冬
「・・・・・・ライブ配信がない」
あの秋の炎上騒ぎ以降、編集された企画動画はアップされるものの、Vtuberの一番の人気パロメータであり、稼ぎの大部分を占めるライブ配信は、一度もない。
せっかく「最近注目のVtuber」として、事務所に所属していないフリーのいわゆる個人勢と呼ばれるVtuberでは珍しく、専門誌でも見開きで特集が組まれるくらいに成長していたのに。追撃の手がなければ、興味を持ってくれた人はファンになってくれない。
夢雲テディはファンを金と結びつけてはいないが、リアルタイムで交流できるライブ配信を大切にしていた。
「うう~さみぃ」
バイト終わりにスマホでSNSを確認しつつ、外に出る。ついこの間まで、秋とは名ばかりの高い気温で、汗ばむくらいだっというのに、息が白くなっている。
Uじろを名乗るアカウントは、いまだに作っていない。変わらず、捨て垢のリスト管理で夢雲テディのファンの動向をチェックしている。ファンアートを描いたりと活発な活動をしている者もいるが、テディのことを心配している者が多数だ。
けれど、夢雲テディの話題をまったく出さないアカウントが増えていた。ある程度遡っても他のものに夢中で、プロフからも名前が消えているアカウントは、リストから外す。
せっかく人気が出てきたのにもったいない、だとか、俺たちのエゴでしかない。
はぁ、と大きく溜息をついた。
悩んでいても仕方がない。予約していたジムに向かう。
基本は週に二回だが、最近は取れたら三回行くようにしている。
熊井のことが心配だからだ。
もはや俺の中では、夢雲テディ=熊井夏月という図式が確実なものになっていた。彼は炎上騒動から、目に見えて元気がない。そういうことなのだと思う。
「おはようございまー・・・・・・って、なんですか?」
会員証代わりのスマホをタッチしてジムに入館すると、受付担当の女性に「金本さん! ちょっと待ってください!」と呼び止められた。早く着替えてトレーニングに入りたいとうずうずしている俺に、しょんぼりと申し訳なさそうな顔をしている。
「あの、熊井トレーナーなんですけど、本日お休みをいただくことになりまして。代理のトレーナーが担当します。前もってお知らせできなくて、申し訳ありません」
頭を下げた彼女に、俺はかける言葉もない。怒っているのだと誤解した彼女に、「いや、大丈夫です。熊井さん、風邪かなんかですか?」と、俺は軽く尋ねた。
季節は冬、体調を崩しやすい時期だ。ムキムキの肉体を持っている彼は、体脂肪も低い。そういう人は逆に風邪を引きやすい、という話も聞いたことがある。真偽の程は知らないが。
心配をしていると、うーん、と彼女は曖昧な顔である。だが、何を言ってくれるわけでもない。そりゃそうだ。個人情報は会員の俺たちだけじゃなくて、働いている側だって同じように扱われなきゃならない。
きちんとした意識のある人なんだなあ、と感心しつつロッカーで着替え、トレーニングルームに向かう。
「あ、金本くん」
「おはようございます」
すっかり仲良くなったおじさんと挨拶もそこそこに、彼は耳打ちをしてきた。
「ねぇ知ってる? 熊井くん、ここ、辞めるかもしれないって・・・・・・」
「は?」
思わず低い声が出た。少年というよりも少女めいた顔の俺がドスをきかせると、おじさんはびびったみたいに後ずさった。
その後、火野も総動員して熊井の退職の噂を探った。俺には何も言わなかった受付の女性職員も、人懐こい火野のアプローチに、「これは内緒の話だけどね」と、明かしてくれた。
