第15話 距離感がおかしい子が、また一人増えました
毒島ひよりが特設コーナーへ戻っていったあと、四班のまわりには数秒ぶんの妙な静寂が落ちた。
学食前は相変わらず賑やかだった。新メニューのポップ、試食を受け取る生徒、遠くから聞こえる教師の声。共学化記念オリエンテーションの一環らしい明るい空気はちゃんとそこにある。なのに、四班の半径数メートルだけ、音が一段階薄くなったみたいに感じる。
原因はもちろん、さっきのやり取りだった。
――先輩、理解者候補なので、つい。
――先輩、あとで購買にも行きましょう。
あまりにも自然に投下された二つの危険発言。
恒一は、ほんの少し前まで「今日をなるべく平和に終わらせる」が目標だったことを思い出し、心の中で静かに諦めかけていた。
ことねが一番最初に息を吹き返した。
「……ちょっと待って」
声は抑えている。抑えてはいるが、明らかに抑えきれていない。
「何、理解者候補って」
「俺に聞くな」
「いやだって黒峰くんに向かって言ってたじゃん!」
「言ってたけど、俺だって昨日会ったばっかだぞ」
「昨日!?」
ことねの目がさらに大きくなる。今日だけでだいぶ驚いていた目が、さらに一段階開いた。
「昨日会って、今日もう“あとで購買に行きましょう”まで進むの、展開速くない!?」
「そこまでの関係じゃないって」
「でも、向こうはだいぶそのつもりっぽかったよ!?」
たしかに。
恒一としても、そう思わざるを得なかった。
ひよりは押しが強いわけではない。ことねみたいな勢いも、朱莉みたいな圧も、玲華みたいな支配力もない。声も小さいし、表情の変化も大きくない。だがそのぶん、“当然のように距離を詰める”という意味でかなり厄介だ。
しかもその入り口が「変なものを一緒に食べられるかどうか」なので、普通の人間関係の警戒網をすり抜けてくる。
「また厄介なの引いたね」
朝霧凛が、案の定という顔で言った。
腕を組み、学食前の特設コーナーをちらりと見ている。毒島ひよりはもう別の生徒へ試食の説明をしていて、こちらを振り返る様子はない。ないのだが、それがかえって“自分の距離感を普通だと思っている”感じを強めていた。
「俺が引いたみたいな言い方やめろよ」
「違うの?」
「違わない気もしてきたけど」
「でしょ」
凛は淡々と言う。
「しかもああいうタイプ、一番気づいたら近くにいるやつ」
その分析に、ましろが小さくうなずいた。
「たしかに自然でした」
「お前が言うと余計に怖いな」
恒一が言うと、ましろは少しだけ不思議そうに目を丸くした。
「そうですか?」
「そうだよ。自然に近いって、つまり対処しづらいってことだから」
「でも、先輩もあまり引いてませんでしたよね」
核心を突かれた。
「それは……」
「試食、ちゃんと受け取ってましたし」
「食べないのも悪いと思っただけだ」
「でも、悪くないって言いました」
ことねがすかさずそこへ食いつく。
「言ってた! 私も聞いた!」
「聞こえる距離で言ったんだからそりゃそうだろ!」
ことねは両手を胸の前で握りしめ、半ば本気で言う。
「黒峰くん、それがいけないんだって!」
「何が」
「“いや別にそんな気ないんだけど、でも完全に拒否もしない”ってやつ!」
ぐさっときた。
なぜなら、それはわりと図星だからだ。
恒一は別に、ひよりへ特別な何かを感じたわけではない。けれど、彼女の言っていることには一貫した熱量があったし、実際に試食した代替肉ミートボールも意外と悪くなかった。そういう“偏見なく受け取る”態度が、ひよりにとってはかなり強い意味を持つのだろう。
朱莉が、そこでようやく口を開いた。
「知り合い増やしすぎじゃない?」
