席で分かる
兵頭匡平が教室へ入った時、いちばん先に目に入ったのは、自分の席ではなく、もう形になっている教室の並びだった。
朝の教室は、もう半分ほど埋まっている。窓が開いていて、春の乾いた空気が薄く入っていた。声はあるが、騒がしくはない。朝の声が低く重なっている音だった。
兵頭は鞄を肩にかけたまま、前の方から教室を見た。
細かく確認する必要はない。前の方。中央。通路側。窓側。前後と左右の顔ぶれだけで足りた。
榊原は、黒板と教室全体の両方が見える位置にいる。前へ出る時にも、後ろを振り返る時にも無理がない。ああいうやつは、席に座っているだけでクラスを回せる。
九条院エリカは、その少し外れだ。正面から少しずれた位置なのに、前を向けば視界に入る。目に入りやすい席にいる。
御厨紗良は九条院の少し後ろだ。あれなら、九条院にも他の女子にも声をかけやすい。
悠木の席を見た時、兵頭は一度だけ目を止めた。前へ押し出される席ではない。男子の列からも、女子の列からも遠くない。話しかけられるにも、声を返すにも都合がいい位置だ。あいつらしいと思った。人の真ん中へ立たなくても、輪の外にこぼれることがない。
それで、自分の席の列を見た。
黒板から少し離れた列。前へ出る席ではない。後ろすぎもしない。立てば全体が見える。呼ばれればどちらへも動ける。
表に映える席ではない。
兵頭は、そこでようやく鞄を下ろした。
自分の席に腰を下ろす。椅子の位置を少しだけ引く。立つ時に机へ膝を当てない幅を取る。癖みたいなものだった。
不満はなかった。そういう位置になるだろうとも思っていた。
問題は席ではなく、周りの目だった。
教室の中の何人かは、兵頭の顔を見て、それから教室全体へ視線を戻した。あるいは、ほかの顔ぶれを眺めてから兵頭を見た。
嫌なものではない。追い返したいわけでも、侮って笑いたいわけでもない。ただ、この教室に兵頭がいる理由をまだ測りきれていない顔だった。
なぜこの顔ぶれの中にいるのか。
その問いは、声にならなくても分かる。
家柄に目を引くものはない。見栄えで前へ出る顔でもない。愛想があるようにも見えない。そういう人間が二年A組にいる。
兵頭は、そういう視線に慣れていた。
慣れていても、気分がいいものではない。
ただ、今さら腹を立てるほどでもなかった。
「おはよう、兵頭くん」
先に声をかけてきたのは牧瀬だった。兵頭が顔を向けると、牧瀬は自分の席の近くで鞄を整えている。探る気配がない。それが牧瀬にはいつも通りらしかった。
「おう。おはよう」
それだけ返す。
十分だった。
その少しあとで、九条院が教室へ入ってきた。視線が自然にそちらへ流れる。本人はそれを知っている歩き方だった。
自分の席のあたりを確かめたあと、彼女は兵頭の方を見た。
「おはようございます、兵頭さん」
「おはよう」
その直後に入ってきた御厨は、九条院が兵頭へ声をかけているのを見ると、目元だけで笑った。
「朝から頼もしいわね」
軽い調子だった。持ち上げすぎない。けれど、視線の先は明確だった。
兵頭は短く息を吐いた。
「大げさだ」
御厨は楽しそうに目元だけで笑った。
「何もないなら、それがいちばんよ」
こういうやり取りに裏がないとは思わない。
御厨は、言葉をどこへ置けば角が立たないかを知っている。そのうえで言う。
ただ、兵頭がここにいること自体を不自然だとは見ていない。それも分かった。
女子側から向く視線や声は、男子のそれより扱いに困る。
柔らかいからではない。柔らかく来られた時に、どこまで構えを緩めていいのかが分かりにくい。
兵頭は、それを顔には出さなかった。
榊原が来たのは、そのあとだった。
教室へ入る時点で、もう歩幅がその場の基準になる。嫌味ではない。そうなるように育ってきたやつの自然さだった。
榊原は自分の席へ向かう前に、軽く教室を見渡した。その視線が兵頭へ触れた時、ごく短い間があった。
「おはよう、兵頭君」
呼び方も調子も丁寧だった。
だが、まだ距離の置き方を決めきっていないのが分かる。
「おはよう」
兵頭もそれ以上は乗せない。
そのくらいが普通だろう、と兵頭は思った。
扉の方で、少しだけ空気がゆるんだ。
振り向くまでもなく分かる。悠木と影山だった。
二人は並んで教室へ入ってきた。近すぎず、離れすぎず、片方が半歩前に出ることもない。長く同じ速さで歩いてきた並び方だった。
悠木は自分の席へ向かうより先に兵頭を見つけた。
「もう来てたのか」
兵頭は鼻で笑う。
「お前が遅いだけだ」
影山は教室の中を一度だけ見た。
もう見慣れた並びのはずなのに、前の方の空気と、静かな席のまとまりだけを確かめるみたいだった。
それでも何も説明しない。
兵頭の方を見て、ほんのわずかに目を止めただけだった。
牧瀬がそのやり取りを自然に聞いている。九条院も御厨も、そこに割って入らない。
笹倉は遅れて来て、兵頭を見つけるなり「よう」とだけ言って笑った。兵頭も「おう」とだけ返した。
驚きの薄い側と、まだ測りかねている側。
同じ教室にいても、その差は朝のうちから見えていた。
教室はまだざわついている。だが、そのざわめきの中にも、声が集まる席と、聞く側へ回る席、輪ができやすい場所がもう出ていた。
担任の柏木が入ってくると、空気が一段だけ締まった。
「着席してください。始めます」
声は高くない。それで足りる教室だった。
榊原が立つより先に、何人かがもう姿勢を正している。九条院は音を立てずに座り直し、御厨は最後の一言を飲み込むように口を閉じた。悠木は机へ手を置き、影山は視線を前へ戻す。
兵頭も椅子を引き戻した。
席が決まった時点で、もう半分は決まっている。
前へ立つ顔。つなぐ役。黙って支える側。
教室は何でもない四月の朝の顔をしていた。
その顔のまま、もう使い方を選び終えているように見えた。




