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回想 忘れられない男

 面倒で残酷な、あなた サティの昔の話です。

 ――昔の話だ。




 

 月が雲に隠れた。

 サティは婚約祝いの席を抜け出して離宮へと向かった。

 湖畔の王宮と水上離宮は一本の細い長い橋で繋がっている。

 サティは懐に離宮の鍵を忍ばせ、手に角灯を一つ下げ、橋を渡っていく。季節は春だが風はまだ冷たい。少し肌寒く、肩を丸めて身をすくめながら歩く。

 既に夜は更け、闇は深い。雲が厚く蔽っているのだろう。見上げた空には星も見えない。風はやや荒れていて、湖を取り巻く木々のざわめきはいつもよりずっと鋭い。湖上には小波が立ち、不穏な水音が静寂を裂いている。


「雨になるかな」


 春の雨は長い。ひと雨来たら、強弱もなく、いつまでもしとしとと降り続く。

 婚約の儀式は、慣例により二晩続く。明日の夜は大舞踏会も開かれ、相当な長丁場になることは疑いない。

 サティは自他ともに認める社交家で、人が大勢集まり騒ぐことは好きだった。だが今夜はとてもそんな気分になれない。

 前方を見た。

 周囲に設置された観賞用の灯籠すべてに火が点されて、離宮は朱色に照らし出され幻想的で美しい。風に炎がなぶられ、影が揺らめく姿もまた情緒がある。

 橋のちょうど半ばまでいったところで、ぼんやりと人影を見出した。近づくと、礼装姿の若い男が欄干に凭れかかり夜の湖を眺めていた。

 互いの顔が判別できるくらい接近したところで、男が姿勢を正し、浅く会釈した。


「今宵の主賓がどこへ行かれる」


 丁寧だが愛想のない低い声。ざっくりと切った明灰色の髪に冷めた黒い瞳。痩せぎすで背が高い。闇に溶け込むような希薄な存在感と抑えた所作が、どこか物々しい。

 見知らぬ顔だ、とサティは男の素性を訝りつつ、とぼけてみせた。


「人違いでは」

「いや。俺の眼が節穴でなければ、あなたはダウアー王家第三十一代アイザンベック王が第四子、第二王女サティ・ミューゼン・ダウアー殿下とお見受けするが」


 淡々とした口調で男は言って、サティが顔を顰めているのにも関わらず、更に指摘を重ねる。


「第三王妃譲りの蜂蜜色の金の髪、瞳は青銅色。御年十五になられたな」


 サティは空いている右の手で、額に振りかかった長めの前髪を掻きあげた。

 ごまかすのは無理そうだ、と嘆息する。


「そういう君は、どこのどちらさまだ。こんなところで、いったいなにをしているんだ」

「別に、なにも。ただ王宮を見ていただけだ」


 男のまなざしにつられて、サティも去ってきたばかりの方角を振り返る。

 闇の中で煌々と光輝く王宮。暗さに慣れた眼には痛いほど明るい。

 サティは額に手を翳し、眩さを払いのけながら男に視線をやった。


「中に入ればいいのに」


 男は物憂い顔でかぶりを振って、欄干から身体を離した。


「俺はいけない。でもあなたは戻られるといい。送っていく」

「そんな気遣いは無用だ」

「だめだ。こんな夜更けに王女が一人で出歩くなんて無謀の沙汰だ。だいたい護衛はどうした?」

「まいた」

「まくな。もし悪い男に捕まったらどうする。それに風も荒れてきた、雨が降る前に戻るんだ」


 余計なお世話だ、と言いかけてやめる。

 男が無造作に上着を脱いで、サティの肩にふわりとかけた。

 なんとなく、警戒心も不審感も削がれてサティは男をあらためて凝視した。

 眼が優しい、と思った。そしてどこかもの寂しい。

 サティはその眼を知っていた。大切な人を喪って、悲しみが癒されていないまま心に空洞があくと、瞳は陰る。

 サティは虚勢を張るのをやめて、肩の力を抜き、借り物の上着の前を掻き合わせた。


「今宵は王宮には戻らない。肝心の婚約者がいないんだ、僕だけあの場にいても無様だろう」

「なぜ公子がいない」

「急病という知らせが届いたと、説明しただろう」


 だが、それは公子の嘘だと思った。

 大貴族ヴルスト公爵が第一子、ジレク・キール・ライネン公子。

 この五歳年上の婚約者は、急逝した姉の元婚約者で、義兄になるはずだった。姉の死により、順序的にこのたび縁を結ぶことになったが、それは自分の本意ではないと、言外に告げられた結果となった。


