お給料をもらいました
ガラスケースの中に並べられた色とりどりのケーキを眺めて、わたしは「あれとこれとそれください!」と指さしながら売り子のお姉さんに注文する。
給料日明けの日曜日。生まれて初めてもらったお給料を握りしめて、最初に向かったのは駅前のデパート。
そこでお父さんにはネクタイ、お母さんにはストールを買った。バイトしていいよっていってくれたから、お礼に何か買ってあげようって決めてたんだ。
次に、お茶屋さんで早川のおじさんの好きな紅茶を買った。早川のおじさんはわたしが生まれる前からうちで働いてくれてる事務のおじさん。もうすぐ辞めちゃうから、その前に美味しいのを飲ませてあげたいなって思ったの。
そして、最後に向かったのが大好きなケーキ屋さん。チョコレートケーキにオレンジのタルト。それから、フランボワーズのムースケーキ。あやちゃん用にイチゴのショートケーキも買った。お目当ての品を手に入れて、わたしはほくほくしながら帰路につく。
バスに揺られて帰る中、ふと思い立って降車ボタンを押した。最寄り駅ではなく、商店街の近くで降りる。
両手に荷物を持ったまま、わたしは目的のお店に向かって早足で歩いた。
昔ながらの造りの和風の建物。暖簾をくぐって中に入るとほんのり甘い香りがする。砂糖が焦げる手前の匂いだ。
店内の棚に並べられたガラスの瓶には色とりどりのあめ玉が入ってる。大きな粒から小さな粒。まあるい粒もあればいびつな形の粒もある。
見ているだけでわくわくするそれらを鼻歌交じりに眺め、わたしはどれにしようかなあとひとり悩む。
頭をいっぱい使うひとは甘い物を好むんだってきいたことがある。脳の栄養はお砂糖だけなんだって。
だから、あめ玉なんて渡したら喜んでくれるかもしれないって思ったんだ。
「これ、かわいい」
ころんとした形の鞠みたいなあめ玉が、楕円形の平たいケースの中にたくさん詰まってる。それをわたしは手にとった。
一粒が小さなところも気に入った。これならひょいっと摘まんで口に入れるのも簡単だ。
それから、袋に入ったニッキ味の大玉も一緒に。これは店主さんにあげよう。
飴屋さんの暖簾をくぐり、わたしはうきうきしながら商店街を歩いた。
お給料はすっかり減ってしまったけど、これでいいんだ。こうやって、自分で稼いだお金で自分の好きな物を買ってみたかったんだもん。
夕飯を食べ終えて、お父さんとお母さんにプレゼントを渡したらお父さんはすっかり目に涙を浮かべてて、わたしはくすぐったくてたまらない気持ちになる。
「すず、ありがとう。お父さん、すごく嬉しいよ」
「ほんと? お父さんがいつも使ってるのより全然安いよ」
「値段なんていいんだよ。すずがお父さんのために買ってくれたってことが、お父さんは嬉しいんだから」
白いシャツも着ていないのに、お父さんはネクタイを首に巻いてみたりする。フランボワーズの甘酸っぱいムースを食べながら、わたしは「似合ってるよ」と言ってあげる。
ネクタイなんて父の日とかにも買ってあげてるのに、いままでで一番喜んでるみたいに見えて、買ってあげてよかったなって思う。
みんなに喜んでもらえて、とっても嬉しい。
アルバイトを初めてよかったなって改めて思った。
好きなケーキ屋さんで一度に三つもケーキを買った。いつもどれにしようかいっぱい悩んで、ひとつしか買えないのに。それってすっごく贅沢だ。
それから、なんでもない日にお父さんとお母さんにプレゼントが買えた。お小遣いは元々お父さんのお金だから、それで買った物はお父さんが買ったようなものじゃないかなって思ってたけど、今日のは違う。今日のは、正真正銘わたしが稼いだわたしのお金だ。
早川のおじさんにも、店主さんにもお礼のプレゼントが買えた。
一ヶ月頑張ってアルバイトしたから、こんなにいろんなことができた。
勉強机に向かって日記を書いてたわたしは、机の片隅に置いてた紙袋を手に取る。その中からあめ玉の入ったケースを取りだして、ふふっと表情を緩ませる。
安里さんにだって、会えた。
あそこでアルバイトを始めなかったら、わたしは安里弦っていう小説家がいることにも、きっと一生気がつかなかったに違いない。
だから、やっぱりアルバイトを初めてよかった。
あめ玉を袋に戻して、ぱたんと日記帳を閉じる。