俺に人徳がないのか、それとも火野が警戒心を解くプロなのか、どっちだろう。せめて後者であれ。
「『熊井さん、なんだか上とトラブってるとかで、休みがちなんですよね』だってさ」
「わざわざ声色を真似しなくてもよろしい」
ツッコミをいちいち入れるのも面倒で、俺は火野を無視する。なぁ、礼のひとつやふたつくらいあってもよくね? というBGMを背に、俺は考える。
Vtuber・夢雲テディの炎上騒ぎによる心労で休んでいるわけじゃない。だが、上とのトラブルってなんだ? さすがにそこまでは教えてくれないし、彼女も知らないだろう。あくまでも、噂話なんだ。
休みがちとはいっても、欠勤が続いているというわけではない。これまでと比べて、という話で、ただ俺とタイミングが合わないだけ。
・・・・・・そう、あの日以来、ちゃんと週二で通っているにも関わらず、熊井に会えていない。代理のトレーナーも逞しい肉体の持ち主で、同じ男でも惚れ惚れするくらいだし、「いいですよいいですよ、あとちょっと頑張れ!」と、しつこいほどに言葉で励ましてくれる。
けれど、熊井のあの奥ゆかしいまでに喋らないところ、いちいち仕草が可愛らしいところが恋しくなってしまうのは、どうしてだろう。
今日こそは! とジムに勇み足で通った俺を、果たして熊井が待ち受けていた。一番遅い時間にしたのは、彼と話す時間が欲しかったからだ。
無言で指示された(彼は小さいホワイトボードを持っていて、メニューをそこに書くことで意思疎通をする。時折そこには、可愛いクマちゃんのイラストが描かれていたりする)メニューをこなしつつ、じっと熊井を見つめる。
彼は俺の熱視線の理由がわからないという顔をしていた。いつもの無表情ではあったが、目の色が違う。ぽやぽやした目で、俺のことを見つめ返す。
もうだいぶ長いこと通っているので、体力・筋力ともに充実している。トレーニング終わりに、ぜぇはぁ言って何もできない、なんてことも減った。熊井のギリギリを見極める能力よりも、俺の体力の方が勝ち始めたっていうことだ。
お疲れ様でした、と頭を下げて退出しようとした熊井の手首を、「待って」と掴んだ。
振り向いた彼の目には、驚きと戸惑いの感情が乗っている。
「あの、あの、熊井さん、ここ辞めちゃうって噂を聞いて・・・・・・」
辞めないよな? 噂は噂でしかないんだって言ってくれないか。
俺の願いむなしく、熊井は是とも否とも言わなかった。けれど俯く顔の角度は、限りなく肯定に近い。
「なあ、辞めないって言ってくれよ。俺はあんたと一緒だから、ここまで頑張れたんだよ? なぁ」
「・・・・・・辞めるんなら、辞めるでもいいよ。でもそれは、あんたの口からちゃんと聞きたい。熊井さん、なんか言ってよ」
周りから人がはけたのをいいことに、結構大きな声で、俺は熊井に懇願した。詰る、にも似ていたし、縋る、とも取れたかもしれない。
とにかく俺は、熊井の口から、事の顛末について聞きたかった。面と向かっては一度たりともまともに聞いたことのない、彼の声を。
けれど、熊井はどうしても話したくないらしく、ただ首を横に振るばかりだった。
ああ、そうか。
俺はただのお客さんだし、友達でもなんでもない。海で遊んだり、お化け屋敷でくっついて歩いたのだって、彼の中には思い出も何も残っちゃいないんだと思い知らされる。
「・・・・・・そう。そうだよな。俺なんか、直接言葉をかわす価値なんてないよな!」