「急病? 本当に?」

「知らない。だが本人がそう言うなら、そうなんだろ」

「なんだか嘘くさいな」


 虚を突かれる。


「あっはははははははは」


 サティは声をたてて笑った。体面を重んじることも義務の一つと教えられてきたサティにとって、男の意見は新鮮だった。


「君は、ずいぶん不躾にものを言うな」

「気に障ったか」

「いや、気に入った」


 サティは笑うのをやめて、男をひたと見つめた。


「僕をどう思う」


 男はちょっと考えて答えた。


「花ならばまだ蕾」

「蕾を花にしてみないか」


 男は驚き、それから、じろりと睨んできた。


「男をからかうと、痛い目に遭うぞ」

「それが本気なんだ。僕は、早く大人になりたい」


 ここで突風が吹いた。思わずよろける。男の腕が背にまわされて支えられる。

 遠雷が鳴った。白い雷光が閃く。一粒の雨が頬に落ちて、つ、と伝った。

 サティは片腕を伸ばし、ほとんど無防備に男の首を引き寄せた。


「……実はここだけの話、僕はジレク公子との婚約は解消しようと思う」

「そんなことができるのか?」

「もともと僕はこんな婚約は嫌だったんだ。ジレク公子だって不本意なはず。それなのに、政治上の理由とやらで推し進められた。僕には怒る権利があると思わないか?」

「……それでわざわざ自分の身を傷物にしようと? バカか、あなたは」

「はっきり言うなあ。ますます君のことを気に入ったよ」

「そんな理由で行きずりの男をベッドに誘うな。婚約破棄を狙うにしても、もっとましな方法を考えろ」

「考えたさ。これでもあの手この手で抵抗したよ。けれど肝心のジレク公子が断ってくれないから、結局強引に婚約まで持ち込まれた」

「それでどうして、公子が今日という日をすっぽかすんだ?」

「知らないよ。でも、まあ、もしかしたらだけど、ジレク公子は姉への恨みを妹の僕にぶつけたいのかもしれないね」

「……それほど見下げ果てた男なのか?」

「ところが立派な人格者なんだ」

「よくわからんが、立派な人格者なら、あなたの憶測は間違っているのではないのか?」

「さあ? でもいずれにしろ、僕は断わりたい」

「結局話は最初に戻るのか」

「君が嫌なら断ってくれていい。無理強いはしないよ。君にも好みがあるだろうしね」

「俺が断ったら、他を探すのか」


 男の追及に、サティは素っ気なく頷いた。


「……これもここだけの話だけどね、僕は誰とも恋愛をしたくない。結婚は義務だから、まあ少なくともこの十年以内にはしなければいけないだろうけど、相手は選びたい。僕は、結婚は好きじゃない人とする。もしくは、僕のことを好きじゃない人とする。身体を重ねたくらいで心を奪われることのないようにする。そのすべを、君が僕に教えてくれないか?」