そして、ベッドに転がった。ころころ転がりながら考えるのは安里さんのこと。最近、いつもこうだ。
気がついたら、あのひとのこと、考えてる。
なんでこんなに気になるんだろう。考えても、よくわからない。
きっと、小説家になんて会ったの、初めてだから。
本を読むのは前から好きだったもん。
そう、物語を作り出す、とっても素敵なお仕事をしてるひとだから。
だから……。
そんなことを考えている内に、わたしはうとうとと眠りにつく。
明日、安里さんはお店に来るかな。来てくれたら、あめ玉をあげるんだ。お仕事、頑張ってくださいって言うの。
来てくれたら、いいなあ。
八月も終わろうかという今日この頃。日差しは強く、気温は高い。まだまだ夏真っ盛り。
わたしは店主さんから分けてもらったニッキの大玉を口の中で転がしながら、夏休みが終わってからのことを店主さんと話してた。
「土曜日だけでもいいの?」
お店は五時に閉まっちゃう。だけど、わたしの学校が終わるのって四時前だから、それからここに来たって一時間も働けない。日曜日はお店もお休みだし、夏休みが終わったらバイトもおしまいかなって思ってた。
でも、店主さんは土曜日だけでもいいならこれからも働かないかって誘ってくれた。
「ああ。うちみたいなとこで働きたいって奴はそんなにいないんだよ。俺も、店のものを雑に扱う奴には働いて欲しくないし、すずちゃんさえよければお願いできるかい?」
カウンターの中の椅子に座ったまま、わたしは飛び上がって万歳したい気持ちを抑えてうずうずしてる。
もっとここでお仕事したいなあって思ってた。だけど、週に一日だけなんて迷惑だよねって思って言えなかったのに。
「働きたい! わたし、毎週土曜日ここで働くよ。お休みしないし、急に辞めたりもしない。頑張るから、来月からも働かせてください」
ぺこりと頭を下げたら、店主さんが笑った。
「じゃあ、来月からもよろしく頼むよ」
「うん!」
冷えた麦茶を一口飲んで、店主さんはあめ玉の入ってた袋の口を輪ゴムで縛った。
そして、それをエプロンのポケットに突っ込んで「俺はちょっと二階に行ってくるから」と言い残して階段を上っていく。
わたしはそれを見送って、自分の分の麦茶に口をつける。
口の中のニッキ玉はだいぶ小さくなってきたけどまだなくならない。それをころころと舌の上で遊ばせながら、カウンターに頬杖を突いて店内を眺めた。
狭いお店の中は本まみれだ。壁は全部棚になってるし、カウンターの中にも本は乱雑に積み上げられてる。貴重なものは二階に、そうでないものはその辺にって感じ。
そして、店内には古い本の匂いが漂ってる。ほんのわずかに甘さを感じるその香りがわたしは好き。ここにいるとなんだかとっても落ち着くんだ。
これからもここにいていいんだと思うと嬉しくてたまらなかった。
「あ……」
扉が開いて、お客さんが入ってくる。
群青色の着物に黒い薄羽織を引っかけて、カンカン帽を被ってるのは安里さんだ。からころ音がしないなと思ったら、今日は下駄じゃなくて草履を履いてる。
「いらっしゃいませ」
今日はわたしの方から先に声をかけられた。
扉を閉めてからこちらへ向き直って、安里さんが帽子を脱ぎながら微笑んでくれる。
「こんにちは、涼花さん。おひとりですか?」
「おじさんは二階です」
わたしが素直に答えると、安里さんは苦笑する。
カウンター前まで歩いてきて、改めて「こんにちは」と頭を下げてくれた。
「涼花さんがいらしてご主人はさぞや喜んでおられるでしょうね」
きょとんと首を傾げると安里さんがますます笑みを深くする。
「店番が欲しいと常々もらしておられましたので」
「腰が痛いからでしょう?」
「それもあるでしょうけれど、二階にこもれるからというのが一番なのではないかと僕は思ってます」
そう言われると店主さんはよく二階にこもってる。
何をしているのかはよくわからないけど、安里さんは店主さんが何をしているか予想がついているみたいだった。
帽子の中でくしゃっとなった髪を解すみたいに手で撫でてる安里さんを見上げて、わたしはカウンターの中に持ち込んでた紙袋に手を伸ばした。
ごくんと唾を飲み込んで、安里さんをじっと見つめる。
なんだか急に緊張してきた。
あめ玉なんて女子どもの食べ物だって言わないかな? お菓子をあげようなんて子どもっぽいことしてるかな?