「っ!」
背中を向けても、熊井は追ってこなかった。
・・・・・・どうしてあんたの方が、傷ついた顔をするんだよ。
泣きたいのは、こっちの方だっていうのに。
しばらくの間、熊井の顔を見たくなかった。せっかくジム通いが定着してきたけれど、予約を入れるのを躊躇ってしまう。
彼が休みの曜日は把握していて、その日を狙って個人利用をした。専属のトレーナーがつかない利用は、ふらっとフリーで行くことができる。
ジムのアプリを通して、「最近来ていませんが、何かありましたか?」と、自動返信システムで予約を促される。熊井自身の言葉じゃなきゃ意味がないので、無視を決め込んだ。
指は「休会/退会申請」というボタンを押しては戻りする。フリー利用だけなら、もっと安いジムがあるし、公共施設を使う手だってある。熊井に正しいやり方は教わった。
学割があるとはいえ、高い月会費をドブに捨てている自覚はあって、それでも俺は、最後に残ったか細い繋がりを断ち切ることはできない。
そんな腑抜けた毎日を、ただ惰性で過ごしていたある日。冬休み前最後のレポート課題に取り組んでいる最中、火野から電話があった。
音声通話よりも文章でのやりとりをすることが多いので、珍しい。火急の事態か? と、少しだけ焦り、スマホを手から滑らせそうになりつつ、電話に出た。
「はい?」
『動画サイト! 夢雲テディ!』
彼はそれだけ発すると、ぶつりと通話を切った。なんなんだいったい、と呆気に取られていると、手の中のスマホは立て続けにメッセージの着信を知らせる。まさしく怒濤。
動いているのは、最近下火気味だった夢雲テディのオタク、つまりべあーずのオフ会に参加した面々とのグループで、言葉にならない悲鳴が上がっていた。
「なんだなんだ・・・・・・」
おそらく話しかけても誰も反応はしてくれないだろうから、言われたとおり動画サイトにアクセスする。登録してあるから、トップページに夢雲テディのチャンネルが表示されていた。
「ら、ライブ配信・・・・・・!?」
よく考えれば、たった数ヶ月ライブ配信をせずにいただけなのだが、永久に見られないのかもしれないと思っていたところだったので、驚いた。震える指でクリックすると、サムネイルが大きく表示される。
開始時間は二十一時。あと五分だ。
今のうちにトイレに行き、手をしっかりと洗った上で待機する。飲み物は用意しなかった。水分補給する暇があったら、夢雲テディの一言一句を脳みそに刻みつけるべきである。
二十一時から三十秒経って、配信はスタートした。
いつもは「こんべあ~!」というお決まりの挨拶から始まるのに、今日のテディの表情は、固い。もちろん生身の人間じゃないから、パソコンで差分選択をしているだけなのだが、俺は固唾を飲んで見守っていた。『こんばんは。夢雲テディと申します。このたびは、私の不用意な発言で、皆様に不審を抱かせ、申し訳ございません』
おどおどしたところが夢雲テディの持ち味であったが、今日の配信での彼女――彼は違った。しっかりとした社会人らしい言葉遣いと態度で、今回の炎上騒動を詫びた。
『私のパパ発言についてですが・・・・・・こちらの方を証人としてお呼びしました』
ぱっと画面に現れたのは、白い鳥・・・・・・アヒル? いや、そのまんま白鳥か? の、アイコンだった。コメント欄はすでにそのアイコンの主が何者なのか知っている人間がいたらしく、盛り上がっている。
「白鳥ケン? 誰だそりゃ」
