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夫に人肉スープを飲まされた私は、村中の男たちを煮た

作者: 熾星
掲載日:2026/07/10

 


 竈の上で、火の絶えない大鍋が煮え立っていた。その白く濁った汁の中から、まだ煮崩れていない女の手が浮かび上がる。大吾は鍋のそばに立ったまま、ゆっくりとこちらを振り返った。薄暗い灯りに照らされた顔は、眼球がぎょろりと突き出し、口の端からよだれを垂らしていた。


「怜奈、起きたのか。まだ肉が煮えきってないんだよ。今食べると、酸っぱいんだ」


 私はその場に崩れ落ち、悲鳴が漏れないよう両手で口を押さえた。鍋の中の切断された手には、見覚えのある銀の指輪がはまっていたからだ。それは隣の佳代さんが、昨日「実家の母の具合が悪いから帰る」と言っていたとき、たしかに指にはめていたものだった。そしてその瞬間、村中の人間に待ち望まれていた腹の中の「御子」が、腹の皮越しに私を強く噛んだ。



 1



 私の名前は月森怜奈。三年前、私は東京の神田川で死にかけた。恋人に捨てられ、仕事も失い、足立区の古い木造アパートに住んでいた。六畳一間の部屋は壁が薄く、夜中になると隣室の咳まで聞こえた。コンビニの弁当に半額シールが貼られていても、買うかどうか迷うような生活だった。


 あの頃の私は、東京という街に少しずつ擦り減らされていた。昼は面接を受け、夜は暖房もまともに効かない部屋へ戻る。スマホには家賃の催促とクレジットカードの支払い通知ばかりが届いていた。別れた日、相手はコンビニの前で私の荷物を返しただけで、まともな説明ひとつ残さなかった。その夜、私は川辺に立ち、もう行く場所がないと思った。


 冷たい川の水から私を引きずり上げたのが、山瀬大吾だった。岐阜の山奥から来た男で、東京の知り合いに山菜や干し椎茸、蜂蜜を届けていたらしい。山の日差しに焼けた肌と、節くれだった大きな手をしていたが、笑うと人を騙せるような男には見えなかった。彼は自分の上着を私にかけ、しばらく黙って私を見ていた。


「東京なんかにいても、つらいだけだろ。俺の村に来い。何もないところだけど、悪いようにはしない」


 私はその目を見つめた。まるで深い水の底から引き上げてくれる一本の縄を見つけたような気がした。あのときの私には、家も仕事もなく、明日の朝に何を食べるかさえ分からなかった。だから私は、うなずいてしまった。


 そうして私は、山瀬集落に嫁いだ。


 そこは山々に囲まれた小さな集落で、地図の上ではかすかな点のようにしか表示されない場所だった。バスは一日に二本しかなく、冬になれば雪で山道が閉ざされ、外の人間はほとんど入ってこない。スマホの電波も不安定で、夜空を見上げると、東京では見たこともないほどの星が広がっていた。村の入口には古い石灯籠があり、そのそばには「山神様御守護」と書かれた木札が、雨に濡れて黒ずんだまま立っていた。


 大吾の家は古い木造の平屋だった。玄関を入ると土間があり、裏手には小さな畑が続いている。台所には黒い大鍋が据えられ、土間の竈では火がほとんど絶えることなく燃えていた。嫁いでから、私は何ひとつ仕事をさせられなかった。畑に出ることも、炊事をすることも、薪を割ることもない。山の風は体に障るから、女は無理をしてはいけない、と大吾は言った。


 村の女たちも同じだった。みなふっくらとした体つきで、指先は柔らかく、針仕事すらほとんどしないようだった。彼女たちは私を見るたび、にこにこと手を握り、「いいところへ来たね」と口々に言った。女たちの体からは、いつもかすかな甘い匂いがしていた。肉の煮汁のようでもあり、長く煎じた薬草のようでもあった。そのときの私は、ただ不思議に思っただけだった。


「大吾はあんたを大事にしてるね。山瀬の女は、体を大事にしていればいいんだよ。お山の神様が、ちゃんと見ていてくださるから」


 女たちはよくそう言って、私の周りを囲んだ。声はやわらかく、親しげで、あまりに優しかった。大吾も私を大事にしてくれた。冬に井戸へ水を汲みに行くときでさえ、桶を持たせてはくれなかった。山瀬の女は村の宝だ。体を整え、お山の血を迎えるためにいるのだと彼は言った。その本当の意味も知らず、私はようやく誰かに大切にされたのだと思っていた。


 嫁いで二年目、私は妊娠した。大吾は子どものように喜び、村の人たちも顔をほころばせた。私を見る目が変わった。まるで神棚に供えられた宝物を見るような目だった。それまで穏やかだった世話は、急に慎重で、どこか祈るようなものに変わっていった。


 彼らは、私の腹の子を「子ども」とは呼ばなかった。「御子」と呼んだ。家の前を通る人は足を止め、家の中に向かって頭を下げた。私にではない。腹の中の何かに、頭を下げているようだった。大吾は毎日、竈の前に立ち、あの大鍋から白く濁った汁を椀によそってくれた。


