第二章 部活動
翌朝、教室に入ると、昨日より少しだけ賑やかな空気が漂っていた。
席に着く前から、あちこちで小さな会話が始まっている。窓際の席に鞄を置き、軽く伸びをする。
まだ慣れない教室だけれど、昨日よりは落ち着いて座れた。
チャイムが鳴り、1限目の国語が始まる。佐伯先生が教卓に立ち、淡々と出席を取り始める。
「はい、それじゃあ教科書を開いてください。」
先生の落ち着いた声が教室に広がる。ページをめくる音、シャープペンの細い音。
そんな日常の音が、少しずつ耳に馴染んでいく。ふと視線を動かすと、昨日見た顔がそれぞれの席で授業に向かっていた。
翼もその中のひとりで、特別に意識していたわけじゃないけれど、同じ空間にいることが自然に感じられた。
2限目が終わった休み時間、前の席の男子がくるりと振り返った。
「なあ、玉葱だよな? 昨日の自己紹介の」
短髪で、どこか人懐っこい雰囲気のやつだ。「うん。玉葱誠」
「俺、佐久間。よろしくな。名前、めっちゃ覚えやすかったわ」
「よく言われるよ」
自然と笑って返すと、佐久間もにっと笑った。
「でさ、玉葱ってゲームやる?」
突然の質問に、少しだけ驚く。
「……まあ、そこそこ」
「やっぱり! なんかそんな感じしたんだよな」
「どんな感じだよ」
「落ち着いてるけど、ゲームの話したら急に語り出すタイプ?」
「……否定はしない」
その返しがツボに入ったのか、佐久間は声を押し殺して笑った。
「でさ、あの新作のアクションやってる?昨日の夜、ずっとやってたんだけどさ」
「ああ、あれ。ちょっと前にでたやつだろ」
「そうそう! あれマジで面白くない?動きが軽くてさ、コンボ繋がると気持ちいいんだよ」
「分かる。慣れるまで大変だけど、タイミング掴むと一気に楽しくなる」
「だよな!俺、昨日のステージでめっちゃ詰まってさ。敵が急に増えるところ」
「ああ、あそこ。あれは……初見殺しだよな」
「そう! 絶対初見殺しだって!玉葱はどうやって突破した?」
「……地形使った。段差の影に隠れて、敵の動き見ながら少しずつ減らした」
「うわ、それ賢いな。俺、正面から突っ込んでボコられたわ」
「突っ込むと……まあ、そうなるよな」
「いや、ほんとそれ。でもさ、あのゲーム、敵の動きがちゃんとパターンあるのがいいよな」
「うん。慣れると逆に気持ちいい」
「分かるわー。あ、そうだ。玉葱って普段どんなジャンルやるの?」
「アクションとRPGが多いかな。ストーリーあるやつ好きなんだよ」
「おお、いいね。俺もRPG好きだわ。キャラ育てるの楽しいよな」
「そうそう。気づいたら時間溶けてる」
「分かる!俺なんて昨日、気づいたら夜中だったし」
「それは……やりすぎだろ」
「いや、でもさ、高校入ってからのほうが逆に時間ある気がしてさ。中学より自由じゃね?」
「まあ……確かに」
「だからさ、放課後とか暇だったら一緒にやらね?オンラインでもいいし、同じゲームやってるなら話すだけでも楽しいし」
「……いいよ。そのステージなら、まだ覚えてるし」
「よっしゃ! 決まり!」
佐久間は嬉しそうに親指を立てた。会話がひと段落し、佐久間が前を向いたあと、僕はなんとなく視線を教室のほうへ向けた。
翼も仲のいい友達ができたのか、女子数人と話をしていた。
笑い声が聞こえるほどではないけれど、自然に輪の中に入っているように見える。
――よかった。
そう思っただけで、胸の奥が少し軽くなった。教室のあちこちで、新しいクラスの“普通の会話”が流れていく。窓の外では、春の光がゆっくりと差し込んでいた。
午後の授業が終わりに近づくころ、教室には少しだけ疲れた空気が漂っていた。
窓から差し込む夕方の光が、机の上をゆっくりと照らしている。
チャイムが鳴り、帰りのホームルームが始まった。
佐伯先生が教卓の前に立ち、手に持っていたチョークを黒板に走らせる。
『部活動選択 月曜まで』
白い文字が浮かび上がると、教室がざわっと小さく揺れた。
「はい、みなさん」
佐伯先生は振り返り、落ち着いた声でクラス全体に向けて話し始めた。