声は静かだった。静かだが、だからこそ本音が隠れていない。
「別に増やしたくて増やしてるわけじゃないんだけど」
「でも増えてる」
その一言が、ひどく重かった。
朱莉は資料を持ったまま、視線だけを恒一へ向けている。
「しかも今回は食べ物経由って、だいぶ新しいよね」
「俺だってそう思ってる」
「購買で会っただけでそこまでいくの、普通じゃないから」
「それを今、本人が一番実感してる」
凛がぼそっと「遅いけどね」と補足する。
うるさい。
そのやり取りの横で、しおんが静かに口を開いた。
「食べ物で距離を詰める人、珍しい」
穏やかな声だった。けれど、あくまで分析として言っているのが分かる。
「夢咲さんは解釈、火乃森さんは記憶、朝霧さんは痕跡、小鳥遊さんは習慣、鳴瀬さんは欠点」
そこで一拍置く。
「毒島さんは、食べること」
「整理されるとちょっと嫌だな……」
ことねが遠い目をした。
「しかもなんか全部“黒峰くんへの入り口”として成立しちゃってるのが嫌」
「お前、それを今この場で言うのか」
「だってもう見えちゃってるし!」
たしかに見えてはいる。
見えてはいるが、言葉にされると余計に逃げ場がなくなる。
いろははそんな全体の空気を楽しむように、少し離れた位置で笑っていた。
「増えたね」
「何が」
恒一が半ばやけで返すと、いろはは当然みたいに言う。
「黒峰くんの見られ方」
その表現が妙にしっくり来てしまうのが腹立たしい。
「毒島さん、ああいうの好きなんだね。見た目とか名前で嫌がらない人」
「そうらしいな」
「面白い」
「鳴瀬の“面白い”は信用ならないんだよな」
「褒めてる」
「だろうとは思った」
褒められているのにまったく安心できないあたり、この班は本当におかしい。
◇
学食前のチェックポイントを終えたあとも、四班の空気は少し妙だった。
表面上は、やるべきことをちゃんとやっている。
朱莉が資料を確認し、次の項目を読み上げる。
凛が最短ルートで移動できるよう指示を出す。
ことねが適度に場を明るくし、ましろが記録を取り、しおんが静かに全体を見て、いろはが妙な視点から“この校舎の面白さ”を拾う。
機能としてはかなり優秀なのだ。
たぶん、恒一を抜けば。
問題は、ひよりという新しい火種が投げ込まれたことで、全員の視線がまた少しだけ“誰がどこまで黒峰恒一へ近いのか”を意識し始めたことだった。
中庭へ向かう渡り廊下を歩いているとき、ことねがぽそっと言った。
「ねえ、黒峰くん」
「ん?」
「さっきの子ってさ、どういうきっかけで話したの?」
質問は軽い調子だった。
だが、その裏に“ちゃんと知っておきたい”という感じがある。
「購買でカップ麺見てたら、急に話しかけられた」
「カップ麺」
「うん」
「そこから“理解者候補”まで行くの、どういう導線なの……」
「俺が知りたい」
ことねは数秒だけ真顔になって、それから小さく息を吐いた。
「なんかもう、黒峰くんって“話の合う人”を引き寄せるっていうより、“向こうが勝手に見つけてくる”感じあるよね」
それは、たぶん正しい。
ことね自身も最初はアニメグッズがきっかけだったし、しおんは足音、ましろは習慣、いろはは顔の崩れ方、ひよりは食べ物だ。こちらから何かを探しに行ったわけではない。向こうが勝手に、それぞれの視点で“黒峰恒一”を見つけている。
「それ、あんまり良い言い方じゃないな」
凛が口を挟む。
「引き寄せてるんじゃなくて、隙があるだけでしょ」
「朝霧さん、その言い方もどうなの」
「事実」
そこで朱莉が静かに言う。
「でも、変なものを一緒に食べられる相手って、ああいう子には強そうだよね」
朱莉の視線は前を向いていたが、その言葉は明らかに恒一へ向いていた。