パソコンは動画サイトをそのままに、手元のスマホで白鳥ケンの名前を検索すると、アニメ化された漫画や人気ライトノベルの表紙イラストなどが大量に出てきた。
『こんにちは。白鳥ケンです。今回の騒動は僕のせいでもあるので、説明をさせてください』
人気漫画家・イラストレーターの白鳥ケンは、夢雲テディのなかのひとの友人であり、キャラクターデザインを引き受けていた。なお、普段の白鳥の作風と異なる、萌えに完全に振り切ったデザインであったし、彼も別名義を適当に作って名乗っていたため、オタクは誰も気がつかなかった。
「そうか、それでパパ・・・・・・」
Vtuberの産みの親を、通称「ママ」と言う。夢雲テディも慣例に従って「ママ」と言っていれば燃えなかったのだが、彼は白鳥ケンがデザインであることを知っているし、顔も見知っている。男である彼を「ママ」と呼ぶのに抵抗があって、咄嗟に出てきたのが「パパ」だったのだろう。
『僕はこの引っ込み思案な友人が、自分を変えたいと言ってVtuberになると決めたのを、純粋に応援する気持ちで引き受けたんだ。僕が冗談交じりに誘った手前もあるしね。他の人に依頼されても絶対にやれないし、やりたくないから別名義――女の子っぽい名前にしたんだけど、こんなことになるのなら、普通に白鳥ケンの名前を使っておけばよかったね。テディにも、テディのファンの皆さんにも、悪いことをしました。申し訳ありません』
メディア露出を一切控えている白鳥先生の肉声に、コメント欄は大盛り上がりである。
【白鳥先生、絶対イケメン】
【先生もVtuberになった方がいい。スパチャ投げさせてくれ~】
確かにいい声だ。だが、声を聞いているうちに、俺の頭の中には非常に具体的な像を結ぶ。聞いたことがある。
羽田である。彼は平日に海だの遊園地だのに来ていたから、いわゆる一般的な企業に勤めているのではないだろうと予想していたが、もしも本当に白鳥ケン=羽田ならば、自由に仕事を進められるのもさもありなん。
白鳥ケンはコメント欄を一読した上で、「僕がVtuberデビューするのはありません」と明言し、配信の主導権を夢雲テディに返した。
『私・・・・・・僕は、こんな変な声だから、普段の生活では、とても無口なんです。誰にも声を聞かせたくないけれど、お喋りはしたい。そういう矛盾を抱えた僕が見つけた解決策が、Vtuberなんです』
だから、できればこれからもみんなと楽しくお喋りがしたいと、夢雲テディは真摯に述べた。
『あなたのかけてくれる言葉は、全部全部、僕の心の支えになっています。あなたともっと話したい。ちゃんと、目と目を合わせて・・・・・・あなたの言葉には、それだけの価値がある』
夢雲テディのガワを突き抜けて、俺の目にはなかのひと――熊井夏月の姿が映った。
いつもおっかない顔をして、無表情でいると冷たく見られて、けれど誠実で、可愛いものが好きで、嘘がつけなくて、何よりも咄嗟に漏れた声が可愛らしい、成人男性の姿だ。
めちゃくちゃスパチャを投げつけたくなったけれど、今日の配信では切ってある。
その後も穏やかに配信は続き、二十分あまりで「これからもよろしくお願いします」と夢雲テディが頭を下げ、配信は終わった。
俺はといえば、レポートには手がつかない。
はぁ、と大きな溜息をついて、俺はジムのアプリを開き、「予約」ボタンをタップした。
だってほら、夢雲テディとしての事情は聞いたけれど、肝心の熊井自身の事情については、何にも聞いてないわけだし?
