第111話 幼馴染は、勉強会でも“昔から”だけでは隣に座らない
朝霧凛が作った勉強会の仮予定表は、想像以上に効いた。
翌日の放課後。
二年B組の前方の席には、昨日までより少しだけ“始める前から始まっている”空気があった。
黒峰恒一が教室の前方へ行くと、すでに凛はノートを開き、昨日作った予定表を机に置いていた。
夢咲ことねは英語の教科書と単語帳を抱えて、どこか覚悟を決めたような顔をしている。
雪代しおんは静かに席へ座り、小鳥遊ましろは飲み物を倒れにくい位置へ置いていた。
そして火乃森朱莉は、窓際の席で少しだけ立ち止まっていた。
「火乃森?」
声をかけると、朱莉はゆっくりこちらを見た。
「ん」
「どうした」
「別に」
そう言う顔ではなかった。
恒一が少しだけ首を傾げると、朱莉は小さく苦笑した。
「どこ座ろうかなって思ってただけ」
「そんなに悩むことか?」
「勉強会だと、ちょっとね」
その言い方が妙に引っかかった。
文化祭前なら、朱莉はたぶん何も考えずに近くへ座っていた。
幼馴染だから。
昔から知っているから。
近くにいても不自然じゃないから。
でも最近の朱莉は、その“昔から”という便利な言葉を、少しだけ慎重に扱っている気がした。
「火乃森さん、こっち空いてるよ」
ことねが明るく言う。
恒一の斜め前の席だ。
確かに勉強するにはちょうどいい位置だった。
朱莉は一瞬だけそこを見る。
そして、少しだけ考えてから、恒一の真横ではなく、ひとつ机を挟んだ位置へ座った。
「そこなんだ」
ことねが言う。
「うん」
「なんか、火乃森さんなら普通に黒峰くんの隣座るかと思った」
ことねの言葉は軽い。
でも、前方の空気がほんの少しだけ静かになった。
朱莉は教科書を机へ置きながら、小さく笑った。
「隣じゃなくても見えるし」
「……なるほど?」
ことねは少しだけ目を細める。
「それ、ちょっと何か考えてるやつ?」
「少しは」
朱莉は否定しなかった。
凛が予定表から顔を上げる。
「火乃森さん、最近そこ気にするよね」
「そこ?」
「幼馴染だから自然に近くなれる、ってところ」
凛は相変わらず淡々としている。
だが、その淡々さが逆に核心を突いていた。
朱莉は少しだけ息を吐いた。
「まあね」
「え、認めるんだ」
ことねが目を丸くする。
「だって、実際そうだし」
朱莉はシャーペンを出しながら言った。
「昔から近いからって、今も何も考えずに近くいていいってわけじゃない気がして」
その一言で、恒一は何も言えなくなった。
◇
今日の勉強会は、凛の予定表によれば英語文法の日だった。
「今日は範囲の文法を確認。まず夢咲さんの苦手なところから」
「なんで私基準!?」
「一番確認が必要そうだから」
「言い方!」
ことねが抗議するが、凛はまったく揺れない。
「あと、黒峰は最初にざっくり説明。私が後で細かく直す。火乃森さんは例文の確認。雪代さんは、夢咲さんが止まったところを見てて」
「私、完全に観察役になってない?」
しおんが静かに首を傾げる。
「合ってるでしょ」
「うん」
「認めるんだ……」
ことねが苦笑する。
ましろが小さく手を上げた。
「私は、途中で休憩を入れます」
「小鳥遊さん、それもう自分の役割を完全に把握してるね」
凛が言うと、ましろは静かに頷いた。
「必要なので」
恒一はそのやり取りを聞きながら、朱莉のほうをちらっと見た。
朱莉は英語の教科書を開いている。
いつも通り落ち着いているように見える。
でも、さっきの一言がまだ残っていた。
昔から近いからって、今も何も考えずに近くいていいわけじゃない。
それは、朱莉が自分自身へ言い聞かせている言葉のようにも聞こえた。
◇
「じゃあ、ここ」
ことねが英文法の問題を指差す。
「関係代名詞、ほんとに途中から急に知らない顔してくる」
