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6.王様と魔界一の魔女


 毒花柄の小瓶を振る。みっちり詰まっていた時は音がしなかったのに、今ではからんからんと虚しく響き、がっくりと項垂れた。

「うぅ……薬が…………」

 つい先日購入したばかりの薬が、既に心許ない。

 度重なる襲撃で、私のお腹は常に暴風域に曝されていた。当然薬の量も目減りしていく。

 小瓶を握り締めて嘆く私に、流石に悪いと思っているのか、王様は尻尾をへろりと下げていた。最後の襲撃者、蜥蜴女に顔を舐められたのが止めだったらしい。無表情で茸を食らい、生やした尻尾で癒されていた王様を、今は責める気が起きなかった。

 最後までしつこく追ってきていた角が生えた魔族は、王様が擦り付けた食人樹に追われてどこかに消えたので、今は大木の下にぽっかり開いた洞に身を潜めて休憩中だ。というか、王様、人が蜥蜴女から助けてあげている間に逃げたくせに、食人樹に追いかけられて帰ってくるとか何の喜劇だろう。王様、芸人の素質ありますよ。


 私と王様はぐったりと洞に背中と後頭部を預ける。

 王様の弟の太っ腹求人に食いついた魔族は多かった。……いや、ただでさえ娯楽の少ない魔界。どちらかというとお祭り騒ぎに近い。ただ騒ぎたいだけの層が面白がっている節もある。ただ、そういう面子は私を見ると「壊れ糸のメリア!?」と悲鳴を上げて逃げていく。失礼千万である。

 しかし、それよりも大事なことがあった。薬だ。

「どうしよう……」

「精気でいかないか? お前の腹を壊させて、その度にお前が苦しんでいるのを見るのは流石に気が重いし、申し訳なくてならない」

 神妙な顔でそう言う王様を、じとっと見やる。

「噛まれるのが嫌なら正直にそう言ってください」

「噛まれるのが凄く嫌だ」

 正直すぎると思う。




 ちょっと考えた私は、最初から考えていた結論に達した。戻ったともいう。

「…………よし、魔女の家に行こう」

「俺の皮は誰にもやらんぞ!」

 青褪めた顔で尻尾を握り締めた王様に、慌てて訂正する。暗闇岩の魔女の所になんか行きませんよ。そんなところ行ったら、私の皮だって剥がれるじゃないですか!

「この薬を作ってくれた魔女の家に行くんですよ!」

 心底ほっとした顔で、王様は尻尾から手を放す。まだちょっと脅えているみたいで尻尾は下を向いているけれど、一応誤解は解けたようで何よりだ。


 私は鞄から一枚の紙を取り出した。それを鳥の形に折る。

「何をしているんだ?」

「まあ、見ててください」

「…………黙って見ていて死の危険はないな?」

 すっかり疑り深くなっている王様に、ちょっとだけ憐れみが浮かぶ。あまりにちょっとなのですぐに霧散したけど。

 完成した紙の鳥に、ふぅっと息を吹きかける。すると鳥は、私の掌の上でぴょこりと立ち上がり、ぱたぱたと羽ばたく。驚いた王様の前でくるくる回り、恐る恐る差し出された指にちょこんと止まると、かさりと小首を傾げて可愛らしく鳴いた。

「ぐぎゃあ!」

 王様は、もう嫌だこの世界と泣いた。なんで?

