最終話 時は流れゆく
滝の上の洞窟内。まだ体が本調子でない祐二は、裸のまま横になっていた。恵美の希望で今は人の姿をしている。
「もう一着ぐらい服が欲しいね」
裸の祐二を見ながら、恵美は言った。祐二の素肌はもう見なれたが、人の姿でいるなら、服を着ていて欲しいと思ってしまう。そういう恵美も何も身につけていなかった。洞窟内なら、誰にも見られることもない。だんだんとそれに慣れてきている自分が怖かった。
祐二は、にやっと笑った。
「服が欲しければ、人里へ出てゴミをあさればいくらでも調達できる。大体の物は手に入るぞ。おまえのサンダルとかTシャツも拾って来たんだ」
ゴミをあさる――恵美は、現実を突きつけられ、思わず、うぇ! と眉が上がった。自分が他人のごみをあさる姿。おぞましすぎる。確かにそうすれば服は手に入るだろう。盗んだ金で買わなくても。
「そのザックもごみの所で拾ったの?」
恵美は、そこにあるザックに目をやった。ザックの側面には、『森神祐二』の住所と名前がマジックで大きく書かれている。
「それ? それは違う。そうだ、まだ話していなかったな。今ごろ言うのもなんだけど、実は俺、『森神祐二』って名前じゃないんだ。そのザックに書かれている名前と住所を借りていた。ここでの愛称はあったけど、それは姓と名がはっきりしたものではない。人の世界ではいろいろな名で呼ばれてきた。これからは恵美の好きな名前で呼んでくれ」
名前も偽り。あきれて責める言葉は出てこない。恵美は、ハハッ、と笑った。
「あっ、そう。じゃあ、これまでと同じように祐二って呼ぶよ。それで慣れちゃったもん。祐二は『森神祐二』でなかったんだ。嘘つき祐二に何言われても、あたしはもう驚かないよ。平気だよ」
恵美は軽く言葉を返したが、ザックの入手方法を考えると、少し嫌な事を想像してしまいうつむいてしまった。
そこにあるザックは、登山用品専門店で取り扱っているブランド物で、しっかりした背当てが入っている。新品なら一万円ぐらいする。捨てられるほど傷んではいないので、ごみから拾ったものではないだろう。本物の『森神祐二』を山中で殺して奪い取ったか、『森神祐二』がザックを離して休憩しているうちに、『祐二』が盗んだ物かもしれない。恵美は重い気分でザックから目をそらした。
今さらザックの入手方法を問い詰める気にはならない。祐二はひったくり殺人以外にも、殺人や窃盗を繰り返しやっていたのかもしれない。だからといって、それを今問い詰める気にはならない。祐二のすべてを受け入れると決めたのだから。まだ残っている人としての心が、針でチクチクとつつかれる痛みがあるだけで。
恵美の心を察したのか、祐二が説明してくれた。
「そんな悲しそうな顔をするな。そのザックは盗んだ物じゃない。置いてあったからもらっただけだ。まあ、人間に言わせれば、それも盗んだことになるのかもしれないけど。持ち主は、ザックを登山道の木陰に下ろし、登山靴を脱いだ状態で倒れて死んでいた。外傷はなかったからきっと急病だろう。俺が殺して奪った物じゃない。死人には不要だろうと思って、靴といっしょにここへ持ってきてしまった。それはおまえに会うずっと前のことだ」
「確かに、それも泥棒になるかもね。まあ、そんなこと今ここで言っていてもどうしようもないけど、今度から勝手に持ってきちゃだめだよ」
恵美はあきらめを隠しもせず、ため息をついた。
「ねえ、祐二。あたし、これだけは祐二に言っておきたい」
恵美は一呼吸置いて、すぐそこで横になっている祐二を見ながら、諭すようにゆっくりと言った。
「あたしの為に、ひったくりとか、強盗とかはもうやめて。あたしは何もいらない。あたしは、祐二があたしの為に危険を冒して、人を殺してでもお金や物を手に入れようとするのなんてがまんできない。人の常識で考えれば、そんなの間違ってる。あたしの夢の為に、女の人が祐二に殺された。その人の家族の方が、どんなに悲しい思いをしているか……そういうのは、祐二が人でなくても、絶対に許されることじゃない」
