第32話 変人美術少女、ついに“描かせて”を本気で言う
小鳥遊ましろに「今日は早く寝てください」と半ば生活指導みたいなことを言われた翌日、黒峰恒一は自分でも少しだけ体が軽いのを感じていた。
ちゃんと寝た。
ましろに言われた通り、無駄に夜更かしせず、スマホも早めに置いた。すると翌朝には頭の重さがだいぶ引いていて、昨日までの微妙なだるさもほとんど残っていない。
だからといって、気持ちのほうまで軽くなるわけではないのが今の星ヶ峰学園だった。
写真の噂はまだ完全には消えていない。
ことねの「最初に話が通じたのは私」という位置取りも、朱莉の「昔から近いんだから譲らない」という強さも、凛の「ちゃんとしてるお前のほうがいい」という妙にまっすぐな言葉も、しおんの写真の中の視線も、ましろの生活に入り込む近さも、ひよりの“変なものを一緒に食べられる相手”としての接近も、全部ちゃんと残っている。
何ひとつ片づいていない。
なのに日常だけは普通に進む。
それが一番厄介だった。
四時間目の終わり、次の授業は美術だった。
移動教室へ向かう廊下を歩きながら、恒一はなんとなく嫌な予感を覚えていた。理由はたぶん、美術室の近くには“あの人”がいるからだ。
鳴瀬いろは。
欠点フェチ。
整いすぎたものより、少し崩れたものに惹かれる変人美術少女。
人の“困ってる途中の顔”や“言い返せない時の目”に美しさを見出す、かなり危ない感性の持ち主。
そしてその危ない感性は、最近かなり露骨に自分へ向いている。
「……会わないで済むといいんだけど」
小さく呟いた、その数分後。
当然のように会った。
◇
美術室の前を通りかかったとき、半開きの扉の向こうから声がした。
「黒峰くん」
逃げ道がない。
足を止めて、そっと扉の中を見る。
鳴瀬いろはが、イーゼルの横に立ってこちらを見ていた。
今日も制服の上に薄いスモックを羽織っている。袖口には絵の具の跡が残り、長い髪は後ろでゆるくまとめられていた。綺麗、というより空気のほうが先に目立つタイプだ。整った顔立ちなのに、視線の置き方が少し独特で、見られていると“人として見られている”というより“形として見られている”感じがする。
「……やっぱりいた」
恒一がそう言うと、いろはは少しだけ笑った。
「いたよ」
「そうだろうな」
「来ると思った?」
「思った」
「えらい」
何がえらいのか分からない。
いろははスケッチブックを胸の前に抱えたまま、一歩だけこちらへ近づいた。
「少し時間ある?」
「授業前だけど」
「その“授業前だけど”って困り方、今ちょっといい」
「感想が最悪なんだよな」
いろはは悪びれずに言う。
「今日、顔が少しすっきりしてる」
「ましろに寝ろって言われたからな」
「へえ」
その短い相槌だけで、いろはがいくつか理解したのが分かる。
ああ、また“見られているもの”が増えたな、と恒一は内心で頭を抱えた。
「で、何」
これ以上長引かせたくなくて、恒一は先に聞いた。
いろはは数秒だけこちらを見つめる。
それから、思っていたよりずっとまっすぐに言った。
「描かせて」
単刀直入すぎる。
「……何を」
「黒峰くん」
「主語がでかい」
「顔」
「もっと絞れ」
「困ってる途中のやつ」
やっぱりそこか。
恒一は思わず額を押さえたくなる。
「前にも言ってたよな、それ」
「うん。でも今日はちゃんと頼みにきた」
いろはの目は本気だった。
冗談でも、思いつきでもない。
彼女なりにきちんと“お願い”として持ってきたのだろう。
「笑顔とか、横顔とか、普通の表情いらないの?」
「いらない」
即答。
「整ってるとすぐ終わるから」
「人の顔を風景画みたいに言うな」