「怜奈、熱いうちに飲め。山瀬に昔から伝わる汁だ。体にいいし、御子様も喜ぶ」


 その汁は甘い匂いがした。飲むたびに強い眠気に襲われたが、目覚めると体が自分のものではないほど軽くなっていた。肌も日に日に滑らかになっていく。村の女たちはそんな私を見つめ、羨望とも狂信ともつかない目をしていた。私は、東京で腐りきっていた人生から、ようやく抜け出せたのだと思っていた。


 ここが、私の救いなのだと思っていた。


 あの夜、目を覚ますまでは。



 2



 夜中、腹の奥をえぐられるような空腹で目が覚めた。胃の中で火が燃えているようで、胸がざわつき、喉まで渇いていた。大吾は隣で深く寝息を立てている。私はそっと布団を抜け出し、何か食べるものを探そうと台所へ向かった。部屋の中は暗く、障子の外から差し込む月明かりだけが、畳の上に冷たい霜のように落ちていた。


 台所の戸は少しだけ開いていた。隙間から薄黄色い灯りが漏れ、その奥から「しゃっ、しゃっ」と刃物を研ぐ音が聞こえた。私は戸の前で足を止めた。こんな時間に、大吾はなぜ包丁を研いでいるのだろう。


 息を殺して、隙間から中を覗いた。その瞬間、全身の血が凍った。大吾は私に背を向け、竈の前に立っていた。手には細く長い骨すき包丁を握っている。刃が砥石の上をゆっくり滑り、骨を削るような嫌な音を立てていた。


 彼の前で、あの大鍋がぐつぐつと煮えていた。嫁いでからほとんど火が絶えたことのない鍋だ。中にはいつも、村の女たちが飲む白い汁が煮込まれている。濃い肉の匂いが鼻に入り、私は思わず体を震わせた。煮立つ汁の中で、何かが浮かび上がり、また沈んでいった。


 それは手だった。女の手だった。皮膚は白く膨れ、指の節はまだ完全には崩れていなかった。私は戸口で固まったまま、息をすることもできなかった。


 大吾の手が止まった。彼は少しずつ、少しずつ振り返った。灯りに照らされた顔は、昼間の穏やかな大吾とは別人だった。目は異様にぎょろつき、血走っている。口元にはぬらぬらとしたよだれが光っていた。


「怜奈、起きたのか。まだ肉が煮えきってないんだよ。今食べると、酸っぱいんだ」


 その声は粘つき、かすれていた。昼間の声とはまるで違った。頭の中が真っ白になり、足から力が抜ける。私は冷たい床に座り込み、口を押さえた。爪が手のひらに食い込んでも、叫ぶわけにはいかなかった。恐怖が冷たい手になって、心臓を握りつぶそうとしていた。


 切り落とされた手が、鍋の中でゆっくり揺れていた。薬指には銀の指輪がはまっている。指輪には、小さな梅の花が刻まれていた。あの形を、私は見間違えない。


 佳代さんの指輪だった。


 佳代さんは隣の家に住んでいて、私と同じように山瀬へ嫁いできた女だった。昨日の夕方、彼女は私と同じくらい大きくなった腹を抱え、私の手を取って笑っていた。彼女の手は温かかった。銀の指輪は、その薬指でたしかに光っていた。母の体調が悪いから実家へ帰るのだと、彼女は言っていた。


「怜奈は本当に恵まれてるね。お腹の御子様も、よく育ってる。私、母の具合が悪いから、しばらく実家に帰るの。怜奈はちゃんと体を大事にするんだよ」


 実家に帰る。そういうことだったのか。彼女たちが言っていた「実家に帰る」とは、こういう意味だったのか。山瀬集落で突然姿を消した女たちは、村を出たのではない。ただ形を変えて、あの鍋の中に残されていたのだ。


 そのとき、腹の中に鋭い痛みが走った。中にいる何かが歯を立て、腹の内側から私を噛んだようだった。私は膨らんだ腹を見下ろした。村中の人間に宝のように扱われている御子。私の子ども。


 それが、私を噛んでいた。



 3



 私は這うように部屋へ戻り、布団にくるまった。それでも震えは止まらず、歯が小さく鳴った。目を閉じることができなかった。閉じれば、鍋の中の手と、よだれを垂らした大吾の顔が浮かぶ。まだ肉が煮えきっていない。今食べると酸っぱい。あの言葉が錆びた鉤のように、何度も耳の奥を引っかいた。


 胃の中がひっくり返り、私は布団の脇の痰壺に顔を寄せ、夜に飲んだ白い汁を吐き出した。私が毎日飲んでいたものは、あれだったのだ。眠くなり、肌がきれいになり、体が軽くなるあの汁は、人の肉を煮たものだった。佳代さんの手も、もう私の胃の中に入っているのかもしれない。


 吐くものがなくなっても、喉は焼けるように痛んだ。その夜、私は一睡もできずに朝を迎えた。外で鶏が鳴いても、少しも安心できなかった。昼の大吾は、またあの優しい顔をつけて現れるのだと分かっていたからだ。