「鳥さん、魔界一の魔女に、メリアが会いたがっていると伝えて」

 鳥はくるくると旋回して、更にくるくるくるくるくるくる回り続ける。そうしてこっちの目が回った時、そこに鳥の姿はなかった。


 愛らしい紙の小鳥がいなくなってしまったら、後には特に癒しのない面子しか残っていない。かろうじて癒されるのは王様の尻尾だけだ。ふさふさと揺れる尻尾を見物する。

「で、どうなるんだ?」

「魔界一の魔女が迎えてくれるまで待ちます」

 王様の目が胡乱気になった、

「……迎えてくれなかったらどうなるんだ?」

「長い付き合いなので大丈夫ですよ。でも、つい先日お茶したし、こんなに頻繁に訪れるの久しぶりかもしれません」

「本当に仲がいいのか!? 皮剥がれたりしないだろうな!?」

「嫌だなぁ、王様。彼女がその気になったら、行かなくても剥がれますよ」

 その場合はどこにいたって無意味だから気にしなくていいですよと伝えたのに、王様はやけに感情を殺ぎ落とした顔で茸をもう一個食べた。二本の尻尾がふわふわ揺れる。触ろうとしたらこれは俺の尻尾だと怒られた。まったく、ケチな男である。

「王様って、どケチですよねぇ」

「そんな評価を受けたのは生まれて初めて、だ………………ここはどこだ」

 しみじみと言った私をぎろりと睨み返してきた王様の顔色が、一瞬で優れない色へと変化した。

 さっきまで洞の中で影を落としていた顔が、今は下から反射した光で輝いている。私達の足元は紫色の湖だった。水の上にぽつりと立っている足元から、振動で波紋が広がっていく。硝子のようではあったが、そこは確かに水だった。何故なら、私達の足下をゆらりと巨大な魚が通り過ぎていくのだ。全長は王様の二十倍ほどあるだろうか。土気色の顔で言葉もなく立ち竦む王様の足元を、興味なさそうにゆったりと泳いでいく。

「…………メ、リア」

「はいはい、なんでしょう」

「…………助けろ」

「大丈夫ですよ。この湖の主の主食は、底の土ですから。おかげでどんどん深くなっちゃって」

 無表情で細かに揺れている王様が動かないので、仕方なく手を引いて歩き出す。波紋は広がるものの、水の中に沈んだりしない。足元ばかりを見ていた王様に先を示す。

「ほら、あれが魔界一の魔女の家ですよ」

 湖の真ん中にぽかりと浮かぶ小島。そこに、苔と蔦に覆われた小屋があった。先日遊びに来たばかりの家だ。開いた扉の枠に凭れ、黒いローブを地面にまで垂らした魔界一の魔女が腕組みして待っている。何故か頬にガーゼを張っていた。怪我をしたのだろうか。

「魔界一の魔女! 先日ぶり!」

 魔界一の腕を持つ魔界一の魔女は、いつものように長い裾から長い爪だけを覗かせ、手を振ってくれた。

「先日ぶりだね、メリア。それにしても……それが噂の国王かい。あんたの噂は轟いているよ。さあ、入りな」

 小島の上に乗ると、ふかりとした苔の絨毯に出迎えられる。このまま寝ころんでしまいたいほどふんわりと柔らかくて、とっても素敵だ。緑の絨毯を踏めば、王様の気持ちも少しは落ち着くだろうと思ったのに、この男は「黴がこんな感じだよな……」と情緒の欠片もない事を言ったので、湖に突き飛ばしてやった。沈みはしないものの、無様にもがいて慌てて島にしがみついたので溜飲は下がった。人の友人宅を黴扱いした罰である。




 家の中は相変わらず雑多な小物で溢れ返っていた。相変わらずも何も、王様を拾った日もお邪魔していたので当然と言えば当然だ。小瓶の中でぐるぐる回る光り蟲は私のお気に入りで、今日も爪先でこつんと瓶を叩けば、寄ってくると同時に閃光を放ってきて目が焼けた。可愛い。威嚇で目を焼かれても可愛い。