苦しいくらいどきどきしてきて、それでも、せっかく買ったんだからと自分自身を叱咤して、わたしは椅子から立ち上がりながら「安里さんっ!」と勢いよく声をかける。
「はい。なんでしょうか?」
わたしの勢いに若干驚いた様子を見せながら、安里さんは髪に触れていた手を下ろして、わたしと視線を合わせてくれる。
「あ、あの」
かあっと顔が赤くなっていく。
恥ずかしくて、せっかく合ってた目をそらすように紙袋へ移した。
「この前、お給料をもらったんです」
「はじめてのお給料ですか?」
「はい」
「それは、おめでとうございます。自分で稼いだお金というのは、やはり違うものでしょう?」
ちらりと見上げると、自分のことのように喜んでくれている安里さんが目に入る。
安里さん、優しい。胸がふわあっと温かくなっていく。
わたしは答える代わりに小さく頷いて、安里さんに向かって紙袋を差し出した。
「これ、あげます」
はたり、はたりと瞬きを落として、安里さんが紙袋とわたしを交互に見やる。
「僕に、ですか?」
また、こくんと頷く。
「ありがとうございます」
おっとり微笑んで、安里さんが紙袋を受け取ってくれた。わたしはほっとして、すとんと椅子に腰掛けた。
「飴屋さんで買ったんです。甘いの、大丈夫ですか?」
「ええ。飴は好きですよ。見た目も愛らしいですし」
袋の中からケースを取りだして、安里さんがわたしの目を見て笑ってくれる。嬉しいよとちゃんと伝えてもらえることが嬉しくて、わたしの心は喜びで満たされていく。
「僕も、今日は涼花さんにお渡ししたいものがあってきたんです」
カウンターの上に紙袋を置いて、安里さんは手に提げていた布製の袋を開いた。そこから出てきたのは、銀と白の中間みたいな色をしたあの本だった。
わあっと思わず変な声を出してしまいそうになって、慌ててきゅっと口を引き結ぶ。
「お約束していた本です。それと、よろしければこちらも」
タイトル近くに数字の十が書かれた文芸誌を白い本に重ねて安里さんが差し出してくれる。また椅子から立ち上がって、わたしはそれを受け取った。
「この号から、連載が始まるんです」
少し照れたように安里さんが言う。
「十日発売なので書店に並ぶのはまだ少し先なんですが」
「え?」
「見本誌をいただいていましたから、せっかくなので、涼花さんに読んでいただけたらなと思ったんです」
受け取った雑誌の表紙をまじまじと見る。
安里さんの本より少し大きめのサイズ。おじさんたちが好きそうな地味な表紙。ファッション雑誌とは全然違う。
でも、嬉しい。
表紙に並んだ文字の中から安里弦の三文字を探してみれば、それは確かにそこにあった。新連載の文字と一緒に表紙にちゃんと並んでる。
「嬉しい」
ぽつりと呟いて、ぎゅうっと胸に抱く。
そして、わたしは安里さんのことを真っ直ぐに見つめた。
「ありがとうございます。わたし、すごく嬉しいです」
胸がぎゅうっとする。
なんでだろう。泣いちゃいそうなくらい、嬉しかった。
顔は自然ににやけてくるし、頭の中も心の中も「安里さん」と「嬉しい」のふたつの単語でいっぱいになってく。
安里さんは用事があるからとわたしに本を渡しただけで帰って行った。
わたしがあんまり喜ぶものだから、ちょっと恥ずかしそうにしてたけど、「気に入ってくだされば、次の号も差し上げます」と言ってくれたから、安里さんもあげてよかったなって思ってくれたのかもしれない。
安里さんのお話が、みんなよりも少しだけ早く読める。それがとっても嬉しくて、二階から降りてきた店主さんに、わたしは文芸誌を見せながら自慢げにその話をしたのだった。