 戸が開くと、木の軸が小さく鳴った。大吾は湯気の立つ椀を持って入ってきた。昨日の夜などなかったかのように、昼間の穏やかな男に戻っていた。顔には人の良さそうな笑みが浮かんでいる。骨すき包丁を握っていた手が、今は白い汁の入った椀を安定して支えていた。


「起きたか。熱いうちに飲め。今日は特別にいいものを入れた。御子様もきっと喜ぶ」


 白く濁った汁の表面が揺れた。私にはそれが汁ではなく、薄く伸ばされた血に見えた。甘く生臭い匂いが鼻を突き、思わず吐き気が込み上げる。大吾の笑顔が一瞬だけ固まった。彼が額に触れようと手を伸ばしたので、私はとっさに布団の隅へ身を引いた。


「触らないで!」


 私の声が朝の静けさを裂いた。大吾の手が宙で止まり、目の奥に暗いものがよぎった。だがすぐにそれは消え、彼は椀を枕元に置いた。声はまだ優しかった。不機嫌な子どもをなだめるような、ぞっとするほど穏やかな声だった。


「悪い夢でも見たのか。顔が真っ白だぞ。ほら、飲め。飲まないと御子様が腹を空かせる」


 御子。その言葉を聞いた瞬間、腹の中のものが動いた。腹の皮越しに私の手を押し返してくる。まるで食べ物の匂いに反応したようだった。私は大吾の顔を見つめながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。この男は、かつて絶望の底で私がすがった救いだった。だが今なら分かる。彼は私を川から引き上げたのではない。もっと深い場所へ連れていくために、引きずり出しただけだった。


 怒らせてはいけない。生き延びなければならない。私はそう自分に言い聞かせ、布団の下で指先を白くなるほど握りしめた。


「大吾、佳代さん、昨日は実家に帰るって言ってたよね。急だったから、見送りもできなかった」


 大吾は私の布団を整えた。その仕草は、本当に私を気遣っているように自然だった。


「お母さんの具合が悪いらしい。急いで出たんだ。そのうち戻ってくる」


 あまりにも自然な嘘だった。胃の奥がまたひっくり返る。この村は、上から下まで腐っている。佳代さんがどこへ行ったのか、誰もが知っている。誰もが知った上で、大吾と一緒に嘘をついている。私は枕元の椀に目を向け、喉が詰まるのを感じた。


「今日は食欲がない。飲みたくない」


 大吾の眉が、ほんのわずかに動いた。


「駄目だ。お前ひとりの体じゃない。御子様を育てるんだ。いいから飲め」


 彼は椀を取り、匙で白い汁をすくって私の口元へ運んだ。生臭く甘い匂いが唇に近づく。私は口を固く閉じ、顔をそむけた。匙の汁が寝間着の胸元にこぼれ、熱い染みを作った。大吾の表情が沈み、部屋の温度まで下がったように感じた。


「怜奈。今日はどうしたんだ」


「飲みたくない」


 次の瞬間、頬に平手が飛んだ。乾いた音が部屋に弾け、半分の顔が一瞬で痺れた。耳の奥で音が鳴る。私は頬を押さえ、大吾を見た。三年間で、彼が私を殴ったのは初めてだった。


 けれど、それは始まりにすぎなかった。


 大吾の顔の筋肉が歪んだ。もう、あの人のよさそうな表情はどこにもない。彼は私の髪をつかみ、強く後ろへ引いた。頭皮が裂けるように痛み、私は無理やり顔を上げさせられる。目の前にあったのは、冷えきった悪意を宿した目だった。


「飲まないだと? 俺が拾ってやって、食わせて、住まわせて、大事にしてやったら、自分が特別な人間だとでも思ったのか」


 彼の指が私の顎をつかんだ。骨が砕けそうな力だった。


「お前は畑だ。御子様を育てるための畑なんだよ。畑が水を拒んで、何が育つ?」


 彼は椀を私の口に押しつけ、無理やり流し込んだ。甘く生臭い液体が喉と鼻に入り、私はむせながらもがいた。汁は顎を伝い、胸元へ流れていく。椀の中のものが一口ずつ体内へ押し込まれるたび、腹の中のものは満たされるように蠢いた。その瞬間、私はこれまでで一番はっきりと分かった。あれは、私とひとつの命ではない。


 大吾は椀を空にすると、床に叩きつけた。厚い陶器が割れ、白い汁が畳に飛び散る。薄い血だまりのようだった。彼は私の耳元へ顔を寄せ、蛇が舌を出すような低い声で言った。


「怜奈、もう妙な真似はするな。おとなしく御子様を産めば、しばらくは生かしてやる。逆らえば、佳代と同じになる」


 そう言って、彼は戸を乱暴に閉めて出ていった。私は床に倒れたまま、全身を白い汁で濡らし、冷たさが少しずつ骨まで染みていくのを感じていた。外で鍵の落ちる音がした。その音を聞いて、ようやく思い知らされた。私はもう大吾の妻ではない。


 山瀬集落の家の奥で飼われている、ただの母体だった。



 4



 死ぬわけにはいかなかった。けれど私が死んだら、腹の中のものはどうなるのだろう。いや、あれは私の子ではない。怪物だ。それでも、私の体の中で、私の血肉から育っている。自分の一部ではないと言い切ることも、完全に切り離すこともできなかった。


