生きる意味と死にゆく者
未来で、彼から聞いた話だ。
私たちが生まれるより、はるか昔。
この世界には二柱の神がいた。
創世の神オフィリアと破滅の神ドゥール。
オフィリアは世界を創造し、大地を作り、生物を生み出した。
ドゥールは、オフィリアの世界に魔をもたらした。
ドゥールがもたらした魔の力は、一部の生物は進化に不具合を生じさせ、魔物となる。
そして魔の力は人間をも異形の存在へと変質させた。
そしてある時二柱の神はこの世を去った。
神々に見捨てられた私たちは、何千年、何万年とその命を繋いできた。
いつか、神々と相まみえるその時まで、私たちは生き続けなければならない。
だが、滅びの時は近い。
答えはすでに出ている。
破滅へと誘なう災禍は、すぐそこまできている。
私は願うしかない。
あの変数が、どうか私の計算を狂わせてくれることを。
――――――
「そんなのダメです!」
3人は洞窟の中で、火を囲んで、今後どうするかを話し合っていた。
というより、レイが一方的に作戦を告げていた。
いや、作戦というほどのものでもない。
あの双頭の蛇――ウロボロスに遭遇した時と同じだ。
ヴェルを囮にして、2人が逃げる。ただそれだけ。
そんな中、セシルはその作戦に異を唱えた。
「――なぜだ?合理的な判断だろう」
セシルの反対に、ヴェルの方がセシルを問い詰める。
ヴェルから向けられる感情のない冷たい視線に、セシルは声を荒げる。
「なぜって……あなたは、死なないから何をしてもいいなんて、そんなの間違ってます!」
声を荒げるセシルに反比例するように、ため息をつくレイの声は、冷たく凍てついていく。
「セシルさん、いい加減にしてください。この状況で、全員が生き残る可能性をわざわざ捨てるんですか?――それに他でもないヴェルさんが、それでいいと言っているんですよ」
セシルは、先ほどこの状況はヴェルのせいだと言い放ったレイに憤っている。
お前のせいなのだから、自分たちの代わりに死ねと言っているように聞こえる。
「言わせているだけのくせに!――ヴェルさんもです!今までがそうだったからといって、これからもそうあり続ける必要はないんです……もっと、」
セシルはヴェルのそばに歩み寄り、その手を握る。
そして顔を上げ、真っ直ぐにヴェルの目を見て、続く言葉を絞り出す。
「もっと自分を大切にしてください!」
『自らを守りなさい』
炎に照らされたセシルの顔が、一瞬誰かと重なったように見えた。
まるで自らの胸を抉られたかような、悲痛な表情をするセシル。
ヴェルは思わず顔を背けてしまう。
彼女のまっすぐな視線を、受け止めることができなかった。
反射的な行動だった。
自分でもなぜそうしたのかわからない。
何を言えばいいのかもわからない。
ただ、彼女に握られた手だけは温かく、冷たい氷を溶かすように、じんわりとセシルの体温がヴェルへと移っていくのがわかる。
その温かさは、昔誰かからもらったことがあるような、そんな気がした。
「……次で、いいなら考えてみよう」
「え?」
ヴェルの脈絡のない発言は、何か言葉を聞き逃したかのように、前後の会話と繋がっていなかった。
そして、ヴェルはぽつりと、彼を縛る呪いの言葉を口にする。
「昔、誰かに言われたことがある。
人を助けなさい
自らを守りなさい
人を殺さない
これは、これだけは守らなければならない、とそう思っている」
今までこれを人に話したことはなかった。
ヴェルの記憶が曖昧だったのもあるが、話す必要もないと思っていた。
この記憶は、ヴェルが覚えている限り1番古い記憶だ。
『誰か』にもらった記憶だ。
これだけは誰に何を言われても守ってきたつもりだ。
だが、それだけでは不十分だったのかもしれない。
「――誰の、言葉なんですか?」
レイは、ヴェルの行動方針を少しだけ意外に思ったが、それと同時にこれまでのヴェルの行動に納得もできた。
基本的に誰の指示にでも従うこの男が、絶対に拒否した行動、それは――人殺しだ。
今まで様々な依頼が来たが、その中でも暗殺や襲撃、間接的にでもそれに関わる行動を、この男は全て拒否していた。