 目をしばしばさせながら、いつもの椅子に座ろうとしたら硬かった。また本を積み上げているのだろうかと思いきや、振り向いたら王様がいた。

「…………王様、座り心地悪いですね」

「…………いまなら謝罪を受け付けてやる」

「ごめんなさい、王様。どんなに言い繕おうにも座り心地悪いです」

 ちゃんと謝ったのに、王様は足をがばりと開いて私を落とした。更に、床に直撃して悶え苦しむ私を足で遠くへ寄せる。なんて酷い男だ。この男こそ悪魔の名がふさわしい。

 恨みがましく見上げれば、ふふんっと鼻で笑って見下ろしてきたのでむかっときた。怒りを籠めてその片足を陣取ってやる。馬に乗るように跨れば、足を開かれても落ちはしないし、そもそも既に足は開かれている。両足を王様のふくらはぎ辺りに絡めて全体重かけてやった。王様なんて足が痺れてしまえばいいのである。

 どうだと振り返れば、この上なく不機嫌な顔で脇腹突っついてきた。あ、ちょ、やめて。


「…………メリア」

 呼ばれたから顔を前に向けると、魔界一の魔女が呆然と立っていた。お茶の用意をして来てくれたのか、お盆には赤色の湯気を立てるコップが三つ並べられている。

「噂を聞いたときはまさかと思ったが…………メリア、これを持て。あたしは少し用意がある」

「ありがとう、魔界一の魔女。お茶菓子も食べていい?」

「お前に出すために持ってきたんだよ。いくらでも食べるがいいさ。それと……あー、えーと、人間の国王よ。お前さんも好きに飲み食いしていろ。一応元人間のあたしが出しているんだ。そうそう口に合わない物でもあるまいよ」

 そう言い置いて、魔界一の魔女は長いローブを引きずりながら奥へと消えていった。何の用意だろうと首を傾げたけれど、すぐに美味しそうなお茶とお菓子に意識が奪われる。王様の手にお盆を持たせて、紫色のクッキーを口に放り込む。絶品。

 もぐもぐとクッキーを食べていると、王様が妙な顔をしているのに気付く。なんですか? 片手が空いているんだから食べたかったら自分で食べてください。

「…………魔界では、相手の名前を呼ばないのが流儀なのか?」

 また妙な事を言い出した。

 魔界一の魔女特性茶葉で淹れられたお茶を味わって、ごくりと飲みこんで口の中を空にする。

「何でですか?」

「お前、友人だと言うわりには名前を呼ばなかっただろう……いや、待て、相手は呼んでいたな」

「何言ってるんですか。ちゃんと呼んでるじゃないですか。魔界一の魔女って」

 きょとんと言ったら、王様はまた変な顔をして私を見た。王様の瞳に移っている私も同じ顔で見返している。

「それは、名前じゃないだろう」

 王様は変な顔で変な事を言った。

「……お前、ちょっと俺の名前を呼んでみろ。手配書に載っていただろ」

「そんなもの興味ないから覚えてませんよ」

「ラーゼンだ」

「王様」

 面倒だけど、王様が変な雰囲気だから余計に面倒なことにならないようちゃんと呼んであげた。なのに、王様はぐっと眉間に皺を寄せる。

「それは役職名だろう。俺の名前はラーゼンだ」

「王様」

「メリア、俺はラーゼンだ」

「もう、なんなんですか! 王様のこと、ちゃんと王様ってさっきから呼んでるじゃないですか! 王様の名前、ちゃんと王様って呼んでるのに、しつこいですよ!」

 あまりにしつこくて、王様の膝から飛び降りる。何度名前を呼ばせれば気が済むのだろう。魔界じゃ誰も呼んでくれないから寂しくなっちゃったのだろうか、でも、私に呼ばれても寂しさは紛れないと思う。