 腹に手を当てると、あれは静かになっていた。白い汁で満たされたから、満足しているのだろう。その満足感が気持ち悪く、恐ろしくもあった。あれが何であろうと、私はまずここから逃げなければならない。この村を出れば、警察に通報できるかもしれない。誰かが助けてくれるかもしれない。


 私は力の入らない体を起こし、部屋の中を探した。現金、スマホ、身分証、キャッシュカード。何もない。嫁いできたとき、大吾は山では使わないし、なくすと困るから預かっておくと言った。今なら分かる。彼は最初から、私を外へ出すつもりなどなかった。


 昼になっても大吾は来なかった。食事を運んできたのは、見知らぬ老婆だった。彼女は盆を床に置いた。いつもの白い汁と、材料の分からない小鉢がいくつか並んでいる。老婆は一言も話さず、品定めするような目で私を見た。人間を見る目ではなかった。出産を控えた家畜を見る目だった。


 私はもう逆らえなかった。老婆の前で、出されたものを少しずつ口に入れた。食べ物が胃に落ちると、温かいものに変わり、腹のほうへ流れていく。腹の中のものは嬉しそうに蠢き、もっと早く食べろと催促しているようだった。


 老婆は満足そうにうなずき、食器を下げた。戸の外で錠の落ちる音がした。私は閉じ込められた。叫び声も、抵抗も、そこにはなかった。ただその小さな音だけが、冷たく事実を告げていた。


 それから数日は、同じことの繰り返しだった。出されたものを食べ、眠り、反抗しない。泣くことも、騒ぐこともやめた。大吾はそれに満足したようで、またあの穏やかな顔に戻り、毎晩のように部屋へ来るようになった。


 彼は布団越しに私の腹を撫でた。その顔は、神棚の供え物に触れるときのように、優しく、敬虔だった。彼の手が腹に乗るたび、中のものが小さく動く。すると大吾は、さらに満たされたように笑った。


「御子様、早く大きくなれよ。父さんは、お前が出てくるのを待ってる」


 そのたびに、背筋が冷たくなった。私は機会を待っていた。食事を運ぶ老婆は、戸に鍵をかけたあと、いつも外側の釘に鍵を掛けていく。私がもう諦めたと思っているのか、その動作は日に日に雑になっていた。


 それが、私に残された唯一の隙だった。


 その夜、大吾は酒を飲んでいた。酒臭さと白い汁の甘い匂いが混じり、彼の体から漂っていた。胃の奥が重くなる。彼は私を抱き寄せ、手を腰に置いた。首筋にかかる息が気持ち悪かった。私は吐き気をこらえ、彼を突き飛ばさなかった。


「怜奈、お前、いい匂いがするな」


「大吾、足が少しむくんでるの。揉んでくれない?」


 彼は疑わなかった。不器用に私の足を揉みながら、御子様は母親思いになるだろうと呟いていた。酒で赤くなった顔を見ながら、私の心は氷のように冷えていた。彼の動きが鈍くなった頃、私は眠そうに目を閉じた。


 やがて彼のいびきが聞こえた。私は闇の中で目を開け、いびきが深く規則的になるまで待った。それから少しずつ布団を抜け出した。古い床板は音を立てやすい。裸足で、一歩ずつ慎重に進んだ。戸の前にたどり着くと、息を止め、隙間から手を伸ばした。


 外は暗かった。しばらく探った末、指先が冷たい鍵に触れた。心臓が喉から飛び出しそうだった。私は爪先で鍵を引っ掛け、ゆっくりとこちらへ引き寄せる。もう少しで手に落ちる、その瞬間だった。


「怜奈、どこへ行くんだ」


 体が固まった。鍵が指先から滑り落ち、床に当たって嫌な音を立てた。その音は、夜の静けさの中でやけに大きく響いた。振り返ると、大吾がもう起き上がっていた。灯りはついていない。闇の中で、彼の目だけが鈍く光っていた。


「喉が渇いたの。水を飲もうと思って」


 大吾は布団から出て、ゆっくり近づいてきた。闇の中でその影は山のように迫ってくる。彼は私の前で足を止め、床に落ちた鍵を見下ろし、次に戸の隙間へ伸びていた私の手を見た。


「水を飲む? 鍵は外にあるのに、どうやって飲みに行くんだ」


 彼は私の手首をつかんだ。骨が砕けそうな力だった。もう声に優しさはなかった。純粋な悪意だけが残っていた。


「甘やかしすぎたな」


 彼は私を引きずり、寝床へ投げつけた。腹に鈍い痛みが走り、視界が暗く揺れた。冷たい刃が頬に触れた。あの骨すき包丁だった。刃からはかすかに錆びた鉄の匂いがした。


「また妙な真似をしたら、先に脚を折る。御子様を育てるのに、脚はいらないからな」


 全身がこわばった。喉から絞り出した声は、自分でも聞こえないほど小さかった。


「ごめんなさい。脚は、やめて」


 大吾は包丁をしまい、太い麻縄を取り出した。私の両手両足は縛られ、寝床の柱に結びつけられた。縄は粗く、すぐに皮膚へ食い込んで、焼けるような痛みを生んだ。大吾は私の頬を軽く叩いた。強くはなかったが、その仕草には人を見下すような侮辱があった。