彼の休みの日の前日だということを知っていて、一番遅い時間に予約を入れた。
熊井は俺の顔を見た瞬間、ほっと泣きそうな顔になった。予約が入っていることはわかっていても、果たして本当に来るのか、不安だったんだろう。
俺は、言葉では謝らなかった。会釈して、これまで来なかった非礼を詫びて、すぐにトレーニングに取りかかろうとする。
が、熊井が腕や腹、胸に太ももに手を伸ばすものだから、焦った。彼は「うーん」という顔をした後に、にっこりと笑って、親指を立てた。
どうやら指導のない間もきちんとこれまでの指示を守って自主トレーニングに励んでいたことを、褒め称えてくれているらしい。
久しぶりのマンツーマントレーニングは、少しだけ強度があがった。また息も絶え絶えになった俺だが、最後の力を振り絞って、「あの、熊井さん!」と、声をかける。ひっくり返って格好悪くて、思わずしゃっくりが出た。
そんな俺に、ぱちくりと目を瞬かせた熊井は、それでも笑わずに耳を傾けてくれる。
そうだ。この人は、自分の声にコンプレックスがあるから、他人の声が多少変だって笑わないんだ。
「あの、今日の帰り、話せませんか? 俺、待ってますから」
本当は、外での個人的な付き合いはダメなんだろうけれど、今さらだ。火野と羽田さんは友人同士で、俺と熊井さんは友達の友達同士・・・・・・友人同士だと言えないのが、ちょっとだけ切ない。
バインダーで口元を隠した熊井は、小さく頷いた。
ジムの近所にあるコーヒーショップで、熊井を待つ。
外は寒いが店の中は暖房が利き過ぎているくらいで、思わずフラペチーノを注文してしまった。
広い窓に面したカウンター席を二つ確保して、ちびちびとストローで冷たいのを啜りながら、俺は熊井の訪れを待った。
それほど時間が経たずに、彼は店内に現れた。頬が真っ赤なのは、寒いからじゃなくて、定時後にダッシュを決めてここに来てくれたからだ。 俺が手を振ると、彼はこくりと頷き、ひとまず注文をしにいく。やってきた彼の手からは、コーヒーの匂いがした。俺の手元のフラペチーノを見て、少しだけ眉根を寄せた。
「・・・・・・あまり、よくない、です」
途切れ途切れ、ぎこちない忠告に、俺は最初、我が耳を疑った。熊井の肉声を聞くのは、初めてだった。いつもはマイクを通した、夢雲テディとしての声しか聞いていなかったため。
うわあ、と頬に熱が集中する。生声! とはしゃぐ気持ちよりも、彼が俺のためになけなしの勇気を振り絞ってくれていることに、ドキドキした。
「ごめんなさい。何も考えないで頼みました」
熊井は首を傾げて、仕方ないなぁ、という顔をした。
普段、アバターを通じた会話しかしない熊井のお喋りは、子どもが親に学校での出来事を報告するみたいだった。それでも彼はいい年をした大人でもあるので、説明事態は理路整然としている。
「実はジムで、僕の副業が問題になって・・・・・・」
「えっ」
副業禁止なのに、Vtuberデビューしてたの!? あんたそんなに考えなしじゃないだろ、と思ったら、彼は慌てて首を横に振った。
「副業をすること自体は、禁止されていません。ただ、その中身が・・・・・・」
熊井がちらっ、ちらっ、と俺の顔を見る。窺うような仕草に、そういえば言ってなかったっけな、と俺は言った。
「あんたが夢雲テディのなかのひとなのは知ってる。ついでに言うと、俺はあれだ、・・・・・・Uじろだ」
「!」
ぼんっ、と音がしそうなくらい、熊井は頬を赤くして、わかりやすく動揺した。あわあわして、「えっ、Uじろさん、えっ、いつも僕のためにアドバイス・・・・・・ああああ、スパチャ! お客さんにっ、学生さんにっ、あんな大金・・・・・・!」と、これまでに俺が投げつけてきたスパチャの額を思い出したのだろう彼は、頭を抱えた。そうだな。大抵赤スパだから・・・・・・。
「あの、スパチャに関しては、俺が好きでやってることだから気にしないで・・・・・・マジで。俺、あんたに赤スパ贈るためにバイトしてるみたいなもんだから」
どうどうと宥める。熊井は名前のとおり、猛獣のようにぐううう、と唸っていたが、やがて落ち着いた。タイミングを見計らって、副業問題について促せば、彼は大きな溜息をつく。ちょっと珍しい。