「でもほんと」
いろははスケッチブックをめくり、中のラフを何枚か見せてきた。人物の顔がいくつも描かれている。けれど、どれも“きれいな顔”ではない。眉が片方だけ上がっていたり、目線がぶれていたり、口元が笑いきっていなかったりする。
「こういう途中が好き」
その“途中”という言い方に、妙な説得力があった。
「黒峰くん、ちゃんと崩れるから」
「それ前も聞いたな」
「うん。今日も思った」
褒められているのかどうか、相変わらず判断が難しい。
「……なんでそんなに“困ってる顔”がいいんだよ」
恒一が聞くと、いろはは少しだけ考えた。
ふざけている時の顔ではない。ちゃんと言葉を探す人の顔だ。
「完璧じゃないから」
「それは前も聞いた」
「じゃあ、もう少しちゃんと言う」
いろははイーゼルのそばの丸椅子へ軽く腰をかけた。
「整ってる顔って、見る側に優しいの。安心するし、きれいだし、分かりやすい」
「うん」
「でも、困ってる途中の顔とか、言い返せないときの目とか、我慢してる口元って、見る側にちょっとだけ不親切」
不親切。
その表現は初めてだった。
「どういう意味」
「答えがないから」
いろはは静かに言った。
「それが怒ってるのか、恥ずかしいのか、困ってるのか、飲み込んでるのか、見る側が考えないと分からない」
その理屈は、美術の話でもあり、人の話でもあった。
「私は、その“考えないと分からない顔”のほうが好き」
確かにそれはいろはらしい。
彼女はいつだって、見ればすぐ分かるものより、少しひっかかるもののほうへ惹かれている。
「黒峰くん、そういう顔多い」
「うれしくない評価だなあ」
「褒めてる」
「分かるけど、素直に受け取りづらいんだよ」
するといろはは少しだけ目を細めた。
「受け取りづらい顔も、今ちょっといい」
「もう何でもいいって言ってないか?」
「よくないものはよくないって言うよ」
たとえば? と聞き返しかけて、やめた。
そこを広げると余計に面倒な予感しかしない。
◇
「で」
恒一は話を戻す。
「具体的に、何をどう描きたいんだよ」
「短時間でいい」
いろはは指で空中に小さく四角を描くみたいに言う。
「十分とか十五分とか。そのくらいで、何枚かラフ」
「ラフ」
「うん。完成させる前のやつ」
「それなら、普通に座ってるだけでいいのか?」
そう聞くと、いろはは少しだけ首を振った。
「できれば、少し会話しながらがいい」
「なんで」
「反応見たいから」
やっぱりそうなる。
いろはは続ける。
「無言のモデルって、綺麗に固まりすぎる」
「嫌なんだな、固まるの」
「うん。黒峰くんは、崩れてるほうがいい」
「そこは一貫してるな」
「してるよ」
その返しがあまりにも迷いなくて、恒一は逆に少しだけ笑ってしまった。
すると、いろはが一瞬だけ目を止める。
「今の笑い方も好き」
「軽々しくそういうこと言うのやめてくれない?」
「軽くない」
それもまた本気らしい。
「じゃあ、もうちょっと重そうに言え」
「好き」
「だから直球すぎるんだよ!」
思わず声が少し大きくなった。
ちょうどそのタイミングで、美術室へ向かっていた何人かの女子が廊下で足を止めかける。最悪だ。
恒一はすぐに声量を落とした。
「お前、ほんとに場所選ばないな……」
いろははきょとんとする。
「今のは“描く対象として”って意味」
「分かってるけど分かってても危ないんだよ!」
「危ない?」
「誤解される」
「誤解じゃないかも」
「何が!?」
「好きなのは本当だし」
駄目だ。
この子は一度まっすぐになると、本当に止まらない。
