第14話 変食オタク、班行動に乱入する
金曜日の朝は、思っていた以上に早く始まった。
いや、正確には、始まる前からすでに終わっていたと言ってもいいかもしれない。
私立星ヶ峰学園、共学化記念オリエンテーション当日。
校門の前から空気が違う。普段より少しだけ浮ついたざわめきがあり、どのクラスも「今日は授業というよりイベントだ」という顔をしていた。校舎の白い壁は朝日に照らされ、窓ガラスは青空を映し、手入れの行き届いた花壇の色がやけに鮮やかに見える。遠目には、どこまでも平和で、爽やかで、青春っぽい一日だった。
その中心に、自分がいるらしいことを除けば。
黒峰恒一は、教室へ向かう廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
歩幅は一定に。
無駄に急がない。
変に遅れもしない。
今日はなるべく平和に。穏やかに。静かに。
そんな目標を立てていたはずなのに、教室の扉を開けた瞬間、その希望はだいぶ怪しくなった。
「おはよう、黒峰くん!」
夢咲ことねが、ほとんど待ち構えていたみたいな勢いで振り向いた。
顔に出すぎだろ、と思うくらい、気合いと緊張と高揚が混ざっている。彼女は元気で明るくて、感情がそのまま表に出るタイプだ。だから今日みたいな“何か起きそうな日”は、余計に分かりやすい。
「おはよう」
「ねえ、ほんとに平和にいこうね」
「昨日も聞いた」
「今日は本番だから!」
ことねは机の上へ両手をついて言い切った。
「私、ほんとに今日は楽しくしたいの。普通に! ただ校内回って、ちょっと写真とかも撮って、あとできれば学食の特別メニューも見て――」
「後半かなり遊ぶ気あるな」
「交流行事だからいいんだって!」
そのやり取りに、通路側から凛の声が落ちる。
「いいけど、進行止めないでよ」
朝霧凛はもう体勢が整っていた。席に座ったまま、しかし手元には校内図のコピーとチェック項目のプリントがまとめられていて、完全に“今日は回す側です”の顔をしている。気が強くて、口も悪い。けれど、こういうとき頼りになるのもまた事実だった。
「最初にルートだけ確認する。中庭側から回ると時間食うから、先に旧校舎側」
「もう決めてるんだ……」
ことねがやや引き気味に言う。
「当たり前でしょ。無駄にうろうろしたくないし」
「朝霧さんってほんとこういう時だけ攻略本みたいになるよね」
「だけ、は余計」
凛がそう返した瞬間、窓際から朱莉の声が入る。
「ルートだけじゃ足りないよ。確認項目ごとに担当も決めないと」
火乃森朱莉だった。
彼女はもう自然な顔で班の資料を見ている。幼馴染という立場を変に振りかざすことはしないくせに、いざ全体を回すとなると当たり前みたいに前へ出る。その“自然さ”が一番強い。
「資料とチェック項目は私が持つ。夢咲さんは話しながらだと落としそうだし」
「なんで私、そんなに信用ないの!?」
「事実だから」
「ひどい!」
だが朱莉の言うことも、否定しづらい。ことねは器用ではあるが、テンションが上がると手元が雑になる傾向がある。本人も少しだけ心当たりがあるらしく、文句を言いながらも完全には否定しなかった。
そのやり取りを、しおんは静かに見ていた。
雪代しおん。長い黒髪、整った姿勢、音もなく人の空気に入り込む優等生。今日もほとんど表情を変えずに席に座っている。けれど、その静けさの中に「全部見えてます」という感じがあるのが厄介だ。
「黒峰くん」
「ん?」
「今日、最初の一時間で三回は困ると思う」
予言みたいに言うな。
「またそれか」
「予測」
しおんは少しだけ首を傾けた。
「朝霧さんは進行で呼ぶし、火乃森さんは確認で呼ぶ。夢咲さんはたぶん何か見つけるたびに呼ぶ」
「雪代さん、それ本人たちの前で言うんだ……」
ことねが目を丸くする。
凛は小さくため息をつき、朱莉は否定もしない。つまり、だいたい当たっているのだ。
「……雪代は?」
恒一が半ば諦めて聞くと、しおんはほんの少しだけ考えてから答えた。
「必要な時に」
「それが一番怖いんだよ」
言った瞬間、しおんがわずかに笑った。
笑ってるのか。
今ので。
そこへ、ひょこっと後ろから小さな声がした。
「おはようございます、先輩」
小鳥遊ましろだった。
小柄で控えめ、礼儀正しい後輩にしか見えないのに、中身は“習慣収集型”の距離感おかしい系である。今日もふわっとした雰囲気のまま近づいてきて、当然みたいに恒一の机の横へ立った。