「なぜそんな不幸な結婚を望む」

「僕にとってはそれが理想の結婚だからだ」


 男の眼がすっと細められる。声は、刺々しく、険しい。


「さっきの質問に答えてもらおう。俺が断ったら、他をあたるのか」

「まあね。条件が合えばだけど」

「条件?」

「そう。独身で顔見知りではなく、あとくされがなさそうで、僕との結婚を望まない」

「俺がその条件に当てはまるというのか」

「君はそう見えた。だって連れがいたらいま時分一人でこんな場所にいるわけがないだろう。それに、今夜君のような人と会うというのも、なにか天啓めいたものを感じる」


 サティはジレク公子の心中を思うとやりきれなかった。

 姉の急逝――事故死の要因の一つはまぎれもなく自分で、姉のジレク公子に対しての裏切り行為に加担していたことは事実だ。

 姉の嘆願を断り切れなかったこと――それがすべての悲劇のもとだろう。

 ジレク公子という婚約者がいるのに、どうしても他に結婚したい男がいるのだと、嫌がるサティを強引に証人に仕立て、自分の側近と内密に婚儀を上げた。

 この目の前の湖で。

 浮かべた小舟の上で口づけを交わした二人は幸福そうに笑い、その僅かあと小舟が転覆、二人は溺死。サティだけが生き残った。

 事件後、ジレク公子とは疎遠になった。一時期はとても親しく、実の妹のように可愛がってくれた人が離れていってしまったのは辛かった。

 なによりジレク公子の顔から一切の笑みが消えたことが悲しかった。

 あれから三年――たったの三年しか経っていないのに、姉の喪が明けて二年になるということで、ジレク公子はサティの婚約者として内定された。

 ジレク公子には厭われているから無理だと主張しても、公子は受諾しているとの一点張りで、聞きいれてはもらえなかった。

 そして迎えた今日、公子は現れなかった。

 この場を覆う沈黙が重たい。

 サティは諦めることにした。自嘲気味に笑う。


「やはり嫌だよな、こんなこと。すまない、つまらないことを頼んでしまった。どうか忘れてくれ――」

「待て」


 男はサティの細い手を己のうなじから外し、そのままきつく拘束した。

 いよいよ怒っていた。

 雨がパラパラと降って来た。離宮のまわりの篝火が、徐々に一つ、二つと消えてゆく。次第に暗さが増す中、男が言った。


「初めてだと言ったな」

「……言った」

「初めてが俺でいいのか」

「僕は君が気に入った。それではいけないか」


 眼と眼がぶつかり合う。

 ややあって男はサティを離した。空いた手がサティの両頬を包み込む。輪郭を確かめるようにすっと撫ぜられ、眼は開けたまま、サティの唇は奪われた。吐息が絡む。覆いかぶさるように角度を変え、何度も激しい口づけを繰り返した。しまいには息苦しくなってサティが喘ぐと、男はやっと唇を離した。

 瞳孔に閃く一筋の情熱。

 火のようなまなざし。


「……あとで嫌だと抵抗してもやめないぞ。それに、俺は悪い男だ。あなたとはまったく身分が釣り合わない。いいのか、それでも」

「いい」

「だったら、あなたをもらう」


 サティの胸がどくっと脈打つ。若干の恐ろしさと戸惑い、それに、小さな満悦。自分の眼に狂いはないと思えた瞬間だった。だが、男の言葉はそこで終らなかった。


「これは俺の勝手だが、あと十年以内にあなたの歪んだ結婚観を覆させてみせる。結婚は、好きな奴としろ。そうでなければ幸せになどなれない。俺はあなたがみすみす不幸になるさまを、見過ごすつもりはないからな」

「……君が僕を幸せにするということか?」

「それはわからない」

「ずいぶんな言い草だ」

「あなたも勝手なのだから、許せ」

「いいよ。僕の気持ちがそう簡単にひっくり返るとは思わないけれど、君が十年僕の傍にいてくれるのなら、悪くない。頑張って、僕の結婚観を覆してみせてくれ」

「他人ごとのようだな、まったく」

「もし覆ることがなければ、婚約者候補を三人選んで一番条件のいい男と結婚するからな」

「やれやれ、なんて夜だ」


 男は初めて微笑を見せた。

 サティはびっくりして、つい正直な感想を漏らした。


「……君、笑うと可愛いな」

「……そんなたわけたことを言う口はどの口だ? すぐに塞いでやるから覚悟しておけ」


 男は睨み、どすの利いた声で脅しをかけて、身を屈めてサティの足をすくい軽々と横抱きにした。

 サティは角灯を慌てて持ち直し、胸に抱えた。いまや離宮を照らす灯りはすべて絶え、これが唯一の光源だ。

 男はしとどに濡れながら、厳しい面持ちのまま橋の残り半分を渡り始めた。


「だが――もしもジレク公子があなたを愛していたら、俺は殺されるな」

「え、なんだって?」

「いや、独り言だ」

「ふうん」


 男は腹を決めたような浅い微笑をサティへ向けた。

 サティは不思議と不安を覚えず、男の胸に頭を預けた。瞼を閉じる。

 しっとりと降る春雨の中、離宮の正面扉が厳かに開かれ、閉じた。



 ――この一夜は二人の最初で最後の夜となった。

 男は二度とサティの前に姿を見せなかった。



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