「今日から部活動の見学が始まっています。入部は強制ではありませんが、高校生活を楽しむきっかけにもなるので、気になるところがあればぜひ見てみてください」
プリントが前から順に回されてくる。部活一覧がぎっしりと書かれた紙だ。
「提出は来週の月曜までです。見学は放課後いつでも大丈夫ですから、自分のペースで考えてくださいね」
先生の声は淡々としているけれど、どこか優しさがあった。
周りでは、 「どこ入る?」「運動部はきつそうだな」「文化部も多いな」
そんな声があちこちで上がっている。
僕はプリントを手に取り、ざっと目を通しただけで机に置いた。
まだ何かを決める気持ちはない。
ただ、こうして選択肢が並んでいるのを見ると、高校生活が本当に始まったんだと実感する。
ふと視線を横に向けると、翼もプリントを静かに見つめていた。
特別な表情はないけれど、何かを考えているようにも見える。
夕方の光が教室を淡く照らし、ざわめきがゆっくりと広がっていった。
そして、あっという間に2日が経ち、僕は部活動決めについてすっかり忘れていた。授業を受けて、休み時間に佐久間とゲームの話をして、
昼休みに弁当を食べて、そんな“普通の学校生活”がただ流れていっただけだった。
放課後前の教室は、少しざわついていた。帰り支度をする音、友達同士の笑い声、窓から差し込む夕方の光。プリントをしまおうとしていたとき、横から柔らかい声が聞こえた。
「ひぃくん、部活……決めた?」
翼の視線が、静かにこちらを待っている。
少しの沈黙の後、
「あ……完全に忘れてた」
そう答えた瞬間、翼はほんのわずかに眉を寄せた。
驚きというより、
“やっぱりそうなんだろうな”という諦めと、
“どう言えばいいんだろう”という迷いが混ざったような表情だった。
「……そっか。ひぃくん、そういうの後回しにしちゃうよね」
声は柔らかいけれど、
どこか困ったような響きがあった。
翼は手に持っていたプリントを胸の前で軽く揺らしながら、
言葉を探すように視線を落とした。
「えっとね……今日も見学やってるんだよ。みんな、もう動き始めてるみたいで……」
そこで一度、翼は言葉を切った。僕の顔をちらりと見て、
また少しだけ困ったように笑う。
「ひぃくんが忘れてると思って……言ったほうがいいのかなって、ちょっと迷ったんだけど」
その言い方が妙に胸に残った。心配してくれているのか、ただの気遣いなのか、そのどちらとも言えない曖昧さが、翼らしい。
「教えてくれて、ありがとう。……ほんとに忘れてた」
そう返すと、翼はほっとしたように息をついた。
「うん。あ、そうだ……私、美術部に入ったんだ。もう今日から活動してて」
その言葉に、思わず目を瞬いた。
「美術部?」
「うん。中学のときも少し描いてたから……高校でも続けてみようかなって」
翼は照れくさそうに笑いながら、スケッチブックの端を指でつまんだ。
「だから、ひぃくんがどこに入るのか……ちょっと気になってたの」
翼はそう言ったあと、スケッチブックの端を指でそっと押さえた。
「それで、美術部に入ったんだけど」
翼は少しだけ視線を上げ、様子をうかがうように僕の顔を見た。
「中学のときも描いてたし……高校でも続けてみようかなって思って」
「中学の美術部って、どんな感じだったの?」
僕がそう聞くと、翼は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「んー……すごく静かだったよ。部室も狭かったし、部員も少なかったし」
翼はスケッチブックを抱え直しながら、少しだけ懐かしそうに続けた。
「でもね、あの狭さがちょうどよかったの。放課後の廊下の音が遠くに聞こえて…
…鉛筆の音だけが近くにあって……なんか、落ち着く場所だった」
翼の声は、思い出をそっと撫でるように柔らかかった。
「先輩も優しかったよ。私、最初は全然うまく描けなくて……線が震えちゃったり、形が崩れたりして」
「でも、先輩がね、“うまく描こうとしなくていいよ”って言ってくれて」
翼は少しだけ目を細めた。
「それで、なんか気が楽になったんだ。上手い下手より、描くのが好きって気持ちのほうが大事なんだって思えるようになって」