「無駄だよ、トルニスの国王。その娘は名前を呼べないし、呼べないことも分からない」

 魔界一の魔女は、頭に蜘蛛の巣をつけて奥から戻ってきた。その手には菱形の水晶がある。

「どういうことだ」

「それを聞く気があるなら尚更いいね。おいで、二人とも。ちょっとお前達を占ってみよう。お前の運命の相手だといいね、メリア」

 奇妙なことを言う魔界一の魔女の頭についた蜘蛛の巣を取ってやりながら、私はぶるりと身を震わせた。

「王様が運命の相手だなんて、考えただけでもぞっとする」

「お前に新しい出会いがあった時点で、既に運命だよ。さあ、そこに座りな」

 魔女は、積み重なった本の山を乱雑に床に落とした。その下から現れた長椅子に王様と並んで座る。王様が説明を求める視線を向けてくるけど、説明なら私が求めたい。

 私に聞いても埒が明かないと悟ったらしく、王様は直接魔界一の魔女に聞いた。

「待て、何が何だか分からないが、まずは危険がないと証明してくれ」

「あたしはメリアに害は及ぼさないよ」

「それが俺に危険がないという証明にはならん」

「あんたがメリアの運命の相手なら、あたしは全力であんたを助けてやるよ。メリアは、あたしの恩人であり、友達だからね」

 魔界一の魔女は両手で掲げ持った菱形の水晶から、ゆっくりと手を放す。水晶はそのまま宙に留まり、柔らかい光を放つ。ふわりふわりと浮かび光を放っていた水晶は、魔界一の魔女が何かを呟きながら指を触れた瞬間、突如鋭い光の線で私達を貫いた。

 隣に座る王様の身体が強張ったのが分かる。私も驚いたけれど、魔界一の魔女が私に酷いことをするはずがないと思っているので、訳が分からなくても怖くはなかった。

「さあ、見ておいで」

 痛くも痒くも、そもそも感触すらない光に貫かれたまま、私達は身動ぎ一つせずにいる。

 次の瞬間、王様から凄まじい数の糸が噴き出した。体中から飛び出した色とりどりの糸はどこかへと伸び、その先は見えない。

「なんだ、これは!」

 動けるのが不思議な量の糸をわさぁとぶら下げて、王様が魔界一の魔女に掴みかかる。彼女の足元まである長い髪が少なく見えるくらい、王様の糸は長く多い。魔界一の魔女は、糸を掌でそっと掬って王様の前に掲げた。

「これは、お前と繋がる縁だ。お前を慕う者から憎む者まで、これだけの人間がお前と関わっている」

 太い物から今にも切れそうなほど細い物。王様が埋もれてしまいそうな糸の山。それらを呆然と見つめた王様は、ぽつりと。

「だから、俺は必ず生きて帰らねばならんのだ」

 そう言った。

 王様から伸びる糸には黒が混ざっていて、もしかしたらその人の髪の色なのかもしれない。でも、王様に繋がっていても王様の色が混ざっていない糸も多い。これは、王様自体は知らない一方的な縁なのだろうか。王様の色が混ざらない糸も、王様が混ざる糸も、凄まじい量だ。まるで糸の洪水である。

 王様が見えなくなるほどの糸が重くはないのだろうか。ぼんやりとした頭でそう思う。王様から繋がる沢山の糸の色に目が眩んでいる私を、魔界一の魔女が指さした。彼女から、一本の糸が見える。彼女の赤い髪と同じ、綺麗な糸。

「メリアを見てごらん」

 彼女の示した先を辿った王様は、何故か愕然とした顔をした。



「…………何故、こんなにも少ないんだ。しかも、今にも切れそうではないか」

 私から伸びた糸は、両手の指にも満たない。赤い綺麗な糸は、目の前の彼女と繋がっている。だけど、寄り合わせられた糸は解れ、所々本当の一本になっている危うさだ。その部分を、魔力で黒く染まった爪をした指が、優しい笑顔で結び直した。