「また教科に顔つけるのか」
恒一が言うと、ことねは真剣に頷いた。
「数学も英語も、急に知らない顔してくるんだよ」
「教科が悪いんじゃなくて、夢咲さんが途中で見失ってるだけ」
凛が容赦なく言う。
「朝霧さん、今日も現実が強い!」
「現実を見に来たんでしょ」
「勉強会、逃げ場なさすぎる……」
ことねは嘆きながらも、ちゃんとノートを開いた。
恒一は問題文を見る。
「まず、ここで何を説明してるか見る」
「うん」
「この文だと、先行詞がこれ」
「先行詞……」
「そこからもう怪しいのか」
「怪しくない! ただ、単語としてちょっと怖いだけ!」
ことねが言うと、朱莉が横から静かに口を挟んだ。
「ことね先輩、先行詞って“前にいるやつ”くらいで最初は見ればいいよ」
「前にいるやつ」
「うん。難しい名前で固まると進まないから」
その言い方は、恒一や凛とは少し違った。
恒一は入口を作る。
凛は正確に整理する。
朱莉は、怖がらせない程度に言葉をほどく。
「あ、それならちょっと見えるかも」
ことねが顔を上げる。
「前にいるやつを、後ろから説明してる?」
「そう」
朱莉は小さく頷く。
「後ろから補足してる、くらいで見てもいい」
「火乃森さん、教えるのうまくない?」
ことねが目を丸くする。
「そう?」
「うん。なんか、言葉が怖くない」
それを聞いて、朱莉は少しだけ照れたように笑った。
「それはよかった」
恒一はその横顔を見て、少し驚いていた。
朱莉は昔から、派手に教えるタイプではなかった。
でも、相手がどこで怖がっているかを見て、そこへ柔らかい言葉を置くのはうまい。
幼馴染だから知っているはずなのに、今初めて気づいたみたいな感覚があった。
◇
ことねが問題を解いている間、朱莉は恒一のほうへ少しだけ視線を寄越した。
「何」
恒一が小声で聞く。
「いや」
「いや、じゃ分かんないだろ」
「黒峰、ちょっと驚いてる顔してた」
「してたか?」
「してた」
朱莉は小さく笑う。
「私が教えるの、意外だった?」
「意外っていうか」
「うん」
「言い方、うまいなって」
そう言うと、朱莉は一瞬だけ目を伏せた。
「……そっか」
「なんだよ」
「いや、そういうふうに見られるの、ちょっと変な感じ」
「変?」
「うん。昔から知ってる相手に、今さら新しいところ見つけられるのって」
その言葉は、前に一緒に帰った時の話と繋がっていた。
昔から知っている。
でも、今のほうが分かることがある。
勉強会でも、それは同じらしい。
「別に、昔から全部知ってたわけじゃないだろ」
恒一が言うと、朱莉は少しだけ目を丸くした。
「……黒峰がそれ言うんだ」
「何でだよ」
「いや、なんか」
朱莉は苦笑する。
「ちょっと嬉しかった」
その言い方が、思ったより素直で、恒一は返事に詰まった。
そこへ、ことねが顔を上げる。
「ちょっと待って」
「何」
朱莉が聞く。
「今、そっちだけ何かいい空気になってなかった?」
「なってない」
恒一が即答する。
「その即答、逆に怪しい」
「夢咲さん、今自分の問題に集中」
凛が冷静に言う。
「うっ……はい……」
ことねはしぶしぶノートへ戻った。
だが、前方の席の空気は少しだけ変わっていた。
◇
しばらくして、ことねが一問を解き終えた。
「できた!」
「見せて」
凛が確認する。
「うん、合ってる」
「ほんと!?」
「ただ、ここはもう少し丁寧に書いたほうがいい」
「やっぱり一個は現実が来る!」
「でも合ってる」
「ならよし!」
ことねはかなり嬉しそうだった。
ましろが、そっと紙コップを近づける。
「夢咲先輩、今のうちに一口飲んでください」
「ましろちゃん、私が一問解くたびに飲ませようとしてない?」
「焦りと喜びで声が上がるので」
