第23話 闇の支配者
学院長の身体が大きく震えだした。
「グッ……、ガァァァァァァァッ!」
喉の奥から、人間のものとは思えない咆哮が響き渡る。学院長の身体が膨張していく。服が内側から引き裂かれ、盛り上がった筋肉が露出する。腕が太くなり、指先から鋭い爪が伸びる。皮膚は徐々に黒く染まり、顔の輪郭まで崩れていった。
ゴキッ。
骨が折れる音。普通なら悲鳴を上げるような変化を、学院長は苦痛に顔を歪めながらも受け入れていた。
「グァ……、グガァ……!」
肩が大きく盛り上がる。背中から黒い血管のようなものが浮かび上がり、首が太くなる。
そこに立っていたのは、もう人間ではなかった。
俺がこれまで何度も戦ってきたグール。ただし、今までの個体とは明らかに違う。
学院を襲った巨大グールほどの大きさではない。それでも、あれとは比較にならないほどの強さであることは分かった。何より、身体から放たれている魔力が濃い。
「……少しは楽しませてくれよ」
学院長グールが俺を睨みつける。赤く濁った目。そこには、まだ人間だった頃の意識が残っているようにも見えた。
「グォオオオオオオオオッ!」
「ミスターXさん!」
イヴ先生の声が響いた。
学院長グールが腕を振り上げた。
狙いは俺ではない。イヴ先生だった。
「……!」
巨大な腕が、真っ直ぐにイヴ先生へ振り下ろされる。俺は地面を蹴った。一瞬で距離を詰め、イヴ先生の身体を抱える。
次の瞬間。
ドゴォォォォォン!
さっきまでイヴ先生が立っていた場所が、跡形もなく吹き飛んだ。床が砕け、石片が周囲へ飛び散る。俺はイヴ先生を抱えたまま、そのまま数メートル離れた場所へ着地した。
「……大丈夫か?」
「はい」
イヴ先生は俺の腕の中で、落ち着いた声を返した。それどころか、なぜか嬉しそうに微笑んでいる。
「ありがとうございます」
「……笑っている場合じゃないぞ」
「いえ」
イヴ先生は俺の顔を見上げる。
「あなたに守っていただけたので」
「……そうか」
「はい」
今の攻撃を見れば、通常はもう少し怖がるものだと思う。この人、本当に大丈夫なのか?
俺はイヴ先生をゆっくりと床へ下ろした。一応シールドも張っておく。
「ここにいろ」
「分かりました」
イヴ先生は素直に頷いた。
「あなたの邪魔はしません」
俺は振り返る。学院長グールが、こちらを睨んでいる。その巨大な腕が、再び持ち上がった。
「グォォォォォォォッ!」
ドンッ!
巨体が床を蹴った。凄まじい速度だった。巨体からは想像できないほど速い。
学院長グールが拳を振り抜く。そして当たる。だがそれは俺の分身だ。
「どうした?」
俺は学院長グールへ声をかける。
「それで終わりか?」
「グガァァァァァッ!」
学院長が怒り狂ったように咆哮する。魔力が膨れ上がった。学院長グールの身体に黒い魔力が集まっていく。腕がさらに巨大化する。
爪の先に魔力が集中し、黒い刃のようなものが形成された。
「グルァァァァァァッ!」
振り下ろされる。俺は横へ飛んだ。床が斬り裂かれた。深い亀裂が走る。
「へえ」
学院長が再びこちらを向いた。
「グ……ォッ、ググ……」
その目には憎悪が宿っている。
「貴様……!」
掠れた声。人間だった頃の学院長の声だった。
「貴様のせいで……!」
学院長が叫ぶ。
「貴様が邪魔をしたから!」
学院長が突っ込んでくる。
拳が迫る。俺はそれを片手で受け止めた。
「……な」
学院長の動きが止まる。俺は学院長の拳を掴んだまま、首を傾げた。
「どうした?」
「な……!」
学院長が腕を引こうとする。だが、動かない。俺の手から抜けない。
「馬鹿な……!」
学院長の身体から、さらに魔力が噴き出す。
「グオオオオオオオオッ!」
両足で床を踏みしめ、全身の力を込める。それでも動かない。
「……もう後悔はないか?」
「ぐ……!」
「じゃあ、こっちの番だな」
俺は学院長の腕を軽く引いた。
「う、うおおおおおおっ!」
学院長の巨体が宙へ浮いた。
「な――」
そのまま振り回す。壁へ何度も叩きつける。
ドゴン! ドゴォン!