「先輩、今日は少しだけ足取り軽いですね」
「それ、良い意味なのか?」
「はい。昨日より覚悟が決まってます」
覚悟。
そんな大層なものが必要な行事になってしまっていることが、まずおかしい。
「あと、先輩の歩くペースには私が合わせますね」
「それも聞いた」
「今日は本番なので」
強い。
この子もかなり強い。
ことねが「ましろちゃんまで当然みたいに言う……」と頭を抱え、凛が「やっぱり方向性違うだけでみんな押し強い」とぼそっと言う。
そして最後に、鳴瀬いろはが教室の扉にもたれるみたいに立っていた。
変人美術少女。欠点フェチ。整っていないもののほうが美しいと言い切る、感性の方向が少しずれている子だ。
「黒峰くん」
「なんだよ」
「今日、たぶん途中から顔に出る」
「何が」
「疲れ」
いろはは真面目な顔で言う。
「たぶん最初は誤魔化すけど、途中で眉の左右差が大きくなる」
「やめろ、具体的に言うな」
「でも綺麗だと思う」
「慰めになってない!」
教室の中で小さく笑いが起きた。
笑いが起きた、のだが、完全に和やかかと言われると違う。
全員が全員、自分の位置からこっちを見ている。
まだ始まってもいないのに、空気だけがもう修羅場だ。
◇
ホームルームが終わり、全クラス合同でオリエンテーションの説明が始まった。
体育館ほど大きくはないが、講堂に近い広めのホールへ集められた新入生たちは、班ごとにざっくり固まりながら教師の説明を聞くことになる。星ヶ峰の校舎は本館、旧校舎、特別棟、中庭周辺と見た目以上に入り組んでいて、しかも女子高時代の施設利用前提がまだいくつも残っている。今回の班行動は、それらを“共学一期生”として確認しながら回る意味合いがあるらしい。
説明そのものは真っ当だった。
だが四班の空気は、説明が真っ当であればあるほど妙だった。
ことねは「うわ、旧校舎ミッションあるんだ」と目を輝かせている。
凛は配布資料にすでに何かメモを書き込んでいる。
朱莉はチェック項目の順番を確認している。
しおんは話を聞いているようで、同時に周囲の気配も拾っている顔だ。
ましろは静かに「先輩、旧校舎の階段ちょっと急なので気をつけてください」と耳打ちしてきた。
いろはは「古い壁、見たい」と小さく呟いていた。
そして恒一だけが、本気で思っていた。
なんでこの班、こんなにそれぞれ別方向へ仕上がってるんだ。
講堂を出て、班ごとにスタート位置へ移動する流れになる。四班は本館一階の渡り廊下前から開始らしい。そこまでの移動だけで、すでに自然な位置取りが始まっていた。
ことねは明るく話しかけながら恒一の近くを取ろうとする。
朱莉は資料を手に、当然みたいに少し前を歩く。
凛は「そこ狭いから詰まらないで」と全体へ言いながら、自分も恒一の動きを視界に入れている。
しおんは静かだが、必要なタイミングで横へ並ぶ位置にいる。
ましろは歩幅を合わせるように後ろ斜めを取る。
いろはは少し離れて全体を見ているようで、視線だけはたまに恒一へ戻ってくる。
気づいたときには、完全に囲まれていた。
「……俺、この班の荷物かなにか?」
思わず小さく漏らすと、ことねが吹き出しそうになった。
「荷物ではないでしょ!」
「でもちょっと扱い近くない?」
「近いかも」
凛が冷静に言うな。
「黒峰、ちゃんと前見て。今段差ある」
「はいはい」
ほらもうこうだ。
まだ開始十分も経っていないのに、胃が痛い。
しかもその胃痛の原因が、“敵意”ではなく“関心の向き方が違う女子たちに全方位から見られていること”なのが余計につらい。
◇
最初のチェックポイントは、本館一階の案内掲示板だった。
共学化に伴う施設利用ルールの変更点を確認し、班ごとにチェックをつける。作業としては単純だ。単純なのに、四班だと妙に時間がかかる。
「えーと、図書室の利用時間変更、談話スペース利用可能、特別棟の立入範囲確認……」
朱莉が資料を読み上げる。
「朝霧さん、次どこ」
「そのまま旧校舎前。中庭回るのあと」
凛が即答する。
「夢咲さん、そこ立つと他の班の邪魔」
「う、はい!」
ことねが慌てて一歩ずれる。
ましろはすでにメモを取っていた。
いろはは古い木の掲示板の傷を見て「こっちのほうが面白い」とか言っている。
しおんは一言も多くはないが、誰かが資料を落としそうになる前にさりげなく支える。
そして恒一は、半歩遅れて思う。
……この班、俺抜きで普通に優秀では?
