第31話 習慣を知る後輩は、予定表より先に動く
朝霧凛に「変に鈍くなるほうがダサい」と言われた翌日、黒峰恒一は珍しく寝起きが悪かった。
眠れなかったわけではない。
むしろ、布団に入ってからは疲れでかなり早く意識が落ちたと思う。
問題は、その疲れがちゃんと抜けきっていないことだった。
目を開けた瞬間から、頭の奥が少しだけ重い。
熱があるほどじゃない。
体が動かないほどでもない。
ただ、すっきりしない。
喉も少し乾いていて、肩のあたりに変なだるさが残っている。
「……最悪だな」
枕元でスマホの時刻を確認しながら、小さく呟く。
休むほどではない。
でも、万全でもない。
こういう中途半端な不調が一番面倒だ。
洗面所で顔を洗い、制服に着替えながら、恒一はふと思い出した。
ことねの言葉。
朱莉の宣言。
凛の「ちゃんとしてるお前のほうがいい」という台詞。
しおんの写真の視線。
ましろの生活導線への入り込み方。
ひよりの食べ物経由の接近。
いろはの欠点観察。
玲華の外からの面白がり。
最近、頭の中がずっと誰かの言葉で少しずつ埋まっている。
それもまた、この微妙な不調に拍車をかけている気がした。
朝食を軽く口へ入れ、鞄を持って家を出る。
春の朝の空気は少しひんやりしていて、眠気の残る頭にはちょうどよかった。道端の草は薄く露を含み、通学路のアスファルトはまだ昼の熱を持っていない。駅へ向かう人々の足音がぽつぽつ重なる中、恒一はいつもより少しだけゆっくり歩いていた。
たぶん、普段より歩幅が小さい。
分かる人には分かるくらいには。
そして、そういう変化を見逃さない人が、この学校にはいる。
◇
駅を出て学校へ向かう坂の途中で、後ろから小さな足音が近づいてきた。
軽くて、速すぎず、でも迷いがない。
この足音には、もう覚えがあった。
「おはようございます、先輩」
小鳥遊ましろだった。
今日も控えめで、柔らかそうな雰囲気のまま、まるで最初から同じ通学路を歩く予定だったみたいに自然に横へ並ぶ。小柄な体、ふわっとした茶色の髪、そしていつも通りの静かな目。ぱっと見れば礼儀正しい後輩だ。
問題は、見ているところが普通じゃないことだが。
「……おはよう」
恒一が返すと、ましろは一歩ぶんだけ視線を上げた。
「先輩、今日はちょっとだめですね」
「いきなりだな」
「はい」
やっぱり即答か。
「顔色と歩幅と、あと目の開き方が少し違います」
「そこまで分かるのか」
「分かります」
当然みたいに言うな。
ましろはそのまま自然に歩幅を合わせる。こちらが少しゆっくりなら、その分だけ遅くなる。その“合わせ方”が本当に自然すぎて、逆に怖い。
「熱ありますか?」
「ないと思う」
「喉」
「ちょっと乾く」
「頭」
「少し重い」
「寝不足」
「たぶんちょっと」
問診みたいになってきた。
ましろは数秒だけ考えてから、小さくうなずいた。
「水分と糖分と、あとたぶん塩分少しです」
「なんでそんなに医務室みたいなこと言えるんだ」
「先輩の不調、だいたいその順番なので」
その情報量をどこで蓄積してるんだよ。
恒一は半分呆れながら、半分では妙に納得していた。
たしかに自分は、疲れるとまず頭が重くなり、そのあと甘いものを欲しがる。ましろはそういう“日常の癖”を本当に細かく覚えているのだ。
「……自分のことより俺のこと分かってないか」
「そこまでは」
「いや、だいぶ近いだろ」
ましろは少しだけ考えて、そして小さく笑った。
「先輩、分かりやすいので」
またそれだ。
この学校ではもう、褒め言葉なのかどうかも怪しい。
◇
教室に入ってからも、不調は微妙に残ったままだった。
一時間目の途中で、集中が少し切れる。
ノートを取る手が止まるほどではない。
でも、いつもより文字を追う速度が遅い。
休み時間になると、ことねがすぐに気づいた。
「黒峰くん、今日ちょっと静かじゃない?」
「俺、いつもそんなにうるさくないだろ」
「そういう意味じゃなくて」
ことねは机に肘をつき、こちらの顔をのぞき込む。
「なんか元気ない」
そこへ凛も通路側からぼそっと言う。
「朝から反応遅いし」