そんな経緯があったからこそ、レイは日頃ヴェルのことを恐れていながら、今まで行動を共にすることができていた。
「――名前は知らない。俺に言葉を教えた、赤い髪の女だ」
「その人が、どんな方なのかはわかりませんが、優しい人だったんですね」
セシルの言葉に、ヴェルは記憶を辿っていくが、そんな記憶は残っていない。
「――どうだかな」
「それで、『次』というのは?」
セシルは脈絡のなかったヴェルの言葉を拾い上げる。
「ああ、優先順位だ。人を助ける、己を守る、人は殺さない。――先の順に守らなければならない。ゆえに誰かを見捨てて、己を守ることはできない」
「それは……」
セシルは言いかけて、悟る。
もしかしたら、これは優しさなんかじゃないのかもしれない。
残酷な、彼を人とも思わないただの命令。
以前のダンジョンにいた、ゴーレムと同じ。
心のない人形に、指示を組み込んだだけ。
それと同時に、もう一つ。
彼は、守るべき対象の私たちがいる限り、自分を守ることができないということ。
レイは1人でも逃げられる。
気配を消して行動し、魔物に見つからずに馬車まで行って、戻って来ることができた。
ならばこの状況からの離脱も可能だろう。
だがセシルは、レイほど完璧に気配を消すことはできない。
自分を連れていては、レイは逃げ切れないかもしれない。
つまりこの場でセシルだけが足でまといであり、ヴェルを殺す要因となってしまっている。
そのことを知ったセシルは、言葉を失う。
自分が未熟で、弱いばかりに、彼の死を止めることができない。彼を守ることが、できない。
彼の言葉通り、邪魔で迷惑でしかない。
セシルは握っていたヴェルの手を、そっと離す。
手を離す際に、氷に張り付いた皮膚を剥がすような、僅かな痛みを覚える。
そして、熱を奪われてしまったかのような冷たさに指がかじかみ、震える。
「――わかり…ました」
セシルは力無く頷き、その目からは雫が溢れる。
ヴェルの手のひらに温かい涙が落ちる。
そこには俯いた彼女の顔が映っていた。
弱くて、情けなくて、己の無力を呪うことしかできないセシルの表情。
ヴェルはそっとその手を閉じる。
そして手のひらに落ちたその雫は、ヴェルの凪のような心にひとつだけ波紋を残した。
――――――
生きることに、意味などない。
食べることに、意味などない。
眠ることにも、意味などない。
笑うことにも、意味などない。
泣くことにも、意味などない。
争うことにも、意味などない。
そして、死ぬことにも。
日の出と共に、ヴェルは歩き出す。
日の光が照らし出すは、見上げるほど大きな山のように、悠然と待ち構える強大な魔物。ウロボロス。
左右の頭をゆらゆらと動かして、ヴェルとの間合いを測っている。
ヴェルは微塵も臆することなく、歩を進める。
取り止めのない思考が浮かんではほどけていく。
されど、己が敵から目を離すことはなく。
――人を、彼女たちを助けることに、どれほどの意味があるのだろうか。
数十年も経てば、彼女たちは死ぬ。
ヴェルが助けても、助けなくても、死ぬ。
それはこの世界を生きるものに、等しく訪れる終わり。
ならば今、彼女たちを助けることに、意味などはないのかもしれない。
今こうしている間にも、ヴェルの知らないところで、手の届かないところで、何百、何千もの人間が死んでいる。
目の前の1人2人が死んだところで、この世界は何も変わらない。
それでも、拳を握る。
彼女の涙が落ちた手は、いまだ熱を持ち、力強く脈を打つ。
その熱は、ゆっくりとヴェルの全身に染み渡り、魔力が噴き出す。
琥珀色の陽光が魔力に反射し、まるで燃えているように、ヴェルの全身を包み込む。
こいつをここで足止めしなければ、彼女が死ぬ。
紙屑同然に食い殺されて、熱を失い、冷たくなっていく彼女の姿など、考えたくもない。
一歩、また一歩と距離を詰める。
互いに、射程に入った。
だが、魔力凝結は使わない。
止められるのは、頭ひとつが関の山。
ならば、両の手に硬く握った拳を叩きつけるしかない。
ヴェルは身を屈めて、足に力を込める。
そして噴き出す魔力に身を任せ、砲弾のように勢いよく地面を蹴る。
