第1話「……俺に近づくな。死にたくなければな」
俺には、前世の記憶がある。といっても、特別な人生を送っていたわけじゃない。学院へ行き、授業を受けて、家に帰る。大きな夢もなければ、当たり前のように世界を変えるような力もなかった。
朝になれば起きる。
眠い目をこすりながら学院へ行く。
授業中は時計とにらめっこをしながら時間が過ぎるのを待つ。
放課後に友達と少し話して帰る。
家に帰れば飯を食い、風呂に入って、動画を見ながら眠る。
俺こと田中優斗は、そんな毎日をただ惰性で過ごしていた。
どこにでもいる、普通の16歳の人生だった。
だからこそ、ずっと憧れていた。無情で、非情で、何事にも動じない男。誰かに媚びることもなく、群れることもない。危険が迫っても顔色1つ変えず、敵を前にしても薄く笑う。
そんな、ハードボイルドな男に。
前世の俺は、そういうキャラクターが大好きだった。
黒い服を着て、夜の街を歩く。誰かに話しかけられても、必要なことしか答えない。強敵を前にしても余裕の笑みを浮かべる。もちろん圧倒し、そして最後に意味深な一言だけを残して立ち去る。
最高だ。
子供のころから、そんな男になりたかった。今思えば、かなり痛い憧れだったと思う。けれど、転生した俺には決意があった。
今世こそ、俺はそうなる。
幸い、この世界には魔法がある。魔物もいる。剣を持った冒険者もいる。前世とは違う。ここには、俺が憧れていた世界がある。
つまりハードボイルドを気取るには、最高の舞台だった。
そして、エリオット・クラークとして転生してから数年。厳しいトレーニングを積み、俺はついに、それらしい力を手に入れた。
毎朝、日が昇る前から走った。
魔力を限界まで使い、倒れるまで魔法の練習をした。
剣を振り、体を鍛え、魔物とも戦った。
もちろん、楽ではなかった。何度も吐いた。何度も倒れた。それでも続けた。
すべては、ハードボイルドのため。
強い魔力。高い身体能力。ずば抜けた戦闘力。正直言って、冒険者になればS級にだって簡単になれるだろう。だがとにかく俺は、そんなものに興味はない。
冒険者になって有名になりたいわけじゃない。
金持ちになりたいわけでもない。
女の子にモテたいわけでもない。
俺が目指すのはただひとつ、闇の支配者だ。誰もが恐怖する、闇の支配者である。
俺は6畳一間のアパートの鏡の前に立った。
狭い部屋だ。ベッドとテーブル。小さな冷蔵庫。そして、その部屋のほとんどを占領するように置かれた姿見。俺は、その前に立っていた。
完璧な変装スキルによって、本来の姿とは全く別の俺が映っている。黒い服。無造作に伸ばした髪。感情のない目。
完璧だ。転生前から死ぬほど練習してきた。今夜、完全にその雰囲気までマスターできた。
鏡の中の俺が、こっちを見ている。目を細める。顎を少し引く。口元は動かさない。
「……ふふっ」
小さく笑ってみる。違う。笑いすぎた。もう一度。
「……フッ」
今度はいい。何を考えているのか分からない。まさに孤高。俺は満足げにうなずいた。今日から俺は、世界から恐れられる存在になる。
誰にも理解されない孤高の男。闇の中で暗躍する、恐怖の支配者。そういうキャラだ。いや、そういう人間そのものだ。
その記念すべき最初の日。
来い、誰でもいいから絡んで来い。
俺は酔っ払いの冒険者が溜まる酒場で酒を飲んでいた。いや、正確には飲んでいない。転生して酒を飲んだ俺は、自分が下戸であると理解した。一滴も飲めない。だから酒瓶には水を入れている。ちなみにこの異世界でも、現在俺は16歳である。
最初に酒を飲んだ時は大変だった。
一口飲んだだけで顔が真っ赤になった。頭はぐらぐらするし、気持ち悪いし、まともに立っていられない。
そこで俺は気づいた。酒に弱いなら、魔法でアルコールを分解すればいい。つまり俺が飲んでいるのは事実上、ただの水である。誰も俺の酒瓶の中身なんて気にしない。無論、酒を気だるそうに飲む練習は積んできた。完璧なはずだ。どこからどう見ても、物憂げなハードボイルド。
俺、カッコいい。
グラスを持つ指にも力を入れすぎない。一口飲む。そして、遠くを見る。これも練習した。何を見ているのか自分でも分からないくらい遠くを見るのがコツだ。
俺は店内を見回した。
酔っ払いが騒いでいる。店員が料理を運んでいる。酒のにおいと、焼いた肉のにおいが混ざっている。
いい。最高の舞台だ。
俺はもう一度、裂けと言う名の水を飲んだ。その時だった。酔っ払いがぶつかってきた。
「おい、お前! 邪魔だろうがよ!」
来た来た来た。
俺は顔を上げた。3人組の男が立っている。見るからに柄が悪い。酒で赤くなった顔。乱れた服。腰には武器まで下げている。
最高だぜ。こいつらなら、俺のデビュー戦の相手に申し分ない。
「聞こえてんのか?」