「見られすぎてる……」
しおんが小さく言う。
「でも、今日のことね先輩、昨日より息が止まってない」
「え、それ成長?」
「うん」
「やった!」
ことねは単純に嬉しそうだった。
その様子を見て、朱莉が小さく笑う。
「ことね先輩、褒められるとちゃんと伸びるタイプだよね」
「火乃森さん、それなんか優しいけど恥ずかしい」
「本当だから」
「みんな最近“本当だから”で攻めてくるのやめて」
笑いが起きる。
勉強会の空気は、昨日より少し落ち着いていた。
誰がどこで何をするか、少しずつ分かってきたからだ。
そして今日、恒一がいちばん見ていたのは朱莉だった。
彼女は、隣へ座らなかった。
幼馴染だからという理由で、当然のように近くへ来ることをしなかった。
でも、離れたわけでもない。
必要な時には言葉を置き、怖くない説明をして、ことねを助け、時々こちらを見る。
その距離感が、朱莉らしかった。
◇
勉強会が終わる少し前、凛が予定表に印をつけた。
「今日はここまででいいと思う」
「え、もう?」
ことねが聞く。
「まだやりたい?」
「いや、やりたいかと言われると微妙だけど、今日はちょっと進んだから、もう少しいける気もして……」
「そこで止める」
凛がきっぱり言った。
「できる気がする時に少し残して終わるほうが、次も来やすい」
「朝霧さん、ほんとに逃げ場を作ってるのか塞いでるのか分かんない」
「どっちも」
朱莉が言う。
「できるように塞いで、壊れないように開けてる」
凛が少しだけ朱莉を見る。
「……火乃森さん、今日けっこう言うね」
「そう?」
「うん」
朱莉は少しだけ笑った。
「勉強会だからかな」
「何それ」
「文化祭の時と違って、声の大きい人だけじゃなくて、静かに言う人の言葉も届く感じがする」
その一言に、しおんが小さく頷いた。
「うん。勉強会は、静かな声が残りやすい」
「雪代さんが言うと説得力あるなあ……」
ことねがしみじみ言う。
◇
帰り支度を始める中で、恒一は朱莉の席の横へ立った。
「火乃森」
「ん?」
「今日、助かった」
朱莉は鞄へ教科書をしまう手を止めた。
「何が」
「ことねへの説明。あれ、俺だとたぶん少し硬かった」
「黒峰は入口作るのうまいけど、そこから怖くない言葉にするのはちょっと雑だもんね」
「普通に刺してくるな」
「本当だから」
「お前までそれ言うのか」
朱莉は笑った。
その笑顔は、昔から知っているもののはずなのに、今は少し違って見えた。
「……隣に座らなかったの、なんで?」
恒一が聞くと、朱莉は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ視線を落として言う。
「幼馴染だからって、何でも自然にしすぎるのは違うかなって」
「やっぱりそれか」
「うん」
朱莉は鞄の持ち手を握る。
「でも、離れたいわけじゃないよ」
その言葉は、かなり静かだった。
「昔から近い、だけじゃなくて」
朱莉は続けた。
「今の私として、ちゃんと近くにいたいだけ」
恒一は、すぐには返せなかった。
その言い方は、今日の朱莉そのものだった。
隣に座らない。
でも、離れない。
必要なところで言葉を置く。
昔の近さに甘えすぎず、今の距離を選び直す。
「……そっか」
ようやくそう言うと、朱莉は少しだけ笑った。
「うん」
「じゃあ、今日の距離はそれで正解だったのか」
「たぶんね」
朱莉は鞄を持ち上げる。
「勉強会、次もあるし」
その一言が、妙に自然だった。
文化祭とは違う。
でも、勉強会もまた距離を変える。
幼馴染は、勉強会でも“昔から”だけでは隣に座らない。
けれど、隣に座らなくても、ちゃんと近くにいる方法を知っている。
それを黒峰恒一は、その日の英語勉強会で初めてはっきり見た。