翼はそこで一度言葉を切り、僕のプリントに視線を落とした。
「……だから、高校でも続けてみようかなって。別に大きな理由があるわけじゃないんだけどね」
その言い方は控えめで、でもどこか誇らしさも混ざっていた。
「ひぃくんは、どうするの?」
「……バスケ、かな。いや、まだ決めたわけじゃないけど」
翼は一瞬だけ目を丸くしたあと、どこか“納得した”ように小さく息をついた。
「やっぱり……そうなんだね」
「え?」
「中学のとき、ひぃくんが体育館で練習してるの……何回か見たことあるから」
その言葉に、胸の奥がふっと揺れた。
「見てたの?」
「うん。たまたま通りかかっただけだけど……ひぃくん、すごく真剣だったから」
翼はスケッチブックを抱え直しながら、少しだけ照れたように笑った。
「ドリブルの音、すごくきれいだったよ。リズムが一定で、迷いがないっていうか……“あ、この人、ちゃんと練習してるんだな”って思った」
「そんなふうに見えてたんだ……」
「うん。あとね、パスを受け取るときの動きも好きだった。
ひぃくん、ボールが来る前から準備できてる感じがして……自然に身体が動いてるっていうのかな」
翼は言葉を探すように視線を落とし、それからまた僕を見た。
「私、スポーツのことは全然詳しくないけど……“上手い人の動き”って、見てるだけで分かるんだなって思った」
その言い方は、ただの褒め言葉じゃなくて、ちゃんと“見ていた”言葉だった。
「……そんなふうに言われると、なんか照れるな」
「ふふ。でも、ひぃくんのバスケ、なんか好きだったよ。
静かなのに、ちゃんと熱がある感じで」
胸の奥がじんわりと熱くなる。翼は続けた。
「だから、バスケって聞いて……すごくしっくりきた。でも、無理に決めなくていいと思うよ。ひぃくんが“やりたい”って思えるまでで」
その言葉は軽くて、でもどこかあたたかかった。
僕はプリントを見下ろしながら、まだ答えを出せない自分を自覚する。
「……うん。ちょっと考えてみるよ」
翼はゆっくりと頷いた。
「それでいいと思う。ひぃくんのペースでね」
翼が席へ戻っていくのを見送りながら、胸の奥に、言葉にできないざわつきが残った。
バスケは好きだ。それは間違いない。
中学の頃、体育館の空気が好きだった。
ボールの弾む音、シューズが床を擦る音、汗の匂いと、夕方の光。
あの場所にいると、余計なことを考えずに済んだ。
だから、高校でも続けるんだろうとどこかで思っていた。
……でも。
翼の言葉が、頭の中で何度も繰り替えされる。
「ひぃくんのバスケ、なんか好きだったよ」
「静かなのに、ちゃんと熱がある感じで」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
中学ではほとんど話したこともないのに、翼は僕のことを見てくれていた。
それが、妙に嬉しかった。
そして――翼が抱えていたスケッチブックの端。
指先でそっとなぞる仕草。
美術室の話をするときの、あの柔らかい表情。
気づけば、
美術部のことが頭の片隅に残っていた。
バスケが好きなのは本当だ。でも、翼の近くにいたいと思う気持ちも、嘘じゃない。
どっちが正しいとかじゃなくて、ただ、心が揺れている。
「……どうしようかな」
プリントを見下ろしながら、小さくつぶやいた。
答えはまだ出ない。
でも、出ないままでいいのかもしれない。今はただ、自分の気持ちの形を確かめているところだ。
…そして月曜日。
結局、見学にも行かないまま、部活決めの最終日を迎えてしまった。
プリントの空欄は、まだ真っ白だ。書こうと思えば書けるのに、
どうしても手が止まってしまう。
バスケは好きだ。それはずっと変わらない。
中学の体育館で過ごした時間は、今でも胸の奥にしっかり残っている。走る感覚、ボールの重さ、仲間と声を掛け合うあの空気。
続けるなら、きっとバスケなんだろう。
そう思っていた。
……でも。
この数日、ふとした瞬間に翼のこと、美術室のことを考えている自分がいた。
「最近、お兄ちゃん冷たい」
いつもの夕方。
いつもなら隣でコントローラーを握っているはずのミユキが、今日はぼーっと立ったまま動かない。