だが、その“好き”の種類がいわゆる恋愛感情と同じ単純さではないことも分かる。人間として、美術の対象として、崩れ方ごと惹かれている。だから余計に厄介なのだ。
◇
結局、その場では「今度、放課後に少しだけ」という曖昧な約束になった。
完全に断れなかった。
断れる空気でもなかった。
そして何より、少しだけ興味があったのも事実だった。
鳴瀬いろはが、自分の何を“綺麗”だと思っているのか。
それが純粋に分からないし、少しだけ知りたかった。
美術の授業が終わったあとの短い休み時間、恒一が教室へ戻ると、ことねがすぐに食いついてきた。
「ねえ、さっき鳴瀬さんと何話してたの?」
早い。
「聞いてたのか」
「聞こえてないけど、雰囲気で分かるよ!」
ことねは妙に本気だった。
「なんかまた“黒峰くん限定の変な会話”してたでしょ」
「限定って何だよ」
「だって鳴瀬さん、普通の会話してる顔じゃなかったもん」
どんな顔だそれは。
凛も、いかにも興味ないふりをしながら口を挟んだ。
「また観察されてた?」
「まあ……そう」
「何を今さら、みたいな返事だね」
「もう説明するのも疲れるんだよ」
朱莉は窓際から静かにこちらを見ていたが、しばらくして短く言った。
「描かせて、とか?」
ぎくっとした。
「なんで分かる」
「鳴瀬さん、そういうタイプだから」
やっぱり周囲から見てもそうなのか。
ことねが「うわ、ほんとに!?」と声を上げる。
「何それ、モデル頼まれたの!?」
「ラフを少し、って感じだけど」
「え、待って、それ普通に強くない?」
「夢咲さんの“強い”の基準、毎回ちょっとおかしいよ」
凛が呆れたように言う。
だが、完全に否定していない。つまり彼女も分かっているのだ。これはこれで、かなり個別の接近イベントだと。
「何描くって?」
ことねが机へ身を乗り出す。
嫌な予感しかしない質問だ。
「……困ってる顔とか」
「やっぱりそっち!?」
ことねが両手で口を覆った。
「鳴瀬さんほんとに一貫してる……」
凛は小さく息をつく。
「黒峰も断ればいいのに」
「断れるか、あの空気で」
「断れなさそうではある」
朱莉が静かに言う。
その言い方に棘はない。むしろ少しだけ納得しているようですらあった。
しおんは少しだけ考えるようにしてから言った。
「鳴瀬さんにとっては、たぶんすごく大事なんだと思う」
「モデル?」
ことねが聞くと、しおんは小さくうなずく。
「“描きたい”って、あの人の中ではかなり真ん中の言葉だから」
その表現はきれいだった。
たしかに、いろはにとって“描きたい”はただのお願いではないのかもしれない。見つけたものを、自分の手で残したいということ。そこにはたぶん、かなり個人的な熱がある。
「……なんかさ」
ことねが少しだけ遠い目で言った。
「みんな入口違いすぎない?」
「それは前から言ってる」
凛が返す。
「夢咲さんは話、火乃森さんは過去、私は態度、雪代さんは視線、小鳥遊さんは習慣、鳴瀬さんは欠点、毒島さんは食べ物」
そこまで整理されると、もはや攻略ルート一覧みたいだ。
「黒峰、ほんとに大変だね」
ことねがしみじみ言う。
「他人事みたいに言うな」
「他人事じゃないんだけど、俯瞰すると大変だなって!」
その言葉に、教室の空気が少しだけやわらぐ。
だが、やわらいだからこそ、最後に恒一はひどく小さなことを自覚してしまった。
鳴瀬いろはに「黒峰くんは、ちゃんと崩れるから好き」と言われたとき、自分は完全には嫌じゃなかった。
意味が分からないし、だいぶ困るし、普通の褒め言葉でもない。
それなのに、否定しきれない妙な熱だけが残っている。
それはたぶん、今の自分がもう“普通じゃない好かれ方”にも少しずつ慣れ始めている証拠だった。