「これで大人しくなる。いい子にして御子様を産め。そうすれば、少しは楽にしてやる」


 彼は私の隣に横になると、すぐに眠ってしまった。部屋には重いいびきだけが残った。それは胸の上に乗った石のようだった。私は暗い天井を見つめたまま、縄に締めつけられる手首と足首の痛みに耐えた。少し動くたび、縄はさらに深く食い込んだ。


 逃げられない。待つしかない。腹を裂かれ、次の鍋にされる日を待つしかない。腹の中の怪物は、私の不安を感じ取ったように暴れた。内側から転がり、ぶつかってくる。痛みが何度も押し寄せ、私は唇を噛んで声を殺した。


 暗闇の中で、ふいに覚えのある甘い匂いがした。鍋の汁ではない。もっと濃く、もっと純粋だった。匂いの元は、私の手首だった。縄で擦れた皮膚が破れ、血の玉がにじんでいる。その血が、白い汁と同じ甘い匂いを放っていた。


 私は息を止めた。ありえない考えが、恐ろしいほどはっきりと頭に浮かぶ。こんなにも長く白い汁を飲まされ続けたせいで、私の体まで変わってしまったのだろうか。私はまだ人間なのか。それとも、すでに彼らの言う母蟲になっているのか。



 5



 朝になると、大吾は何事もなかったように縄をほどいた。白い汁を持ってきて、私が飲み干すまでそばに立っていた。手首には深い縄の跡が残り、皮膚の破れたところから血がにじんでいる。大吾はそれを見ても何の反応も示さなかった。まるで私の手ではなく、まだ処理していない肉の一部を見ているようだった。


 その日から、私は完全に抵抗をやめた。食べ、眠り、障子に映る日の光が移っていくのをぼんやり眺めるだけになった。腹は日に日に大きくなり、重さで息が苦しくなっていく。中のものは恐ろしい速さで育っていた。力も強くなり、貪欲さも増していった。


 ときどき、腹の皮越しにその肢の形が分かることがあった。あれは人間の赤ん坊の形ではなかった。節のある肢と硬い殻を持った、大きな虫が丸まっているようだった。動くたび、腹の皮膚が奇妙な形に押し上げられる。村の女たちはそれを見ても、羨ましそうに目を細めるだけだった。


 女たちは時折、私を見に来た。彼女たちも大きな腹を抱え、奇妙に幸福そうな顔をしていた。私の周りに集まり、神棚を拝むように腹を撫で、意味の分からない音を低く唱える。その声は部屋の中を這い回り、壁の隙間を虫が通るように耳へ残った。


 志乃婆さんが私の腹を見つめた。目には薄い膜がかかったようで、冷たい手を腹に当てられた瞬間、私は思わず身を引きそうになった。けれど動けなかった。彼女たちが供え物を撫でるように私に触れるのを、ただ座って耐えるしかなかった。


「もうすぐだよ。山神様の御子様が、もうすぐお降りになる。山瀬の福は、あんたの腹にかかってるんだ」


 志乃婆さんは自分の腹を撫で、静かに満ち足りた笑みを浮かべた。


「あんたが産んだら、次は私たちの番だ。私たちも山神様の御子を産んで、それから山神様のそばへ行くんだよ」


 彼女たちの言う「そばへ行く」とは、鍋の中の汁になることだった。私はその言葉を聞きながら、麻痺した恐怖だけを感じていた。彼女たちは自分の結末を知らないわけではない。ただ、死ぬことを名誉だと信じ込んでいる。この村で逃げたいと思っているのは、私だけだった。


 私の死ぬ日は、近づいていた。


 予定日の日、空は暗く沈み、黒い雲が山の上に低く垂れ込めていた。村の女たちは全員、私の部屋に集まった。大吾とほかの男たちは戸の外で待っている。神託を待つ信者の群れのように、誰も声を立てなかった。部屋には蝋燭がいくつも灯されていた。赤ではない。気味の悪い緑色の火だった。揺れる炎と、吐き気を催すほど濃い甘い匂いが、部屋いっぱいに満ちていた。


 トメ婆さんは村の産婆だった。手にしているのは産湯の道具でも布でもなく、よく研がれた刃物だった。大吾の骨すき包丁と同じ形をしている。刃は磨き上げられ、そこには興奮に歪んだ女たちの顔が映っていた。彼女たちは出産を手伝いに来たのではない。生贄の儀式を見届けに来たのだ。


 陣痛が始まった。波はどんどん短く、激しくなっていく。腹の中の何かが骨と肉を内側から引き裂こうとしているようだった。意識が少しずつ曇り、目の前には揺れる緑の火だけが残る。トメ婆さんが寝床のそばへ来て、枯れ枝のような手で私の腹を撫でた。濁った目に、狂信の光が宿った。


「時が来た」


 彼女は刃物を振り上げた。私は目を閉じ、死を待った。けれど、刃は落ちてこなかった。代わりに、部屋の中に悲鳴が響いた。


 私は力を振り絞って目を開けた。腹が内側から裂けていた。粘液に濡れた巨大な肢が、血肉の間から突き出ている。鎌のように曲がったその肢には、私の肉片と血がまとわりついていた。続いて、頭が現れた。それは赤ん坊の頭ではなかった。