役割分担そのものは成立している。
資料を見る人。
移動を管理する人。
空気を軽くする人。
静かに全体を整える人。
記録を取る人。
違う視点を拾う人。
問題は、その全員が、恒一との距離感だけは譲らないことだった。
旧校舎へ向かう途中、ことねが「ねえ、あの渡り廊下、映えない?」と指差せば、凛が「先に順番」と止める。朱莉が「あとで寄ればいい」とまとめ、ましろが「その前に階段です」と自然に補足する。いろはは「古びてるほう、好き」と別方向を見ている。しおんはその全部を黙って聞いている。
「……なんかもう、班っていうより黒峰くんを中心にした周回軌道じゃない?」
ことねがぽつりと言った。
自覚はあった。
言葉にされたくなかっただけで。
「それ、今本人の前で言う?」
恒一が力なく返すと、ことねは「あ」と口を押さえた。
「ご、ごめん」
「いや、謝られても」
「でも分かる」
凛がさらっと言った。
「この班、黒峰の位置で空気変わるし」
「朝霧さんまで追撃しないでくれる?」
「事実だから」
朱莉はそこで小さく息を吐いた。
「だから面倒なんだって」
その一言だけで、彼女がどれだけ警戒しているかが分かる。
しおんが静かに付け足す。
「でも、にぎやかではある」
「雪代さん、その評価ちょっとずるくない?」
ことねが言うと、しおんは少しだけまばたいた。
「そう?」
「そこまで全部見えてて、その一言で済ますの強いよ……」
いろはが横からぽつりと言う。
「でも、今の黒峰くんの顔はちょっとよかった」
「やめてくれほんとに」
恒一が言うと、いろはは楽しそうに目を細めた。
やはり駄目だ。
この班、開始十分でこの密度はおかしい。
◇
旧校舎前のチェックポイントを終えたあたりで、四班は学食棟のほうへ回る流れになった。
今日だけの特別メニュー紹介があるらしく、学食前には普段より少しだけ人が多い。パンフレットを配る係の生徒もいて、「共学化記念・新メニュー試験導入」と書かれた小さなポップがあちこちに立っていた。
「へえ、学食までイベント仕様なんだ」
ことねが少しだけ元気を取り戻した声で言う。
「ちょっと面白そう」
「寄るのはいいけど、時間見て」
凛が言う。
「五分以上は止まらない」
「厳しい!」
そんな会話をしながら近づいた、そのときだった。
学食横の特設コーナーに見覚えのある小柄な姿があった。
ふわっとしたボブヘア。
静かそうな顔立ち。
そして、手元の試食トレーへ向けられた本気の眼差し。
毒島ひよりだった。
昨日、購買前で“謎肉激盛り限定MAX”を前に完全に研究者の目をしていた、あの変食オタクである。
今日の彼女は腕章をつけていた。どうやら試食アンケートの補助スタッフらしい。小さな紙コップに盛られた一口サイズの何かを前に、真顔で説明をしている。
「こちら、代替肉ベースの新試作ミートボールです。従来型より繊維感が増していて、噛み切るときの抵抗が少し自然です」
説明がもう怖い。
周囲の生徒は「へえ」「そうなんだ」と曖昧に反応しているが、ひよりだけは完全に本気だ。
そして、次の瞬間。
ひよりの視線がこちらを捉えた。
ぴたり、と目が合う。
無表情に近い顔だったのに、その目だけが一気に明るくなる。
「……先輩」
嫌な予感しかしない。
ひよりはためらいなくこちらへ来た。
トレーを持ったまま。
目の前に、当然みたいに立つ。
「ちょうどよかったです」
ことねが「え、誰?」という顔をし、凛が警戒気味に目を細める。朱莉は一瞬で面白くなさそうな顔になり、ましろは「あ」と小さく声を漏らした。いろはだけが興味深そうにひよりを見ていた。しおんは静かに状況を見ている。
四班全員が揃っているところへ、よりによってここで来るのか。
「毒島……さん、だっけ」
「はい。毒島ひよりです」
ひよりは一歩も引かない。
「先輩、試食どうですか」
「え?」
「新メニューです。代替肉ベースなんですけど、前よりだいぶいいです。脂の再現はまだ甘いですが、繊維感は明確に改善されてます」
ことねが小声で「何この子、めっちゃ真顔で強い」と呟いたのが聞こえた。
ひよりはそのまま続ける。
「あと、別枠で謎肉系メニューもあります」
その瞬間、恒一だけでなく四班全員の空気が少しだけ止まった。
「……謎肉系?」
恒一が聞くと、ひよりはうなずく。
「はい。正確には“加工肉風味強化型たんぱくブロック”なんですけど、ほぼ謎肉です」