「……今日も、友達とやるの?」
声は小さいのに、刺る。振り返るけど、ミユキは目を合わせてくれない。
「いや、佐久間と…えとな……たまたま最近、誘われること多くてさ」
言い訳にしか聞こえないのは自分でも分かっていた。
ミユキは唇を噛んで、ぽつりとこぼす。
「前は……毎日一緒にやってたのに。なんで急に、私より友達のほうがいいの?」
その言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。
怒っているというより、拗ねているというより――**置いていかれたみたいで寂しい…
そんな顔だった。
寂しかった”の先にある言葉は、恥ずかしくて言えない。
だから二人の間に、短いけれど重たい沈黙が落ちる。
ミユキは言い終えると、
自分で言った言葉に少し驚いたように、視線を落とした。
返事を返そうとしたいのに、喉の奥で言葉がつかえた。
「……いや、その……」
言い訳でも謝罪でもない、何を言えばいいのか分からない沈黙。
ミユキは、その“詰まり”に気づいたのか、
小さく肩をすくめた。「別に……いいけどね。友達と遊ぶほうが、楽しいんでしょ」
声は普通に聞こえるのに、語尾だけがほんの少しだけ沈んでいた。
その微妙な変化に気づく。でも、どう触れていいか分からない。
(楽しいけど……)
そこまで思って、言葉が止まる。
“ミユキと遊ぶのも楽しい”そう言えばいいのに、言った瞬間に照れが込み上げるのが分かって、言えない。
ミユキも同じ“寂しかった”の先にある言葉は恥ずかしくて言えないのだろうか。
・・・
だから二人の間に、短いけれど重たい沈黙が落ちる。
沈黙が落ちた部屋で、ミユキは足元を見つめたまま、指先で袖をいじっていた。
何か言わなきゃと思うのに、喉の奥が固まったみたいに動かない。 “友達とは楽しいけど、ミユキと遊ぶのはもっと楽しい”その一言が言えれば全部済むのに、
言った瞬間に自分が照れるのが分かっていて、どうしても言えない。
ミユキも同じだった。
“寂しかった”の先にある言葉――
「もっと一緒にいたかった」
「前みたいに遊びたかった」
そんな本音は、恥ずかしくて言えない。
だから、二人とも黙った。
けれど、その沈黙は気まずさだけじゃなくて、互いの気持ちがぶつかって、
どちらも言葉にできないまま揺れている、そんな重さを含んでいた。
ミユキは、ほんの少しだけ息を吸って、こっちを見ないまま言う。
「……別に、いいけどね」
返事をしようとして、また喉がつまる。
「……いや、その……」
言葉にならない。
でも、言葉にならないことが、逆にミユキには伝わってしまう。
ミユキは小さく肩をすくめた。
「今日、一緒にやるなら……それでいいよ」
その声は、強がっているようで、でもどこか期待しているようでもあった。
僕は、ようやく息を吐く。
ミユキはコントローラーを握ったまま、しばらく黙っていた。
こちらから何かを言うのを待っているようで、でも自分から言うのは恥ずかしいのか。
そんな微妙な空気が続く。そして、耐えきれなくなったみたいにぽつりと、でもはっきり言った。
「……今すぐやって!」
言ったあと、ミユキは自分で驚いたように目を丸くして、すぐに視線をそらした。
強い言い方になったのは、怒っているからじゃない。
恥ずかしさをごまかすために、声が少しだけ強くなっただけ。
「……うん」
落ち着いた声で返すと、ミユキの肩がほんの少しだけ下がった。
安心したときの、あの小さな動き。
でも、顔は見せない。
嬉しいのを見られるのが恥ずかしいから。
「べ、別に……無理にじゃないし」
語尾が弱い。
強がりがすぐに剥がれる。
されど、それを笑わない。
からかわない。
そういうのをされると、ミユキはまた黙り込むから。
「じゃあ始めるか」
その一言で、部屋の空気がようやく落ち着いた。
ミユキは小さく頷いて、隣に座る。
距離は近いけど、触れない。
触れないけど、離れない。そんな距離だった。
今から二人で協力して、MOBだらけの世界へ冒険をする。
されど、心あらず…
画面の向こうの混沌と、現実の微妙な空気は、かろうじて均衡を保っていた。