 目はなく、複雑で巨大な口器だけがあった。血肉の花が開いたような形で、その奥には幾重にも重なった鋭い歯が並んでいる。それは私の体から、少しずつ這い出てきた。粘液と血が混じり、寝床を濡らしていく。十か月かけて私が腹で育てていた御子は、子どもなどではなかった。


 怪物だった。


 部屋の女たちは逃げなかった。彼女たちはその場に膝をつき、歓喜の声を上げた。


「山神様の御子だ! 御子様がお降りになった!」


 トメ婆さんは震えながら手を伸ばし、その怪物に触れようとした。怪物はまだ私の体から出たばかりで、どこか弱っているようにも見えた。私の上に這い、粘液を全身にまとわせ、強烈な腐臭を放っている。やがて口器を開き、甲高い鳴き声を上げた。


 次の瞬間、怪物はトメ婆さんの腕に噛みついた。悲鳴が部屋を裂く。トメ婆さんの腕は、目に見える速さでしぼんでいった。血も肉も骨も一瞬で吸い尽くされ、皺だらけの皮だけが残る。怪物の体は少し大きくなり、甲殻にはさらに濡れた光が宿った。


 トメ婆さんを吸い尽くすと、怪物は次の獲物へ向いた。部屋は一瞬で混乱した。女たちは悲鳴を上げて逃げ回り、蝋燭を倒し、緑の火が畳に転がった。けれど部屋は狭く、戸口には人が詰まっている。たった今まで信者だった女たちは、最初の供物に変わった。


 怪物は目覚めた死神のように、自分の信者たちを刈り取っていった。ひとり、またひとり。たった今それを産んだ私だけは、完全に無視された。私は血だまりの中で横たわっていた。腹には大きな穴が開き、そこから命が流れ出ていく。


 意識が闇に沈んでいく。完全に気を失う直前、私は怪物が戸を突き破るのを見た。外にいた大吾は青ざめた顔で、その場に立ち尽くしていた。怪物はその口器を、彼に向けた。



 6



 私は死んだと思っていた。けれど再び目を開けると、まだ生きていた。私は元の寝床に横たわっていた。部屋はきれいに片づけられ、昨夜の血の惨劇など存在しなかったようだった。障子は新しく張り替えられ、畳も裏返されている。それでも空気には、かすかな甘い血の匂いが残っていた。


 自分の腹を見下ろすと、そこはすでに塞がっていた。胸元から下腹部まで、ムカデが皮膚に貼りついたような醜い傷跡が伸びている。痛みはない。感覚すらなかった。体を起こすと、ひどく弱っているのに、四肢の奥には見知らぬ力が流れているのを感じた。


 大吾は寝床のそばに座っていた。一晩で二十歳は老けたように見えた。顔からは人のよさそうな気配も、冷酷な悪意も消え、灰のような無気力だけが残っていた。左腕は肩からなくなっている。傷口には布が雑に巻かれ、まだ血がにじんでいた。


 彼は私が目を覚ましても、何の反応も示さなかった。その麻痺したような顔は、怒りよりも恐ろしかった。魂までも昨夜の怪物に吸われてしまったように見えた。私は口を開いた。喉は乾ききって痛んだ。


「どうして、私は生きてるの」


「それが生かした。山神様の御子が、お前を生かした」


「どこにいるの」


「山へ戻った」


 大吾は床を見つめたまま、かすれた声で続けた。


「お前は母蟲だと言っていた。あれの根だ。だから死なせない、と」


 母蟲。その言葉を聞いた瞬間、私は笑いそうになった。けれど胸の傷跡が引きつり、笑い声は歪んだ。私は母ではなかった。妻でもない。生贄ですらない。ただ、あの怪物が地上に残していった根だった。


「あれは、こうも言っていた。お前はここを出られない。次の飼い役になって、山瀬の血を守ることになる」


 私は大吾を見た。生かされたのは恩ではない。次は私が、誰かの血肉を煮て汁を作る女になる。それは殺されるより残酷だった。


「あんたたちは、何なの」


 大吾は長く沈黙した。窓の外の風が障子を揺らし、小さな音を立てていた。その瞬間、村全体がすでに死んでいるように静かだった。ずいぶん経ってから、彼は口を開いた。


「俺たちは守り人だ。山神様の血と、山神様が残した恵みを守ってきた。山瀬の男は、生まれたときから器になる女を探す。嫁いできた女たちは、自分の体を汁にするために育てられる。その汁を、本当の母蟲に飲ませる。御子が降りる、その日まで」


 彼はそこで言葉を切り、さらに声を落とした。


「佳代も、そうだった」


 あの汁は、彼女たちの血肉を煮たものだった。だから村の女たちは少しずつ減っていったのだ。だから、彼女たちは顔色を悪くしながらも、山神様のそばへ行けると笑っていた。彼女たちはこの村に一度殺されたのではない。生きているうちから、一匙ずつ誰かの体に流し込まれていた。