「わかっている。盗みなんかやりたくもない。俺は殺すつもりなんかなかったんだ。ニュースを知って平気だったわけじゃない。俺がやったとおまえに思われたくなかったから、普通にしていただけで、俺だって後味が悪かった」
「何年経っても祐二の罪は消えない。亡くなった女の人の為に毎日祈ろうね。もちろん、祈っただけで、祐二のやったことがなくなるわけじゃないけど。あたしたちは、一生、亡くなった人のことを忘れちゃいけないの」
◇◇◇
結婚式から二ヵ月ほど過ぎたある日、恵美は、北海道の両親の元へ、一通の短い手紙を送った。
内容はごく簡単。恵美が元気で、祐二と幸せに暮らしていること。事情があり居場所が連絡できないこと。両親には、体を大切にしてほしいということ。
祐二がごみからあさってきた紙に、拾った鉛筆で書いた短い手紙。封筒は手作りで、残飯をのりにして張り合わせた。切手代は、神社のさい銭箱の周りに落ちている小銭を地道に拾い集めて、やっと出せたものだった。
「ねえ、祐二、あやかしの蛇になってしまいました、とは書けないよね。信じてもらえるわけもないし」
「信じてほしいなら、ここへ呼んで姿を見せればいい」
「そんな……簡単に言わないでよね。こんなのありえない。あたしの本当の姿を見たら、あの人たち卒倒しちゃう」
「そうか。俺は別に特別なことだとは思わない。俺たち、そんなに変か?」
「別に、変じゃないけど……ちょっとは変かも」
祐二らしい答えに、恵美は苦笑した。
人の姿になり、手紙を無事に出し終えた恵美と祐二は、ひったくりで亡くなった女性の事件現場立ち寄り、野の花を供えて、手を合わせた。その場所には、被害者女性の遺族が建てた石のお地蔵様が建っている。二人はしばらくそこにたたずんでいたが、やがて、静かに立ち去った。
季節は夏を通り過ぎ、ひったくり現場付近の土手は、ススキが穂をたれ、セイタカアワダチソウの黄色い花が、乾燥した秋の風に揺すられて花粉を散らしていた。二人は手をつないであの古家の跡地の近くまでゆっくりと歩いて戻り、その奥にある深い森の中へ帰って行った。
◇◇◇
恵美と祐二が森に消えてから、長い月日が流れた。あの古家のあった辺りは、住宅造成の波にのまれ、すっかり風景が変わってしまった。あの古家跡地は、細かく分筆され、分譲住宅がいくつも建っている。古家の周りも同じように家だらけで、裏にあった森は消滅した。それでもすぐ近くの山に入ると、そこはまだ緑が残され、昔の面影をなんとか留めている。
古家跡地だけでなく、ひったくり事件の現場付近も、昔の面影はない。古くなり苔むしたお地蔵様だけが、草が刈り込まれて整備された土手の下にポツンと残され、移りゆく時代を見ていた。ひったくり殺人事件の犯人は挙がらず、事件は時効になり、世間からとっくに忘れ去られた。そこで何があり、どういういきさつでお地蔵様が建てられたのか、その近所でも知っている者はいなくなった。
時の流れに取り残されたお地蔵様に、野の花が大量に供えられていることがある。それは、年に一度で、夏のある日になると、必ず供えてある。花束を置いて行くのは、二人組の若い男女。徒歩でやって来て、束にした野の花を供えては、手を合わせていく。
それがあの二人だと知っている人間は、月日と共に消え去り、もう誰も生きてはいない。
了
あとがき〜〜〜
このような素人の文章をおしまいまで読んでいただき、本当にありがとうございました。そして、この作品を発表する場を与えてくださった「小説家になろう」サイトの関係者様にも感謝でいっぱいです。また次作に向けて頑張りたいと思います。
二〇〇八年六月 菜宮 雪
※この話のふざけた番外編「恵美と祐二の涙の金稼ぎ」(コメディー、完結済み)への入口を下に設けましたので、よろしければ、覗いてくださいませ。