「動画サイトで広告収入やらスパチャで稼ぐのはダメってことですか?」
「いいえ。その、Vtuberっていうのが、どうも上の人たちにはわかってもらえなくて」
まぁ、目の前にいる熊井と画面の中の夢雲テディが重ならなくて混乱する、というのはわからなくもない。俺だって、熊井の声を初めて聞いたときにはびっくりしたし。
会社への申請もしているし、内容も虚偽ではない。確定申告も自分でしている。最近人気が出てきて、所得額がうなぎのぼりになったのも原因だろう。
「いったい何をして稼いでいるんだって言われてしまって、説明に時間がかかったんです」
美少女ボイスが疲れきっていた。思わず俺は、手を出していた。熊井の頭をよしよしする。硬い髪の毛が手のひらをちくちく刺激して、俺は無意識の行動に恥じ入って、「ご、ごめんなさい」と謝った。
「つい出来心で」
「いえ・・・・・・その、金本さん、Uじろさん? この間は、本当に、ごめんなさい」
頬を染めた熊井は、容貌はいつも通り「男!」って感じなのに、可愛い。俺を見つめる目は、うるうるしている。夢雲テディのアバターと同じくらい、可憐だった。男相手に何言ってんの? って感じだが、そうとしか形容できない。
大きな手が、テーブルの上に置いた俺の手を握る。トレーナーとしてフォームの修正をするときの義務的なものじゃないから、俺は意識してしまう。
「ワ、ワァ・・・・・・!」
ちまたで人気の小さくてかわいい生き物と寸分違わぬ声をあげて固まる俺に、熊井は一生懸命に語りかける。
「Uじろさんとしても、金本さんとしても、僕のことをいつも気にしてくれて、嬉しかったのに、僕、勇気がなくて・・・・・・あなたのことを傷つけて、情けなかったです。その、こんな僕でいいのなら・・・・・・」
お友達になってくれますか?
熊井の懇願を皆まで言わせず、俺は「はい! 喜んで!」と、居酒屋でも昨今そんなに聞かないセリフを大声で叫び、店内の客の注目を浴びた。
『こんべあ~。夢雲テディです。今日もライブを見に来てくれて、ありがとう!』
謝罪配信以降、また定期的にライブ配信をするようになった夢雲テディは、絶好調である。
自信のなさげな態度はなりをひそめ、「僕なんか」を言わなくなった。けれども自己肯定感の低い人間の気持ちを非常によくわかっているから、悩み相談を受けることが多い。ファンたちも、彼(俺は彼だと知っているが、対外的にはまだ謎のままになっている)の穏やかな気質に似ているため、コメント欄はいつもポジティブでハッピーだ。たまにつくネガティブなアンチコメントはスルーされ、即座に運営によって消されている。
配信が終わって、べあーずのグループが活発に動き始める。
『Uじろさん、今日いた?』
『いたよ』
俺が夢雲テディの配信を見ないわけないだろ。
『最近コメ欄いないじゃん』
『スパチャも投げてない・・・・・・もしかして:破産』
「してねぇよ」
思わず口に出して突っ込んでしまった。
俺が最近スパチャを投げていないのは、その必要がなくなったからだ。 グループトークではないメッセージが着信して、中身を確認した俺の唇が緩む。
『ゆーじろくん、今日も見てくれた?』
「見てたよ。熊井さん」
彼お気に入りの、例の遊園地のマスコットキャラであるクマのスタンプを送信する。わざわざ彼のために購入したものだ。
スパチャなどという、動画サイトに中抜きされる手段を使わずとも、今の俺は、夢雲テディないし熊井夏月に直接貢げるのだ! ふははははは!
・・・・・・とはいえ、あまり高いものを買いすぎると熊井に怒られるので、大きい買い物は、たまーに。
小さいものだと、出かけたときの喫茶店代金などは払っている。いつも「ありがとう」を言ってくれるのがたまらなく、チリツモに気づかなければいいな、と思っている。
まあ、大きな買い物もする。怒るときの熊井の声も可愛いので。
「後方彼氏面するなと言われてきたけど・・・・・・後方友人面くらいはしてもいいよな?」
羽田こと白鳥ケン先生だって、同じような顔をして熊井のことを見ているのだから、ちょっと年が離れているとはいえ、俺だって友人だ。
ちょっと友情としては行き過ぎている自覚はあるけれど、誰も注意してくれないのをいいことに、俺は来週のジムの予約を入れるのであった。
【了】