「これが、呪いだ」

 頭の中がぼんやりと霞がかる。靄がかかったのか、水の中にいるのか。全ての音が、膜を通した遠い場所で聞こえる。

「……呪いだと?」

「そうだ、人間の王よ。メリアはな、人間に呪われたのだ」

「人間に?」

 魔界一の魔女は王様を椅子に座らせた。そして、私を覗き込み、おやと片眉を上げる。

「この話を始めたのに意識があるのかい。これは良い兆候だね。やはり、あんたはメリアの運命かもね。だって、見てごらん。二人の間に糸があるだろう?」

「これか?」

 王様が一本の糸を持ち上げる。切れかけた糸しか繋がっていない私の糸の中で、一際異質な太さをした黒と真珠色の糸。まるで王様と私の髪みたい。

「メリアに新しい糸が繋がるなんて、もう、三百年ぶりなんだよ。まして、メリア側から糸が繋がっているなんて、本当に、奇跡なんだ……」

 まどろむ私の頭を優しく優しく撫でた魔界一の魔女の声は、何故だかとても悲しかった。






「メリアは昔ね、地上に迷い込んだことがあったんだよ」

 柔らかい声が聞こえる。私の名前が聞こえるから、私の事を言っていると分かるのに、言葉がばらけていく。掴もうとすると、砂糖菓子の様にほどけていってしまって、彼女が何を言っているのか分からない。ああ、背中が、痛い。

「突如現れた地上への入り口に飲まれたんだ。この子は、まだほんの子どもだったよ。正真正銘、まだ成人にも満たぬ、十三の子どもだった。泣いて魔界への入り口を探すメリアを、一人の人間が見つけた。魔術師だった」

 王様は何も言わず、ただ話を聞いている。でも、分からない。何の話をしているの。

「魔術師は、メリアを甚く気に入った。そして、未来永劫自分のものにしようとした。メリアと関わる全ての者に悉く不幸が訪れるよう、メリアが愛した者には死が訪れるよう、魔術師はメリアに呪いをかけた。男はそれを祝福と呼んだけれど、何が祝福か。メリアの両親がメリアを見つけた時には、既に遅かった。魔族の核にさえ呪いが刻まれ、解呪できなかった。例え逃げ出しても、男以外の血が吸えなくなれば己の元に戻ってくるだろうと、吸血鬼の性さえ歪められていた。幸いだったのは、奴が夢魔の血に気が付かなかったことだが、メリアの性格上、誰彼かまわず精気を奪うのも無理な話だ。しかも、地上に出れば奴に見つかる。メリアはもうずっと、魔界で一人で生きているんだ」

「…………先日もメリアはここを訪れたと言ったな? その傷は、呪いか?」

 魔界一の魔女は王様の言葉に頷き、白いガーゼを張った頬を撫でた。

「ちょっとしくじったんだよ。今までうまくやっていたんだがね。男の呪いは直接的に死を齎すものじゃない。いうならば、極端に不運になるんだ。メリアが愛したものほど呪いは強力になる。ゾンビのやつはこの前最後の皮を剥がれたしね。もうあいつくらいだよ。今でもメリアに関わっている友人は。メリア自身も、他人へ興味を向けられない。さっき会った者さえ覚えられない。名前なんてその最たるものだ。しかも、自分でその違和感に気付けない。だから、あんたを連れているのは奇跡に近い」

「…………メリアの、両親は?」

「自分達が傷つくたびに、メリアが泣き叫んで壊れていくからと、傍に寄れなくなってしまった。今は、祖父母と共に地上で魔術師を探し続けている。かなり強力な奴でね。この三百年、尻尾を掴ませない」

「三百年も、人ならば生きてはいまいぞ」

「生きているさ。メリアが解放されていないからな…………見てみろ」

 何故だかさっきからずっと痛む背中に、魔界一の魔女の手が触れる。マントを外し、服を解いていく。魔界一の魔女と向かい合って抱きかかえられたまま、背中が剥き出しにされる。

 何やってるのかな。でも、魔界一の魔女、温かい。誰かの体温って、温かい。

「なん、だ、これはっ!」

 凄い声がした。王様、そんな声出せるんだ。

 どうしてだろう。酷くしんどい。ぐったりとした身体をゆっくりと起き上がらせて、マントで前を隠したまま振り向く。王様の後ろに長丸の大きな姿見がある。

 自慢の長い真珠色の髪から覗く背中には、赤黒く焼け爛れた紋様があった。背中一面に、焼き鏝で抉られたかのように直接描かれている。なんだろうと目を凝らすけれど、よく見ようとすればするほど視界が霞み、意識が散っていく。