「お前ら、人の微妙な不調見抜くの得意すぎない?」
「分かるもんは分かるでしょ」
凛の返しは相変わらず淡々としている。
朱莉は窓際からこちらを見て、少しだけ眉を寄せた。
「体調悪いなら、今日は無理しないほうがいいよ」
「そこまでじゃない」
「そういう時ほど無理するから言ってる」
その言い方も、いかにも朱莉らしかった。
しおんは静かにこちらを見ていたが、何も言わなかった。
ただ、その“何も言わない”の中に、すでにかなり拾っている感じがあった。
いろはだけが、「今日ちょっと顔の左右差増えてる」と相変わらず別方向の感想を落としてきたので、そこは本気で無視した。
午前中をなんとかやり過ごし、昼休み。
恒一は席で弁当箱を開けたものの、食欲がいつもより少し弱い。食べられないほどではない。だが、箸の進みが遅い。
そのときだった。
「先輩」
小さな声と一緒に、机の横へ何かが置かれた。
顔を上げる。
ましろだ。
手には小さなペットボトルのスポーツドリンクと、個包装の飴が二つ。
どちらも購買で売っている、ごく普通のものだった。
「……何それ」
「今日の先輩に必要なものです」
言い方が完全に診断結果だった。
「いや、勝手に決めるなよ」
「でも、たぶん合ってます」
合ってるのが一番困る。
「午前中、弁当箱見る回数多いのに箸進んでないので、食欲は少し落ちてますよね」
「見てたのか」
「見えるので」
「怖いなあ」
ことねが横から半分感心、半分引いた声を出す。
「ましろちゃん、そこまで把握してるのほんとすごいね……」
ましろは不思議そうに瞬きをした。
「先輩、見てると分かるので」
何度も聞いている台詞なのに、毎回少しずつ怖さの種類が違う。
凛が低く言う。
「もうそれ、生活密着型にも程があるでしょ」
「役に立つならいいと思います」
ましろの返しは本気だ。
そこに駆け引きがない。
だから余計に強い。
「……ありがと」
恒一は結局、そう言ってスポーツドリンクを受け取った。
ましろの表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
「どういたしまして」
「飴も?」
「はい。授業の合間に入れたほうがいいです」
「何味?」
「塩レモンです」
完璧すぎるだろ。
ことねが呻く。
「え、なにこれ、もう彼女じゃん……」
「夢咲さん、それは違うと思う」
凛がすぐに言う。
「でも、距離感としてはだいぶ危ない」
そこへ、しおんが静かに言った。
「小鳥遊さん、予定表より早いね」
全員がしおんを見る。
しおんはいつも通り穏やかな顔で続けた。
「先輩が体調崩しかける前に動いてる」
たしかに、その通りだった。
恒一自身、まだ“少しだるい”くらいの認識でしかなかった。
休むほどではない。
ただ、少し面倒だな、と思っていた程度。
そこへましろは、まるで予定表でも見ていたみたいに先回りしてきたのだ。
朱莉が小さく息を吐く。
「……自然すぎるんだよね、小鳥遊さんのそれ」
「だめですか?」
ましろが聞く。
その問いは本気で分かっていない人のものだった。
ことねが慌てて言う。
「だめじゃない! だめじゃないけど、なんていうか、こう……」
「かなり近い」
凛が要点だけ言った。
ましろはそこで少しだけ考えた。
そして、こくりとうなずく。
「近いかもしれません」
「そこで認めるんだ」
恒一が言うと、ましろはまっすぐにこちらを見た。
「だって、先輩の生活に合う位置、私もう結構分かってます」
教室の空気が止まる。
ことねが目を見開く。
凛は眉を寄せる。
朱莉は無言になる。
しおんだけが静かにその言葉を受け止めていた。
ましろは構わず続ける。
「何時くらいに疲れるかとか、甘いもの欲しがるタイミングとか、少し無理してる時に歩幅が変わることとか」
それは事実だ。
事実すぎて、否定しづらい。
「だから、今日みたいな日は先に持ってきたほうがいいと思いました」
計算しているわけではない。
駆け引きでもない。
ただ本当に、“先輩の生活に合う位置”へ自分がいることを自然だと思っている。
