第112話 図書室の静けさは、雪代しおんを少しだけ近くする
朝霧凛が作った予定表では、その日は「各自」と書かれていた。
つまり、放課後に全員で集まる日ではない。
前日までの勉強会で出た課題を、自分で整理する日。分からないところを洗い出して、次に持ち寄る準備をする日。
少なくとも、凛はそういう意味で書いたはずだった。
だから黒峰恒一も、その日の放課後はすぐ帰るつもりでいた。
いたのだが。
「……図書室、寄ってくか」
昇降口へ向かいかけたところで、ふと足が止まった。
理由は、はっきりしているようで、はっきりしていない。
英語のプリントで少し引っかかっているところがあった。
数学の復習も、家に帰る前に一問だけ見直しておいたほうがよさそうだった。
凛の予定表の「各自」をちゃんと守るなら、少し自分でやるべきだとも思った。
ただ、それだけではない。
放課後にまっすぐ帰るのが、少し物足りなかった。
文化祭が終わって、勉強会が始まって、前の席へ集まる時間がまた増えた。
そのせいで、何もない日に一人で帰ることが、前より少しだけ静かすぎる。
「……重症だな」
小さくそう呟いて、恒一は図書室のほうへ足を向けた。
◇
図書室は、教室とは違う静けさを持っている。
誰かがいるのに、声が少ない。
本の背表紙が並ぶ棚の間を歩くと、靴音まで少し柔らかくなる。
窓際の席には、数人の生徒が離れて座っていて、それぞれノートや参考書を開いていた。
文化祭の時の教室とも、放課後の勉強会とも違う。
ここには、騒ぐ前の空気がない。
最初から、静かだ。
恒一が空いている席を探していると、窓際の奥に見覚えのある横顔を見つけた。
雪代しおんだった。
小さめのノートを開き、英語の教科書を横に置いて、静かにペンを動かしている。
髪が窓からの光を受けて、少しだけ柔らかく見えた。
声をかけるか、一瞬迷った。
図書室だ。
静かにしていたほうがいい。
邪魔になっても悪い。
そう思って引き返しかけたところで、しおんが顔を上げた。
目が合う。
しおんは少しだけ瞬いてから、手元の席を指先で軽く示した。
来てもいい、ということらしい。
恒一は、小さく頷いて向かいの席へ座った。
「……いたのか」
声をかなり落として言う。
「うん」
しおんも小さな声で返す。
「今日は各自の日だから」
「ちゃんと守ってるんだな」
「黒峰くんも」
「俺は……まあ、少しだけ」
「少しだけ、って言う人はだいたい少しじゃない」
「お前、そういうことも言うのか」
しおんはほんの少しだけ笑った。
図書室では、その小さな笑いさえ大きく感じる。
◇
二人で向かい合って座る。
ただそれだけなのに、教室の前方でみんなと集まっている時とは、距離の感じ方が違った。
図書室では、声を大きくできない。
だから、どうしても少し近い位置で話すことになる。
けれど、騒がしさがないから、近いのに落ち着いている。
しおんはノートの端を少し寄せた。
「英語?」
「そう。昨日の続き」
「関係代名詞?」
「うん。夢咲に説明してたら、自分のほうも一回ちゃんと見といたほうがいい気がして」
「教えると、自分の曖昧なところも見える」
「それ」
恒一は思わず頷いた。
「昨日、ことねには偉そうに言ったけど、こっちも怪しいところあるなって」
「偉そうだった?」
「いや、たぶん普通」
「じゃあ、大丈夫」
「何基準だよ」
しおんは少しだけ考える。
「ことね先輩が、ちゃんと次の問題やったから」
その答えが、しおんらしかった。
教え方の良し悪しを、教えられた側が次へ進めたかどうかで見ている。
「雪代って、ほんとに人の動き見てるよな」
「見てるというか、見える」
「それ、便利だな」
「便利だけど、たまに疲れる」
思ったより素直な答えだった。
恒一は少しだけ顔を上げる。
「疲れるのか」
「うん」
しおんはペンを置いた。
「人が多いと、音も動きも多いから」
「文化祭とか?」
「うん。でも、文化祭は楽しかった」
「疲れたけど?」
「疲れたけど」
しおんは小さく頷いた。
「楽しい疲れだった」
その言い方が、妙に残った。
文化祭が終わってから、みんな少しずつその余韻を言葉にしてきた。