「…………これが呪いだ。魔術師が死ねば、呪いは解ける。だが、見ての通り呪いは今も健在だ。健在すぎる。…………分かるか、人間の国王よ。吸血鬼であれ、夢魔であれ、他者と寄り添って生きる性を持つメリアが、三百年だぞ。三百年間、一人で彷徨い続けているんだ。誰の名も覚えられず、誰もの存在が霞のような中、その原因も思い出せず魔界を彷徨い続けている。その惨さが、お前に分かるかっ!」

 赤い炎が、視界を覆う。

 魔女の髪が不自然な風を纏い、めらめらと燃えている。彼女の怒りに呼応するかのように、ローブの裾からもちりちりと炎が立ち上り始めた。

「魔力があるからと地上で迫害され、魔界に逃げ込んだあたしを救ってくれたあの小さな娘を、人間が壊したんだ。人間なんて、嫌いだよ。あたしは、自分が元々人間であった事実さえ許せないほど、人間が憎いんだ!」

 炎は彼女のガーゼを一瞬で消し炭にする。その下から現れた深い傷からは未だ血が流れていた。痛そう。そう思った。

 思ったから、手を伸ばした。

「どうしたの? 何が、悲しいの? ねえ、魔界一の魔女――……」

 背中が痛い。喉がひりつく。言葉の続きが出てこない。でも、痛そう。ねえ、魔界一の魔女、どうしたの。何が悲しいの。ねえ、魔界一の魔女。

 脳みそを直接掻き混ぜられるみたいに何も考えられなくなっていく。

 力を失ってずるりと落ちた私の手を掴んだ魔界一の魔女は、ぎりりと唇を噛み締めた。

「…………呪いを受ける前のこの子はね、恥ずかしがり屋で、お父さんとお母さんの後ろから控えめにはにかんでいるような、大人しい子だったんだよ。怖がりで引っ込み思案で、でも、優しくてね。倒れている私を拾って寝ずに介抱してくれた、優しい子だったんだよ……」

「……随分な変わりようだな」

「嫌われて、脅えられて、恐れられて……傷ついて傷ついて傷ついて、泣いて泣いて泣いて、そうしてこの子は自分を作り替えたんだ。何にも気づかなければ傷つくこともないと、大雑把で疎くなった。だけど、【何故か】傍にいない家族に、自分はこんなにも元気だよと伝えられるよう、いつも笑顔で、元気よく。この子は、生きていくために、自分を作り替えたんだ」

 噛み締められた唇から一滴の血が落ちていく。その血が床に落ちたと同時に、魔女の炎が消え去る。炎を掻き消した魔女は、深く息を吐き、さっき解いた私の服を着せてくれた。

 そこにさっきの怒りとも悲しみともつかない激情はない。それに安堵して、口角が緩む。意味も分からず、何だか嬉しい。魔界一の魔女が悲しくないと、何で嬉しいのだろう。当たり前だ。だって私は魔界一の魔女と友達なんだもん。

 そんなことをぼんやりと思い浮かべた瞬間、魔界一の魔女の頬の傷が裂けた。頬から血を噴き出す魔界一の魔女を見上げ、私は曖昧な笑みを浮かべる。さっき、何を考えていたか、忘れちゃった。

 そう、忘れた。忘れたの。だから。だから、お願い。待って、忘れたから、だから。

 ふわりと微笑んだ私の瞳を、同じ笑顔を浮かべた魔女の手が覆う。

「…………ごめんよ、あたしが傷つかないよう、忘れてくれてるんだよね。本当に、ごめんよ、メリア。人間なんかが生きていて、本当にごめんね」

「どうして、謝るの? ふふ……変な、魔界一の魔女。あのね、私、薬を作ってほしいの。お腹の薬。その依頼を受けてほしくって…………仕事の、依頼を、受けて、頂きたく、て?」

