。
それでも以前の自分には、ただの線にしか見えなかったものだった。
「……ねえ」
「何だ?」
「もっと色々知りたい」
【田疇】は【微】を見る。
「文字だけじゃなくて」
【微】は少し考えた。
「この山のことも、この辺りのことも」
「どうして?」
「だって――」
【微】は笑った。
「ここにいるんだから」
【田疇】は何も言わなかった。
ただ、【微】の言葉を聞いて、小さく頷いた。
夕暮れの庵に、静かな風が吹いていた。
当時、紙は開発されていますが、高級品。
木簡や竹簡の表面をナイフのようなもので削いで再利用するのがいつもだったようです。