 この村は、根から腐っていた。


「私は、そんなことしない。死んだほうがまし」


 大吾は動かなかった。


「死ねない」


 彼は私の手首を指した。そこには、いつの間にか淡い赤色の虫の形をした痣が浮かんでいた。小さな虫が皮膚の下に潜り込み、血管のそばで止まっているようだった。痛みはない。けれど腕全体が冷たくなった。


「山神様の御子がお前に印を残した。お前の体は、もう母蟲の体だ。印がある限り、老いることも、本当に死ぬこともない。お前は永遠にここに残る。生きた供物として」


 彼はそう言い残し、壊れた体を引きずって部屋を出ていった。戸には再び鍵がかけられた。部屋には私ひとりと、手首の印から伝わるかすかな鼓動だけが残った。


 私は山瀬集落でただひとりの女になった。


 ただひとり、死ねない囚人になった。



 7



 日々は再び静かになった。死んだような静けさだった。山瀬集落の男たちは一夜にしてすべての女を失い、待ち望んでいた御子も失った。彼らは口数をなくし、歩く死体のようになった。村の入口の石灯籠は誰にも拭かれず、神棚の供え米には黴が生え始めた。


 大吾は毎日、私に食事を運んだ。もう白い汁ではなかった。粗い飯、山菜、味噌汁だけだ。おそらく、鍋に入れる材料が村に残っていなかったのだろう。彼は私に何も話さなくなった。食事を置くとすぐに出ていく。私たちの間には、沈黙だけがあった。


 私は絶食を試した。無駄だった。何日も食べず飲まずにいても、弱るだけで死ねない。山神様の印は呪いのように私の体を縛り、死ぬ自由さえ奪っていた。


 逃げようともした。村には男しか残っておらず、彼らは私を止めなかった。どうせ出られないと知っていたのかもしれない。私は山瀬集落を出て、村口の石灯籠を通り過ぎ、外へ続く山道へ入った。道の両側には雑草が伸び放題で、長いあいだ本当にこの道を出た者などいなかったように見えた。


 だが遠くへは行けなかった。村から離れすぎると、心臓に激痛が走る。見えない手が胸の中へ入り込み、心臓を握りつぶすようだった。息ができず、立っていられない。村の範囲まで這い戻ると、ようやくその痛みは消えた。


 私は閉じ込められていた。山に。村に。自分の体に。最初のうちは憎しみがあった。何度も手首の印をつかみ、皮ごと抉り取ってやりたいと思った。だがその憎しみさえ、いつしか薄れていった。


 私もまた、口数を失った。毎日、家の前に座り、朝日と夕日を眺め、山霧が軒先を流れていくのを見ていた。時間は意味をなくした。春には山桜が咲いて散り、夏には虫の声が満ちては止み、冬には雪が何層にも屋根を覆った。それでも私は、同じ年齢のまま、同じ顔のままだった。


 私の姿は、二十五歳で止まっていた。けれど村の男たちは一人、また一人と老いて死んでいった。山神様の恵みを失った彼らは、驚くほど早く衰えた。背は曲がり、歯は抜け落ち、言葉も聞き取りにくくなっていった。最後に残ったのは、大吾だけだった。


 大吾は最後のひとりだった。死ぬとき、彼は私の足元に横たわっていた。私の手を握り、濁った目で見上げてくる。ようやく長い夢から覚めたような目だった。かつて私を殴り、縛り、人の肉を煮た汁を飲ませたその手は、枯れ葉のように軽かった。


「怜奈……悪かった」


 それは長い年月の中で、彼が私に向けた最初の弱い言葉だった。そして最後の言葉だった。私は泣かなかった。涙はとっくに枯れていた。私は自分の手で、大吾を村口の老杉の下に埋めた。土をかけても、胸には解放感も悲しみもなかった。ただ、ようやくこの村が静かになったと思った。


 それから、山瀬集落には私ひとりだけが残った。供養する者もいない亡霊たちと一緒に。風が空き家を抜けると、女がすすり泣くような音がした。夜になると、竈の鍋蓋がかすかに鳴ることがあった。台所に火など入っていないのに。


 このまま永遠に、ひとりで生き続けるのだと思っていた。あの満月の夜までは。村口の闇から、ざり、ざりと何かが這う音がした。巨大な影が山林から現れ、月明かりがその黒い甲殻を冷たく照らした。


 それだった。


 私の子だった。


 生まれたときより何倍も大きくなっていた。黒い甲殻は月光を受けて鈍く光り、巨大な口器からは粘液が垂れている。しゅう、しゅうと音を立てていた。もう生まれたばかりの弱々しい姿ではない。それでも私の前へ這ってくる動きは、驚くほど静かだった。


 私は怖がらなかった。ただ、それをじっと見つめていた。それは目のない頭を、そっと私の頬に擦り寄せた。帰ってきた獣のようだった。私は手を伸ばし、冷たく硬い甲殻を撫でた。生き物らしくない感触なのに、かすかな脈があった。その脈は手のひらから、手首の印へと伝わっていった。


「帰ってきたの」


 それは低く鳴いた。返事のようだった。それから、その怪物は村に留まるようになった。昼間は深い山へ消え、夜になると村へ戻り、私の家の屋根に伏せた。沈黙する守り神のように。空っぽだった山瀬集落に、ようやく私以外の呼吸が戻った。