「……ああ、いいよ。何でも作ってあげる。大事な友達の、お願いだからね」

「お願い……いいえ、違うの。違うの、魔界一の魔女。依頼を、私、貴女に、仕事の依頼、を」

 噎せ返るような甘い血の匂いが、視界を覆われた私を満たす。

 だけど、何故だろう。

 こんなにもいい匂いがするのに、酷く痛くて、にがくて、苦しくて堪らないのだ。




 ぼこぼこと、大鍋の中で不思議な色をした液体が煮詰まる音がする。魔界一の魔女は、木のスプーンで鍋を掻き回す。取り出した時は掌サイズなのに、魔界一の魔女の身長ほどもある鍋を底まで掻き回せる不思議なスプーンだ。

「…………傍にいると、不運が襲うと言ったな」

「ああ、そうだよ」

 魔界一の魔女と王様の話し声が聞こえる。私は、どうやら昼寝してしまっていたらしい。いつの間にか眠ってしまった。緩慢な動作で起き上がり、目を擦る。

「滅多に遭遇しないという影喰い二体に襲われたのはそれが原因か?」

 ぼこりと粘着質な水泡が底から湧き上がった。

「いや? あんたへ呪いの影響はほとんど出ていないよ。だってお前さんの血は少々特殊だからね」

「特殊?」

「王家の者は、魔術への耐性が溶け込んだ血をしている。それらは長年蓄積されてきたものだからね、あんたへ呪いはほとんど影響していない。あんたへ興味を向けられなかったり、あんたの名前を覚えられないのは、全部あの子への影響だからね。しかも、あの子の背の呪い、ほんの少しだが消えていた。だから、ただの不運だろうなぁ。あんたも、あまり幸運に魅入られた人生を送っていないようだしねぇ。これだけあの子があんたを認識しているんだ。まともに呪いが向かえば、あんたなんか眼球一つ残るまいよ」

 ぼこぼこと沸き立つ鍋の上に手を翳した魔界一の魔女は、小さく何かを唱えた。すると、液体は全てころころと固まっていき、見慣れた錠剤へと姿を変える。指先をくいっと動かして全てを浮かせた魔界一の魔女は、それを星形の模様がついた可愛らしい瓶に詰めてくれた。いつも瓶を変えてくれるから、楽しい。

「…………呪いが、消えていた?」

「ああ、そうさ。あんたの血かもしれないねぇ。何回か吸ったんだろう?」

「盛大に腹を壊しながらな」

「吐いていないならまだましさ。なんならごっそり精気を与えてやればいい。王族の血や魂ってやつは、魔界では、いつの時代も万能薬って呼ばれるくらいだからね」

 ひっひっひっと、魔女らしい笑い声を上げた魔界一の魔女に、王様が引くかと思いきや、意外と引かなかった。それどころか何かを考え込んでいる。

「…………俺は、何が何でも生きて帰らねばならない。だから、あくまで優先は俺の命だ」

「魔界じゃそれは当たり前だけどねぇ」

「だが、まあ、先は長いようだしな。せめて名前を呼ばれる努力くらい、してみるのも悪くはないな。旅は道連れ、世は情け。王たる者、下々の者に情け一つかけられないようでは務まらぬ」

 何の話をしているのか分からなくて、つまらない。

 私は思いっきり伸びをした。身体に乗っていた布がばさりと落ちて、思わず顔を顰める。王様のマントだ。やだ、絶対裏がある。マントは裏地にも凄い刺繍が施されていて、凄く綺麗とうっかり見入った。