反対側へ投げる。
ズドォン!
床へ叩き落とす。ピンポン玉のように跳ね返る。そう言った動作を繰り返し、学院長の身体が地下施設を跳ね回る。
「グォ……、ガハッ……!」
学院長はふらつきながら立ち上がる。身体が再生していく。潰れた腕が元に戻る。裂けた皮膚が塞がる。
学院長が笑った。
「何度でも再生する……! 貴様には私を殺せない!」
「なら、再生できなくなるまで殴ればいい」
「……!」
学院長の顔が引きつった。俺は拳を握る。
「試してみるか」
次の瞬間。
ドンッ!
学院長の腹へ拳が入る。
「グハァッ!」
巨体が浮き上がる。さらに一発。
ドゴッ!
さらに一発。
ドゴォッ!
学院長の身体が吹き飛ぶ。再生する。殴る。再生する。殴る。それを繰り返す。
「グッ……!」
「まだか?」
拳を叩き込む。
「グアッ!」
「まだ立てるな」
蹴り飛ばす。
「ガァッ!」
「まだ動ける」
再び殴る。
「やめ……!」
学院長が初めて怯えた。
「待て……!」
学院長の身体が崩れ始めていた。さっきまでの再生が追いつかなくなっている。身体を構成していた魔力そのものが限界を迎えているらしい。学院長の表情が歪む。
「これで終わりにする」
「待――」
拳を握る。次の瞬間、俺の拳が学院長の胸を貫いた。学院長の身体が止まる。胸から広がった亀裂が、全身へ走っていく。
「なぜ……、私が……」
「知らん」
俺は淡々と答える。
「お前が弱かった。それだけだ」
「…………」
学院長の身体が崩れ落ちる。黒い身体が床へ崩れ、巨大な腕も、異形の顔も、少しずつ灰のようなものへ変わっていく。
最後に残った顔が、俺を見上げた。
「アポクリファは……、お前を……必ず殺す……」
学院長は血を吐きながら笑った。
「あの方からは……、逃げられない……」
学院長は最後まで、何かを勘違いしたような表情を浮かべていた。静寂が戻ってくる。
「ミスターXさん」
後ろから声がした。振り返ると、イヴ先生がこちらへ歩いてくる。
「お疲れさまでした」
「……ああ」
これで学院を襲ったグールの騒動は終わった。だがそんなことはどうでもいい。俺が目指していた闇の支配者。そんな存在がこの世界には本当に存在しているらしい。ただの妄想ではない。
実在する。
闇の教団アポクリファという巨大な組織を従え、世界の裏側から人々を操っているという。
「……面白くなってきた」
俺はハットのつばを下げた。俺の夢と同じ名前を持つ存在。
「……待っていろ、闇の支配者。いつか必ず、お前を殺す」
そして俺が闇の支配者となる。
翌日、俺はエリオット・クラークとして学院に登校した。
「…………」
アガサとジェニー。二人には何と言えばいい?
俺は二人に何と言って別れたのか。そう「……トイレに行ってくる」だった。
アガサとジェニーが並んで立っている。二人とも俺の姿を見た瞬間、こちらを振り向いた。
「エリオット!」
ジェニーが駆け寄ってくる。
「どこに行ってたんですか!」
「……トイレ」
「どれだけ長いんですか! 心配したんですよ!」
「……ちょっと長引いた」
「ちょっとじゃありません!」
いきなり怒られた。
「……悪かった」
「本当に心配したんですからね!」
ジェニーは頬を膨らませている。俺は素直に謝った。隣にいたアガサも、腕を組んで俺を見ている。
「エリオット」
「……はい」
「私たちがどれだけ心配したと思っているの?」
「本当にごめん」
「……もういい」
アガサは小さく息を吐いた。
「無事だったなら」
ジェニーも続ける。
「怒ってますけど……、本当に無事でよかったです」
アガサが俺をじっと見ていた。
「それで、本当は何してたの?」
「……男には、誰にも言えない戦いがある」
アガサは呆れたように息を吐いた。俺は二人の隣を歩く。何事もなかったかのように。俺が世界の裏側に存在する巨大な組織を敵に回したことも。闇の支配者に宣戦布告したことも。二人はまだ知らない。
こうして、俺の日常は何事もなかったかのように続いていく。