それがどれほど強いかを、たぶん本人だけが知らない。
「……小鳥遊さん、ほんとにそれ無自覚なの?」
ことねが恐る恐る聞く。
「無自覚、ではないです」
ましろは少しだけ考えた。
「でも、変だとは思ってません」
そこまで言い切るのか。
凛が小さく顔を覆いかける。
「一番厄介なやつ……」
朱莉は腕を組み直しながら言う。
「でも、役には立ってるのが余計に何も言えない」
それもまた事実だった。
スポーツドリンクは今の恒一にありがたいし、塩レモン飴もたぶん正解だ。
生活に入り込まれていることへの危機感と、助かっている事実が、きれいに同居している。
「……とりあえず、飲む」
恒一がそう言うと、ましろは小さくうなずいた。
「はい」
その“はい”が、妙にうれしそうだった。
◇
午後の授業では、たしかに少し楽になった。
スポーツドリンクの冷たさで喉が落ち着き、飴の塩気と酸味が頭の重さを少しだけ散らしてくれた。劇的ではない。けれど、じわっと助かる。
そして、その“じわっと助かった”ことが逆に厄介だった。
休み時間、ことねが言う。
「どう?」
「……少し楽」
「ほらー」
ことねはすぐにましろを見る。
「ましろちゃん、正解じゃん」
ましろは控えめに笑った。
「よかったです」
凛は机に頬杖をついたまま、ぼそっと言う。
「もうそれ、かなり強いよね」
「何が」
恒一が聞くと、凛は視線だけ寄越した。
「体調崩しかけてる時に、本人より先に気づいて物渡せる後輩」
言われると、たしかに強い。
「しかも押しつけがましくないし」
朱莉が静かに続ける。
「だから余計に断りづらい」
「断られたくてやってるわけじゃないです」
ましろはすぐに言う。
「先輩が少しでも楽なら、それでいいので」
その返しがまた完璧すぎる。
しおんが静かに言った。
「小鳥遊さん、先輩の予定表より先に動く人だね」
その一言が、この回をきれいに言い表していた。
予定が決まる前に、必要なものを先回りで持ってくる。
言われる前に、顔色や歩幅や箸の進み方で判断する。
その自然さが、すでにひとつの“特別な近さ”になっている。
「……予定表より先、か」
恒一が小さく繰り返すと、ましろは少しだけ首を傾げた。
「だめですか?」
「いや」
少し考えてから、正直に言う。
「たぶん、だいぶ助かってる」
それを聞いた瞬間、ましろの目がほんの少しだけやわらいだ。
「なら、よかったです」
その笑顔は控えめで、でもちゃんと嬉しそうだった。
ことねが横で「うわ、今の強い……」と小さく呻き、凛が「ほんとに生活導線で殴ってくるな」と呆れ、朱莉は無言のまま机へ視線を落とした。
誰も否定しない。
できない。
それくらい、ましろの“自然な近さ”はもう結果を出してしまっていた。
◇
放課後、帰る準備をしながら、恒一はふと思った。
ことねは“最初に話が通じた相手”として近い。
朱莉は“昔からの距離”で近い。
凛は“ちゃんとしている自分”を見てくれる相手として近い。
しおんは“静かな視線”で近い。
ましろは、“生活に合う位置”で近い。
この“生活に合う位置”というのが、思っていたよりずっと強い。
派手ではない。
告白めいた言葉もない。
でも、体調が少し崩れた時、何が必要かを先に持ってこられる。
歩幅の変化や甘いものを欲しがるタイミングまで覚えられている。
そういう近さは、放っておくと日常ごと侵食してくる。
そして、気づいたときにはそれが当たり前になっていく。
「先輩」
帰り際、ましろがまた小さく声をかけてきた。
「ん?」
「今日は早く寝てください」
「そこまで管理されるのか」
「明日も学校なので」
理屈が真っ当すぎて言い返せない。
「……分かった」
「ほんとに?」
「ほんとに」
ましろはそれを聞いて、満足そうに小さくうなずいた。
「じゃあ、また明日です」
「ああ、また明日」
小さな後ろ姿が教室を出ていく。
控えめで、静かで、でも一番生活の近くにいる。
恒一はその背中を見送りながら、少しだけ苦笑した。
習慣を知る後輩は、予定表より先に動く。
それはたぶん、とても厄介で、でもたぶん、少しだけうれしいことでもあった。