男が俺のいるテーブルを叩いた。周囲の客がこちらを見る。いいね。ギャラリーもいる。ここで圧倒的な力を見せつける。そして最後に、決めゼリフを言うぞ。
俺はグラスを置いた。
「……」
まずは無言。すぐには動かない。相手を見る。そして、ほんの少しだけ目を細める。
「なんだ、その目は」
男が顔をしかめる。俺は答えない。
「おい、聞いてんのか!」
男が腕を伸ばしてきた。その瞬間、俺は動いた。男の手首をつかむ。
「なっ――!?」
ひねる。男の体が大きく傾いた。そのまま床へ叩きつける。
「ぐあっ!」
残りの2人が驚いたあと、怒り心頭になって動く。遅い。俺からしてみれば、止まっているに等しいぜ。とりあえず片方の男の腹に拳を入れる。
「がっ……!」
体が浮いた。そのまま後ろへ倒れる。
最後の1人が剣に手をかける。俺はため息をついた。わざとだ。もちろん、わざとだ。だるそうに勝つのがハードボイルドなのである。
そして次の瞬間には、その男も床に転がっていた。周囲の奴らが目に見えないスピードで足払いをした。
わずか数秒。3人とも地面に転がっている。店内が静まり返った。俺は倒れた3人を見下ろした。今日は初日だ。手加減はした。店内で殺してしまってはハードボイルドどころではない。ハードボイルドは雑魚相手に無駄な殺しはしない。雑魚狩りはハードボイルドの対極にある。
大事なのは、相手を圧倒したあとに決めゼリフを言うことだ。
ここからだ。ここが一番大事だ。周囲の視線が集まっている。誰もが息を飲んでいる。この空気。この沈黙。俺はこのときを待っていた。
俺は倒れた男を見下ろした。そして、できるだけ低い声を作った。
「……俺に近づくな。死にたくなければな」
完璧だった。
言ってやった。これだ。俺が求めていたのは、これだった。背中にゾクゾクするものが走る。
今の俺、絶対にカッコいい。
俺は周囲を見なかった。見る必要なんてない。いや、見てはいけないのだ。見なくても分かる。誰もがこの俺に恐怖している。
そのまま倒れた男に背を向けて歩き出す。
後ろから、ざわざわと人の声が聞こえてくる。当然だ。あれだけ圧倒的な力を見せつけたんだ。
「すごい……」
「なんて強さだ」
「動きが見えなかったぞ」
「お前、名前きいて来いよ」
「嫌だよ。殴られたくないもん」
いいね。ゾクゾクする。そうだ、俺に恐怖しろ。名前すら聞くのを怖がる。それでいい。俺は顔に出さないようにしながら、心の中で拳を握った。心の中で『よっしゃあああああ!』と叫んでいた。
危なかった。もう少しで本当に叫びながらガッツポーズをするところだった。だが、そんなことをしてはいけない。ハードボイルドな男は、勝利を誇らない。無表情。冷たい目。少しだけ顎を引く。そして、何か重大なことを考えているような雰囲気。誰も俺に近づかない。誰も俺の正体を知らない。
あとは静かに、何事もなかったかのように立ち去る。それがハードボイルド。
「…………」
俺のハードボイルド人生は、最高のスタートを切った。
店の扉を開けた。
カラン、カラン。
夜の冷たい風が頬を撫でる。夜の街。背後には倒された悪党。そして、正体不明の謎の男。俺は満足しながら歩き出した。
今の俺は、間違いなくハードボイルドだった。このまま誰にも名前を知られることなく、夜の闇へ消えていく。
そう思ったとき。
「お客様、申し訳ありません」
「…………」
背後から声がした。俺は足を止めた。さっきの店の店員だった。まさか俺に話しかけてくるとは予想外だった。
いったい何の用があるというのか。さっきの戦いを見て、弟子入り志願じゃあるまいな。それとも、俺の正体を探ろうとしている?
……なるほど。
面白い。だが、ここで簡単に素性を明かすわけにはいかない。ハードボイルドなら、何と返すのがベストだ。俺はゆっくり振り返った。
店員を見る。目を細める。そして、低い声で。
「俺と関わるな。怪我するぞ」
これでどうだ。完璧な脅し文句。相手はきっと怯える。一歩後ずさってそのまま店に帰るといい。俺はじっと店員の反応を待った。
「えっと……」
店員は困ったように笑った。
「お会計の方を……」
「…………」
「まだお支払いされていませんので……」
「…………」
俺は黙った。店員も黙った。夜風だけが、俺たちの間を吹き抜けていく。
なるほど。そういうことか。俺としたことが、ハードボイルドであることに脳内を全振りしたおかげで完全に忘れていた。俺は無言で財布を取り出した。料金を支払う。
「はい、ちょうどですね。ありがとうございました」
俺は夜道を歩く。
「……フッ」
俺は誰もいない夜道で、ほんの少しだけ笑った。
このときの俺は、まだ知らなかった。
翌朝。街中のテレビ(魔導具)が俺の顔を何度も映し出すなんて。画面いっぱいに『謎の男、指名手配犯3人を瞬殺』という大きな見出しが表示されるなんて。
俺のハードボイルド人生は、初日から想像を遥かに超える速度で狂い始めていた。