 私はもう、ひとりではなかった。


 私には連れができた。


 怪物だった。


 私が、この腹から産み落とした怪物だった。



 8



 それから、どれほどの年月が過ぎたのか分からない。季節が何度巡ったのかも、外の世界がどう変わったのかも、もう覚えていない。そんな山瀬集落に、久しぶりの客が来た。迷い込んだ登山者たちだった。男三人、女二人。山の濃い霧に巻かれ、世界から忘れられたこの村へ、偶然たどり着いたのだ。


 彼らは大きな登山用のリュックを背負い、高そうなレインウェアを着ていた。靴の底には泥がこびりついている。村を見つけたとき、彼らは最初こそ安堵したが、すぐに荒れ果てた景色に気圧されたようだった。空き家がいくつも並び、戸板は腐り、庭には雑草が生い茂っている。その中で、私だけが家の前に座っていた。古い写真から抜け出してきた人間のように。


 私を見た彼らは、そろって息をのんだ。ポニーテールの若い女が、おそるおそる近づいてくる。何かを驚かせないように、声を落としていた。


「すみません。ここって、あなたひとりなんですか」


 私はその若く生々しい顔を見つめ、しばらく現実感を失った。何も答えなかった。長いあいだ外の人間と話していなかったせいで、普通の声にどう応じればいいのか分からなかった。彼らは私を口が利けない女だと思ったらしく、それ以上は尋ねず、村の空き地にテントを張った。


 夜になると、彼らは焚き火を囲み、山の天気に文句を言い、スマホの電波が入らないことを愚痴った。火の光が彼らの顔を照らす。私は、何も知らずにこの村へ嫁いできた遠い日の自分を思い出した。あの頃の私は、山の人間は東京より優しいのだと信じていた。けれど、ある場所は避難所ではない。人を丸呑みにする胃袋なのだ。


 黒田拓也という男が、何度もこちらを見ていた。ビールを何本か空け、声はどんどん大きくなり、視線も粘ついていく。隣の遠藤健吾は木の杭にもたれて低く笑っていた。止める気などないようだった。


「こんな山奥に、まだ若い女がいるとはな」


「口、利けないのか?」


「そのほうが都合いいだろ」


 彼らの声は、一言残らず私の耳に届いていた。私は表情を変えなかった。人の心がどこまで腐るかなど、もう知っている。山瀬集落の男たちのように信仰の皮をかぶっていないだけ、彼らの悪意は浅く、そして愚かだった。


 夜半、戸の閂が動く音で目が覚めた。黒田と遠藤が私の家の戸をこじ開け、酒臭い息と笑みを浮かべて近づいてくる。背後から月明かりが差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。彼らはこの空っぽの村に、口の利けない女がひとりいるだけだと思っていた。


「なあ、少し相手してくれよ」


 私は寝床のそばに座ったまま、静かに彼らを見ていた。もう死んでいる人間を見るように。二人の手が私に触れようとした、その瞬間だった。屋根の上で轟音がした。屋根板がまとめて引き剥がされ、月光が室内へ流れ込む。巨大な黒い影が、上から落ちてきた。


 私の御子が、血肉の花のような口器を開き、怒りの声を上げた。黒田と遠藤の顔から笑みが消える。酒と欲望は、一瞬で恐怖に塗りつぶされた。二人は這うように逃げようとしたが、もう遅かった。鎌のような肢が横に払われ、二人の体は床に崩れ落ちた。悲鳴はすぐに途切れた。


「ば、化け物だ!」


 残りの三人も目を覚ました。室内のそれを見た瞬間、彼らは魂を抜かれたように叫び、ばらばらに逃げ出した。ある者は村口へ走り、ある者は荒れた畑に転び、ある者は電波のないスマホを泣きながら操作していた。けれど、誰ひとり山瀬集落から逃げることはできない。


 ここは、私たちの領域だった。


 やがて村は、再び静かになった。私の御子だけが、黙々と餌を処理している。頭を下げて食べる仕草は、昔よりずっと慣れていた。無駄にしない方法を、ようやく覚えたのだろう。月光はその甲殻を照らし、私の手首に浮かぶ蟲の印も淡く照らしていた。


 私はそのそばへ行き、頭を撫でた。


「いい子ね。無駄にしちゃ駄目よ」


 私は台所へ向かい、埃をかぶった大鍋を引きずり出して、もう一度竈に据えた。井戸へ行き、桶いっぱいに水を汲む。長いあいだ火の入っていなかった竈のそばには、まだ薪が積まれていた。山瀬集落は、いつかこの火が再び灯ることを知っていたかのようだった。


 火が起こり、鍋の底がゆっくり熱を帯びていく。白い湯気が鍋の縁から立ちのぼり、湿った鉄の匂いを含んでいた。ずっと昔、私はこの同じ台所の戸口に座り込み、鍋の中から佳代さんの手が浮かび上がるのを見た。長い年月の果てに、私は同じ鍋の前に立ち、自分の手で火を強くしている。


 新しい飼育が、始まった。


 ただし今度は、私が供物ではない。


 私が神だった。








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