ことねは、準備のほうが長く残ると言った。
凛は、片付けが終わると急に暇になったと言った。
朱莉は、昔から知っているのに今のほうが分かることがあると言った。
しおんは、音で残っていると言った。
そして今は、楽しい疲れ。
同じ出来事なのに、見ている場所が少しずつ違う。
◇
しばらく、二人とも黙って勉強した。
ページをめくる音。
ペンが紙を滑る音。
遠くで本棚の前を歩く生徒の足音。
時計の秒針。
沈黙なのに、気まずくない。
むしろ、教室でみんなといる時よりも、静かに近い気がした。
恒一が文法問題を一つ解き終えて、答え合わせをしていると、しおんが小さく声をかけた。
「そこ」
「ん?」
「たぶん、こっち」
しおんが、恒一のノートの一行を指差す。
指先が近い。
恒一はその部分を見る。
「あ、ほんとだ。先行詞、こっちか」
「うん」
「よく分かったな」
「黒峰くん、そこで少し止まったから」
「止まっただけで分かるのか」
「止まり方が、迷ってる時の止まり方だった」
「……お前、ほんと怖いな」
「怖い?」
「いや、いい意味で」
「いい意味の怖い、ある?」
「たぶんある」
しおんは少しだけ目を細めた。
「ならいい」
それだけ言って、また自分のノートへ戻る。
押してこない。
長く説明しない。
でも、必要なところだけすっと差し出してくる。
しおんの近さは、やっぱり独特だった。
◇
「雪代は」
恒一は声を落として聞いた。
「何?」
「勉強会、どう思ってる?」
しおんは少しだけペンを止めた。
「好き」
短い答えだった。
でも、迷いはない。
「即答だな」
「うん」
「どういうところが?」
「静かに長くいられるところ」
「前も言ってたな」
「うん。あと」
しおんは少しだけ言葉を探した。
「無理に喋らなくても、同じことをしてる感じがある」
「……ああ」
「文化祭は、みんなで一つの場所を作ってた」
「うん」
「勉強会は、みんなで別々のことをしてる。でも、同じ場所にいる」
その違いは、かなり正確だった。
文化祭は一つの目的へ向かう時間だった。
勉強会は、それぞれの問題に向かいながら、同じ場所にいる時間だ。
だから、会話がなくても成立する。
「それが、楽?」
恒一が聞くと、しおんは頷いた。
「うん。楽」
それから少しだけ視線を下げる。
「でも、黒峰くんがいると、少し楽しい」
今度は、恒一が止まった。
「……それ、今ここで言うのか」
「小さい声なら大丈夫」
「そういう問題じゃない」
しおんは不思議そうに首を傾ける。
「違う?」
「違う」
「でも、本当だから」
その“本当だから”は、凛が使うそれとは少し違う。
凛の“本当”は現実を示す言葉だ。
しおんの“本当”は、ただ静かにそこへ置かれる言葉だった。
逃げ道が少ない。
「……そうか」
恒一はそれだけ返した。
しおんはそれ以上追ってこない。
だから余計に、言葉だけが残る。
◇
十分ほど経った頃、図書室の入口のほうから小さな声がした。
「あ」
振り向くと、ことねがいた。
片手に単語帳。もう片方に小さなノート。
図書室なのを思い出したのか、途中で声を落としている。
「……二人、ここにいたんだ」
「夢咲」
恒一が小さく言う。
「各自の日じゃなかったか」
「各自の日だから、私も各自で来たんだけど」
ことねはそう言ってから、二人の机の上を見る。
「……なんか、すごく各自っぽい」
「何だよ、それ」
「静かにちゃんとやってる感じ」
ことねは少しだけ笑った。
その笑いには、茶化しよりも感心が多かった。
「邪魔しちゃ悪いかなって思ったけど、見つけちゃったから」
「座る?」
しおんが静かに聞く。
ことねは少し迷った。
いつものことねなら、すぐ座る。
でも、図書室のこの静けさと、しおんの隣にある空気を見て、少しだけ考えたのだろう。
「……今日は、向こうでやる」
ことねは少し離れた席を指差した。
「でも、分かんなかったら聞いていい?」
「うん」
しおんが頷く。
恒一も小さく頷いた。
「いいよ」
ことねは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「ありがと」