 小さな瓶に、大鍋一杯に出来た薬がどんどん入ってく。

「そうこなくちゃね。じゃあ、そんなあんたに一つ助言を上げよう。あの子はあんたの都合に頭を巡らせられない。だから、あんたが考えて、あんたが聞かなければならないよ。あんたが知らない事でも、あんたが気づいて聞かなければあの子は答えられない。例えば、地上のあんたの仲間に連絡を送ることとかね」

「出来るのか!?」

「出来るさ。ただし、あの子に聞きな。力を発揮できずとも、一人で三百年間生きてきたあの子の知恵と知識に頼るんだ」

 いつの間にか随分仲良くなったらしい二人に、てこてこと近寄る。ちょっと頭がくらくらするのは、きっと王様の所為だ。血を吸い過ぎたんだろう。後、背中痒い。

 私は、魔界一の魔女の肩を叩こうとして、何故か凄くいけないことをしようとしている気分になったのでやめる。手持ち無沙汰になった掌に、苦笑した魔界一の魔女が小瓶を乗せてくれた。

「さあ、持ってお行き。たくさん入れておいたから、たくさん血を飲んで大丈夫だよ。何回も飲めば、その内慣れて、腹が痛くなくなるかもしれないからね」

「王様の血に慣れるなんてうんざりよ」

「ひっひっひっ、そうかい。じゃあ、精気にするかい?」

「嫌よ、おぞましい!」

 背中から全身に走った怖気と鳥肌に、王様の額に青筋が走った。

「……貴様」

 蹴りでも来るかと身構えたけれど、王様はふっと身体の力を抜いた。そして、ばさりとマントを翻す。

「その魔女はこれから来客があるそうだから、そうそうに退散する。行くぞ」

 さっさと扉に向かう王様に、慌てて魔界一の魔女を振り返る。

「そうなの?」

「悪いね」

「ううん、こっちこそ突然ごめんね。お代はおいくら?」

 財布を開きながら問うと、魔界一の魔女はゆるりと首を振った。二十代後半の外見をしたとても美しい彼女は、背の高い身体で私をぎゅっと抱きしめる。濃くなった血の香りに首を傾げたけれど、魔界一の魔女は優しく微笑むだけだった。

「お代なら、もうずいぶん昔に纏めてもらってるよ。さあ、おいき。気をつけてね。あたしも一緒に行ってやりたいといつも思っていたけれど、やっとあんたに運命が廻った。大丈夫だよ。大丈夫。きっと、大丈夫だから、行っておいで。そうして、必ずまたおいで。いつでもおいで。あたしはついてはいけないけれど、ここでいつまでだって待っているからね」

「やだなぁ、魔界一の魔女。そんなに心配しなくても、私は元気よ!」

 ぽんっと背中を押されて、扉の前で待っている王様の元に駈け出す。さあ、また頑張ろう。いつもは当てもなく彷徨っていたけれど、今は宝石を貰うために目的地がある。今まで絶対に近寄らなかった地上の入り口が最終目的地だ。

「ありがとう、魔界一の魔女! また来るね!」

「ああ、いつでもおいで」

 優しく微笑んでくれる大好きなお姉さん。昔から、ずぅっと昔から、変わらぬお姉さん。

 ずぅっと昔っていつ?

 ぱっと霧散した笑顔に手を振り、扉に手をかける。

 そして、無表情で飛びのく。後ろに回った私を、王様の怪訝な視線が追い掛ける。

「あ」

 魔界一の魔女の呑気な声が響く。

 きぃっと軋んで開いた扉の先に、髪の毛全てが蛇になっている女が穏やかな笑顔で微笑んでいた。

「あら、ごめんあそばせ」

 避けきれなかった私の髪先は石になった。

 王様は全部石になった。



 女が絞り出してくれた涙で石化が治った後も、王様はしばらく口をきいてくれなかった。そんな怒らなくてもいいじゃないかと思ったけれど、よく見たら舌だけ石化したままだったので、静かだしいいやと放置したら治った途端、普段の三倍はねちねち怒られた。

 まったく、うるさい男である。







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