音哉⑪
ドラム缶は丁寧に蓋をしてあった。
中を覗かれないようにと。
ライブ前にその日だけの演出が漏れるのは勘弁だと音哉は言っていた。
ドラム缶をひっくり返した警備ですら、驚いた表情をしていた。
慌てて立てようとする者も見えたが、重さと次々溢れ出る液体のせいでうまく出来ず、かえってドラム缶を転がしていた。
血管が突然破れたみたいに、ガソリンは流れ続けていた。会場に。
客はいまだ固まったままだった。
足元を濡らす液体に気付くもの、後ろや中央にいて状況がまだつかめない者もいるだろう。
柵を揺する者がいた。びくともしなかった。
柵と柵は細身の女が通り抜けできるかできないかくらいの隙間しかない。
開かない、鍵がない、本当に鍵がかかっている、スタッフが鍵を持っていない、そんな声が聞こえた気がした。
「音哉」
シノブもまた、この光景を黙って見つめてしまっていた。
きっとただの、たちの悪い演出で。
例えば、おかしな臭いのする水だとか。
「おい、音哉」
音哉は燭台を手にしていた。
誰のことも見てはいなかった。
「音哉、」
シノブはケイの方を見る。
目は見開いていたし、なにが起こるのかを想像できているようでそれを必死に否定しようとしているようだった。
どこか一点を見つめ、手は薬中のように震えていた。
「音哉!!」
シノブは音哉に掴みかかり押し倒したが、音哉の手から火のついた燭台が客側に放り投げられる方が早かった。
シノブは、客が閉じ込められた柵の中に炎が物凄い勢いで走っていくのを見た。
為すすべはなかった。
時間にすればほんの数秒。
人が燃えた。
逃げ惑う人炎に巻かれた人倒れる人叫ぶ人踏みつける人踏まれる人柵に体当たりする人。
視界にはさっきとはまるで違う光景がぞくぞくと流れ込んできた。
死の光景が。
煙が上がり火はどんどん大きくなり異臭が立ち込めた。
立て続けに爆発音がした。
ドラム缶に引火したのか、それとも音哉が会場のあちこちに置いたガラクタが熱ではじけたのか。
悲鳴がする。至る所から。まるであらゆる場所から発火でもしているかのような。
だがシノブにはどこで何が爆発したかなんてどうでも良かった。
なぜなら、人が、目の前で燃えている。
その原因を作ったのが、すぐ隣に。
「は、ははは、はは」
音哉の小さな笑い声が聞こえた瞬間、その方向に。シノブはギターを振りかざした。丁度バットでボールを打つみたいに。フルスイング。
肉を叩きつけたのがはっきりわかった。
音哉はステージから落ちた。