そして、いつもより静かな足取りで、少し離れた席へ座った。
その背中を見ながら、恒一は思った。
ことねも少し変わった。
前なら近くへ来ることを選んだかもしれない。
でも今日は、この静けさを壊さない距離を選んだ。
文化祭のあと、みんな本当に少しずつ変わっている。
◇
しばらくして、今度は凛が図書室に現れた。
入口でこちらを見つけると、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、ことねの近くの席を確認してから、さらに少し離れたところへ座る。
声はかけない。
でも、いる。
朱莉も、少し遅れて来た。
図書室の入口でことねに軽く手を振り、こちらへ視線を寄越してから、凛の近くへ座る。
ましろだけは、最後に来た。
小さな紙袋を持っていた。
図書室内なので声は出さず、入口近くで全員の位置を確認してから、小さな付箋に何かを書いてことねの机へ置く。
ことねがそれを見て、吹き出しそうになって慌てて口を押さえた。
あとで聞いたところによると、付箋にはこう書いてあったらしい。
声量注意。飲み物は外で。
ましろらしすぎて、恒一は笑いをこらえるのに苦労した。
◇
気づけば、勉強会のメンバーは図書室にそれぞれ散らばっていた。
一つの机に集まっているわけではない。
でも、全員が同じ空間にいる。
声は少ない。
教室の勉強会とは違う。
誰かが騒ぐことも、笑い声が広がることもない。
けれど、その静けさの中で、それぞれの存在はちゃんと感じられた。
ことねが少し離れた席で単語帳と格闘している。
凛は予定通りにプリントを進めている。
朱莉は分からないところをメモしている。
ましろは全体を見て、必要そうなタイミングだけ動く。
しおんは、向かいで静かにペンを走らせている。
「……こういうのも、勉強会なのか」
恒一が小さく言うと、しおんは顔を上げた。
「うん」
「みんな別々に座ってるのに」
「でも、いる」
しおんは短く言った。
「それで十分な時もある」
その言葉が、図書室の静けさにとても合っていた。
◇
閉館時間が近づいて、図書委員が小さく声をかけに来た。
それぞれがノートを閉じ、荷物をまとめる。
図書室の外へ出ると、ようやくことねが普通の声で息を吐いた。
「はー……図書室って、緊張する」
「でも、ちゃんとやってたじゃん」
恒一が言うと、ことねは少しだけ笑った。
「うん。今日は雪代さんの空気に合わせた」
しおんが首を傾げる。
「私の空気?」
「そう。静かにやるやつ」
ことねは少し照れくさそうに言った。
「たまにはいいね。ああいうのも」
「うん」
しおんは小さく頷いた。
「静かな勉強会も、いい」
凛が時計を見る。
「明日はまた教室。今日分からなかったところ持ち寄り」
「朝霧さん、図書室出た瞬間に現実戻すのやめて」
「戻さないと明日困るでしょ」
「それはそうだけど!」
朱莉が小さく笑う。
「でも、今日の図書室はよかったね」
「うん」
ましろも頷いた。
「声量以外は安定してました」
「ましろちゃん、それ私に言ってる?」
「はい」
「正直!」
みんなが少し笑った。
その笑い声は、図書室の中では出せなかった分、少しだけやわらかく廊下に広がった。
◇
帰り道、恒一はしおんと少しだけ並んで歩いた。
「今日は助かった」
「英語?」
「それもあるけど」
「うん」
「静かだったから、集中できた」
しおんは少しだけ嬉しそうに見えた。
「よかった」
「雪代がいると、静かにするのが自然になるな」
「それ、いいこと?」
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、かなり」
しおんは小さく笑った。
「じゃあ、よかった」
それだけの会話だった。
でも、その短いやり取りが、図書室の静けさと同じくらい心地よかった。
勉強会は、教室で集まるだけじゃない。
同じ図書室にいて、別々の席で、別々の問題を解いているだけでも成立する。
そして雪代しおんは、そんな静かな時間の中で、誰より自然に近くなる。
恒一はそのことを、図書室の帰り道で静かに理解していた。