「正確さを補足したことで逆に怖くなったな」
ひよりはそれを褒め言葉だと受け取ったらしく、小さく目を細めた。
「先輩、そういう感想いいですね」
だから、その評価軸は何なんだ。
ことねがたまらず口を挟む。
「ちょ、ちょっと待って。黒峰くん、この子と知り合いなの?」
「昨日、購買で少し」
「少し、って」
凛が低く言う。
「また増えてるじゃん」
「俺だって好きで増やしてるわけじゃない」
「でも増えてる」
朱莉の一言が妙に冷たい。
ひよりはようやく四班の面々へ目を向けた。そして、小さく頭を下げる。
「すみません。先輩、理解者候補なので、つい」
理解者候補。
それを初対面の人間がいきなり聞かされる側の気持ちを考えてほしい。
「……何の理解者?」
ことねが半ば引きつりながら聞くと、ひよりは真顔で答えた。
「変なものを見た目で切らない人の」
ことねが「うわあ」と遠い目になった。
凛は露骨に眉を寄せる。
朱莉は何も言わないが、その沈黙が怖い。
ましろは「先輩、また新しい習慣増えそうですね」とズレた方向で納得している。
いろはは「変なものを一緒に食べる関係、面白い」と本当に面白そうだ。
しおんだけが、変わらず静かだった。
「毒島さん」
しおんが穏やかに言う。
「食べ物で距離を詰めるタイプなんだ」
その分析の正確さに、ひよりは小さく瞬きをした。
「……はい、たぶん」
「なるほど」
しおんはそれだけ言って黙る。
怖い。
この短い会話だけで、もう何か見抜いている感じがする。
ひよりは再び恒一へトレーを差し出した。
「先輩、一口だけでも」
その目が本気だった。
昨日、購買のカップ麺棚の前で見たのと同じ目だ。
変なものを前にしたときの、逃げ道のない熱量。
恒一は半分引きながらも、その真剣さに負けて、ようやく一つ小さな試食品を取った。
「……これでいいのか」
「はい」
ひよりの声が少しだけ明るくなる。
「噛むとき、最初の抵抗を気にしてください」
「要求が細かいな!」
「大事なので」
仕方なく口へ入れる。
外側は少しだけ甘辛いタレ。中は確かに肉っぽいが、普通の肉よりも繊維が揃いすぎていて、やや人工的なまとまりがある。だが、まずいわけではない。むしろ予想より食べやすい。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「悪くない」
ひよりの目が、明らかに輝いた。
「ですよね」
「うまい、とはまだ言い切れないけど」
「それで十分です」
ひよりは即答する。
「その“一口目の慎重さ”が大事なので」
ことねが隣でぽかんとしている。
凛はまだ警戒を解いていない。
朱莉はじっと恒一の反応を見ている。
しおんは静かにその空気全体を観察している。
ましろは「先輩、今日は甘いのよりしょっぱいのいきますね」と妙なところに感心している。
いろはは「食べたときの顔も少し左右差出る」とか見ている。
地獄か。
そしてひよりは、そんな空気の中心にいる自覚も薄いまま、自然に言った。
「先輩、あとで購買にも行きましょう」
その一言で、四班の空気がまた一段階止まった。
「……は?」
恒一が一番素直な反応をしてしまう。
「昨日の第三ロット、もう一つ別の味が入ってるはずなので」
ひよりは真顔だ。
冗談でもなんでもない。
純粋な食オタクの誘い。
だからこそ余計に断りづらい。
ことねの目が「えっ」と見開かれ、凛が低く「また自然に誘うな……」と呟く。朱莉は無言。無言なのが一番怖い。しおんは静かに、しかし確実にその一言を拾っている。
恒一は本気で思った。
この班行動、まだ始まったばかりなのに、もうだいぶだめかもしれない。
ひよりはそんな空気を気にする様子もなく、トレーを抱え直して小さく会釈した。
「では、またあとで」
そして当然のように去っていく。
小柄な背中が特設コーナーのほうへ戻っていくのを見送りながら、四班の中に数秒の沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのはことねだった。
「……誰、今の」
その問いに対し、恒一は本気でどこから説明すべきか分からなかった。
変なものを食べる子は、やっぱり目が本気だった。
しかもその本気が、自分のほうへかなり自然に向き始めている。
それだけは、もう嫌でも理解できてしまっていた。