敵も身を縮めて、迎撃の態勢をとる。
だがそれよりも早くヴェルが一瞬でウロボロスの眼前に到達する。
そしてヴェルは硬く握った拳で、その鼻っ柱を力任せに殴り飛ばす。
瞬きの間の出来事に、ウロボロスは対応できない。
周囲に轟音を響かせながら、巨大な体は後ろにのけ反り、木々を巻き込みながら倒れていく。
拳を振り抜いたヴェルは、空中で一瞬静止したのち、大地の引力によって落下していく。
そして落下地点には、音もなく移動して大口を開けて待ち構える、もう一方の頭。
まるで奈落の底のようなウロボロスの口の中には、無数の牙が生えており、ヴェルを食い殺さんと襲いかかる。
食い付かれる寸前のところで、体を捻りギロチンのように振り下ろされる牙を掴んで止める。
万力のようにギリギリと締め付けられ、徐々にその牙がヴェルの腕に食い込んでいく。
腕の骨がミシミシと悲鳴を上げ、牙が肉を抉り、骨を削る音が脳を震わせる。
そして牙が重なる直前、ヴェルはあえて力を抜いて牙から手を離す。
そして勢いよく閉じられる牙と同時に、ウロボロスの下顎を思い切り蹴り上げる。
ウロボロスは己の牙が口の中で上下に刺さり、鮮血が吹き出す。
ヴェルは血の雨を浴びながら、転がるように地面に着地する。
着地と同時に、すぐさま先に殴り飛ばした頭に、追撃をせんと走り出す。
だがそこで、ヴェルの視界の外から、大木のような尾が振るわれる。
尾が空気を切り裂く衝撃波だけで、周囲の若木が根こそぎへし折れた。
咄嗟に両腕で防御するが、直撃を受けたヴェルは吹き飛び、背後の巨岩に陥没する。
バキリ、と骨の折れる音が脳に響く。
肺腑が潰されて、喉の奥から血がゴボゴボと溢れ出す。
自らの血で溺れそうになるも、ヴェルは胸を殴りつけ、喉に詰まった血を全て吐き出す。
ヒューヒューと浅い呼吸を繰り返しながら、懸命に空気を取り込み、立ち上がる。
どこの骨が折れたのかは知らないが、体はまだ動く。
四肢も繋がっている。
まだやれる。だが、ウロボロスの頭はふたつとも健在であり、体勢を立て直しつつある。
この一瞬の攻防で、ヴェルは悟る。
この強大な相手に対して、足止めなどという思い上がった思考が無意味だということを。
――殺す。それしかない。
ヴェルは崖を背にして、再び強大な敵へと対峙する。
敵は頭がふたつに尾がひとつ。
実質3対1のような状態で、ヴェルは敵の攻撃を躱わし、いなし、防御する。
三方向からの攻撃に、ヴェルの体力と精神はジリジリと削られ、消耗していく。
このままでは、いずれすり潰される。
だが、ヴェルは敵の猛攻に耐え、機会を伺う。
吹き出す魔力を抑えて、腹の底で厚く練り上げる。
まだだ、まだ足りない。
狙うは、一撃。
2匹の頭の分かれ目、身体の中心。
あんな歪な生物なのだ。
繋ぎ目が弱くないはずがない。
付け根の部分はさぞ脆かろう。
身体の中の魔力を限界まで圧縮する。
だが、硬質化はしない。
しなやかに柔らかく魔力を押しつぶす。
全身に勢いよく血が巡り、チカチカと視界が明滅し、意識が飛びそうになる。
硬く握った右腕に、ヴェルは全魔力を叩き込む。
骨が軋む、肉が裂ける、血管が焼ける、だがそれでも止めない。
腕に集中した魔力は溢れ出し、真紅に輝きだす。
ウロボロスの猛攻は止まらない。
だが、こちらの準備は整った。
ウロボロスの首が伸び切ったその一瞬、ヴェルはバネのように飛び出して、ウロボロスの急所を狙う。
瞬きすらも間に合わない一瞬でヴェルは二つの頭をすり抜ける。
ウロボロスの体の中心に到達すると、その真紅の拳を叩き込む。
そして、今まで押しつぶされていた魔力が、着弾と同時に一気に解放される
ヴェルの拳を中心に、膨大な魔力の爆発が起こる。
――零撃・破界
一瞬の静寂の後、ヴェルの視界が白く染まる。
それはヴェルの魂が初めて上げた、産声のような荒々しい魔力だった。
全てを破砕する終焉の光が、敵を飲み込み、轟音が響く。
そしてその光はヴェルの全身を包み込み――その身体は光の中に静かに溶けていく。
薄れる意識の中で、あの時彼女が流した涙が、どうしてか脳裏から離れなかった。
――死にたくない。
初めて、そう思った。