「……何が言いたいんだよ」
「別に」
そう返しながらも、朱莉は小さく続ける。
「新しい入り口だなって思っただけ」
嫌な言い方だ。
だが、本質でもある。
ひよりはこれまでの誰とも違う入り口を持っている。
そこが一番厄介なのだ。
しおんが静かに付け足した。
「先輩の購買習慣、また増えそう」
今度はましろがそれに反応する。
「たしかに。先輩、金曜は甘い飲み物としょっぱい加工肉系の組み合わせ多いですし」
またそこか。
「なんでそこまで把握してるんだよ」
「見てるので」
当然みたいに言うな。
ことねが頭を抱えた。
「もうやだこの班! 誰かが新しい接点見つけるたびに、他のみんなも“あ、そこ刺さるんだ”って把握してく流れになってる!」
「夢咲さん、それ本人の前で言う?」
凛が呆れたように言うが、否定はしない。
実際、その通りなのだ。
ことねは作品の解釈で近づいた。
しおんは音で。
朱莉は記憶と過去で。
凛は痕跡と努力で。
ましろは習慣で。
いろはは欠点で。
ひよりは食べることで。
それぞれが、それぞれ違う形で、こちらへ触れようとしている。
そして、誰か一人が新しい入り口を見つけるたび、ほかの全員もそれを理解してしまう。
これが平和なわけがない。
◇
旧校舎裏の小さな庭園前でチェックをつけていたとき、ひよりの話題は再び蒸し返された。
「でも、かわいかったね」
ことねがぽつりと言った。
その一言に、空気がまた少しだけ動く。
「何が」
凛が即座に聞く。
「いや、さっきの毒島さん。見た目、すごい大人しそうなのに中身が全然違う感じ」
「それは分かる」
恒一がつい答えると、ことねがすかさず食いつく。
「分かるんだ!?」
「いや、実際そうだろ」
「でも“分かる”って言葉がもうちょっと危ないよね今の」
「なんでだよ!」
「何かこう、“ああいうギャップいいよな”って感じに聞こえたから!」
「思ってない!」
そこへ、凛が面倒くさそうに割って入る。
「夢咲さん、いちいち意味づけすぎ」
「朝霧さんはしなさすぎ!」
「しなくていいから」
「でも実際、毒島さんって新しいタイプだよね」
ことねは食い下がる。
「今までの人たちと全然違うじゃん。好きなものの方向も、距離の詰め方も」
「それはそう」
凛もそこは認めた。
「しかも本人、あれを変だと思ってなさそう」
「それが一番怖い」
朱莉の一言は、低くて的確だった。
恒一も心の中で同意する。
ひよりには悪意がない。
ただ本気で“変なものを一緒に食べられる相手”を貴重だと思っている。
だからこそ厄介なのだ。
いろはがそんなやり取りを聞きながら、ふっと笑った。
「いいじゃん」
「何が」
「食べ物で近づくの」
「鳴瀬の“いいじゃん”は基本ろくでもないんだよな」
「だいたい褒めてる」
いろはは庭園の古びた石畳を見ながら続ける。
「一緒に何か食べるって、結構強い」
その言葉には妙な説得力があった。
人はたしかに、一緒に食べることで距離が縮まることがある。友達でも、家族でも、恋人でも。だから、ひよりの“変なものを一緒に食べられる”という価値観は、ある意味でかなり本質的なのかもしれない。
「……やめてくれ、いろいろ腑に落ちる方向へ行くな」
恒一が小さく呻くと、いろはは少し楽しそうにこちらを見た。
「もう落ちてるんじゃない?」
「何に」
「普通じゃない側」
言い返せなかった。
◇
班行動の終盤、記録確認のため一度立ち止まったとき、ましろがぽつりと言った。
「先輩、今日ちょっとだけ甘い飲み物の気分ですよね」
「なんで分かるんだよ」
「疲れてるので」
ましろの返答はいつもながら自然だった。
「こういう日は、先輩、甘いのにいきます。たまにしょっぱい加工肉系も一緒に買いますけど」
その瞬間、ことねが「あ」と何かに気づいた顔をした。
「それ、さっきの毒島さんに刺さりそう」
全員の空気が、一瞬だけまた止まる。
やめてくれ。
そういう“接続”をその場で成立させるな。
「……たしかに」
凛が低く言う。
「食べ物の趣味って、あいつにはだいぶ強いでしょ」
「しかも黒峰、完全に拒否しないし」
朱莉の追撃が痛い。
「いや、拒否するほどでもなかっただけで」
「その“拒否するほどでもない”が一番危ないんだって」
ことねが半泣きみたいな声を出す。
「黒峰くん、たぶんそういうところなんだよ! 最初は普通に受け止めてるだけなのに、相手からしたら“この人は分かってくれる”になるやつ!」
痛い。
いろいろ痛い。
しかも、否定しきれない。
しおんが最後に静かに言った。
「毒島さん、今日の放課後また購買にいると思う」
「予言しないでくれ」
「予測」
「最近そればっかだな!」
しおんは少しだけ目を細めた。
笑っているのか、単に観察しているのか、やっぱり判別しにくい。
◇
結局、その日の班行動は大きな事故なく終わった。
外から見れば、むしろかなり優秀な班だったかもしれない。資料は漏れなく回収され、ルートも滞りなく進み、記録も残り、雰囲気も壊れなかった。誰かが露骨に揉めたわけでもないし、教師から見ても問題のない優等生班に見えただろう。
ただ、内側の空気だけが、ずっと危なかった。
全員が全員、恒一を通して互いの位置を確かめていた。
誰がどこで呼ぶのか。
誰がどの話題で近づくのか。
誰がどんな顔をさせるのか。
その確認作業を一日かけてやっていたようなものだ。
そして、そこへ毒島ひよりという新しい矢印が一本刺さった。
放課後、教室へ戻ってからも、その感覚は消えなかった。
ことねは席へ着きながら、小さくぼやく。
「距離感がおかしい子、また一人増えたね……」
「それな」
恒一は本気で同意した。
凛は荷物をまとめながら言う。
「しかも、かなり自然に食い込んできたし」
「“食い込む”って言い方、ちょっと食べ物っぽいな」
「今それ言う余裕あるんだ」
凛が呆れた顔をする。
朱莉は最後まで面白くなさそうだったが、それでも露骨には何も言わなかった。ただ一度だけ、恒一へ視線を向けて、
「気をつけなよ」
とだけ言った。
しおんは静かにノートを閉じる。
「購買、寄る?」
「……行かない」
即答した。
しおんはほんの少しだけ首を傾げた。
「そう」
「今の“そう”の中に何が入ってるんだよ」
「別に」
たぶん別にではない。
ましろは小さく笑って、
「でも、先輩たぶん甘い飲み物は買いますよね」
と言った。
もう何も隠せる気がしない。
いろはだけが、そんな全体の空気を見ながら楽しそうに呟く。
「にぎやかになった」
「お前だけずっと感想が他人事なんだよな」
「他人事じゃないよ」
いろはは窓の外の夕方の光を見たまま言う。
「ちゃんと増えてるの見えてる」
その言い方が妙に正確で、恒一は言葉を失った。
たしかに増えている。
女子高から共学になったばかりのこの学校で、普通の青春を送りたかったはずなのに、気づけば自分の周囲には、ちょっとずつ愛し方の変なヒロインばかりが増えていく。
しかも誰もまだ“好き”とは言っていない。
言っていないのに、距離感だけはもう十分おかしい。
その現実が、一番じわじわくる。
窓の外では夕日が傾き、校舎の壁を淡く染めていた。
今日もまた、普通から少しだけ遠ざかった。
そして恒一は、毒島ひよりという新しい“変食系オタクヒロイン”が、自分の日常へかなり自然に入り込み始めていることを、嫌でも認めるしかなかった。




