表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東都院物語  作者: 橘鉄真
2/3

プロローグ2

 ――私立東都院学園高等部入学試験において、悠木湊氏の合格を確認。


 その一文は、報告というにはあまりにも静かだった。

 喜ばしい、と書かれているわけではない。優秀である、と飾られているわけでもない。確認、という語が置かれているだけだった。事実を事実として扱うための、乾いた言葉である。

 篤胤は、その行をしばらく見ていた。

 東都院学園高等部。

 その名は、徳川家にとって遠いものではない。旧家、官僚、財界に連なる家々の子弟が、穏やかな顔をして集まる場所だった。表には学識と節度が掲げられ、廊下には磨かれた床と、静かな挨拶と、よく整えられた制服が並ぶ。

 だが、そこに流れているものは、ただの学校生活だけではない。

 そこでは、言葉にされない序列や距離が、日々の所作の中で少しずつ身についていく。誰かが教壇に立って教えるわけではない。けれど、子供たちは、いつの間にかそれを覚える。

 湊は、そこへ入ろうとしている。

 余計な名札を、何ひとつ持たずに。


 篤胤は、手元の紙を一枚めくった。

 次の頁には、形式に従って整理された項目が並んでいた。氏名、生年月日、現住所、保護者、入学区分。どれも、学校へ提出される書類から写されたものなのだろう。特別な記述はない。必要な情報を、必要な順に置いただけの紙面だった。

 氏名、悠木湊。

 篤胤は、そこでは止まらなかった。

 年齢、十五歳。

 中等教育課程修了見込み、と小さく付記されている。

 それも、すでに聞いていたことだった。年月は、数えようとしなくとも積み重なる。幼い子供だったはずの者が、いつの間にか高等部へ上がる年になっている。驚くようなことではない。生きていれば、そうなる。

 ただ、その当然の進み方を、篤胤は近くで見ていなかった。

 字を覚えた時も、背が伸びた時も、声が変わり始めた時も、篤胤は知らない。報告として、後から知るだけだった。何月何日、予防接種済み。何年、転居なし。何年、進級。何年、事故・疾病等の重大報告なし。

 重大報告なし。

 その無事を、喜ばないわけがなかった。

 篤胤はゆっくりと目を進めた。

 保護者欄には、悠木宗一郎、悠木椿子の名があった。

 その二つの名で、篤胤の視線はようやく止まった。

 宗一郎。

 直接会ったのは、もう何年も前のことになる。控えめな態度の奥に、容易には崩れないものを持つ男だった。官僚らしい硬さがあり、言葉を選ぶ時には、目だけが少し強くなる。自分が不利な立場にいることを理解していながら、卑屈にはならなかった。

 椿子については、書類と人づての報告で知ることのほうが多い。

 ただ、湊に関わることでは、静かに譲らない人だと聞いていた。

 報告書は、二人を褒めてはいなかった。

 ただ、保護者としての養育状況に問題なし、とだけ記している。

 それで十分だった。

 十分であるはずだった。


 篤胤は、指先で紙の端を押さえた。古い銀のペーパーナイフは、机の右手に置かれたまま、暖炉の火をかすかに映していた。

 次の項目には、学力についての所見があった。

 学業成績は良好。主要科目に大きな偏りなし。入学試験における成績は上位層。ただし、首席相当ではない。

 篤胤は、その一文でわずかに息を吐いた。

 首席でないことに落胆したのではない。

 むしろ、その記述に安堵した。

 過剰な秀才として飾られていない。誰もが振り返るような神童として扱われているわけではない。努力し、よく学び、一定以上の結果を出した少年として、そこにいる。

 そのほうがよかった。

 本人の知らないところで、誰かが意味を与えてはならない。そういうものが世の中にはある。善意のつもりで置かれた札でさえ、一度貼られれば、本人より先に歩き出してしまう。

 悠木湊は、一般受験で東都院へ進む。

 東都院では、多くの生徒が幼いころから同じ門をくぐり、そのまま上へ進んでいく。高等部から試験を受けて入る者は、いないわけではない。ただ、多くはなかった。

 その狭い入口を、湊は自分の成績で越えた。

 その事実の静けさが、篤胤には少し眩しかった。


 紙面の下には、生活態度の所見が続いていた。

 遅刻欠席少。校内での問題行動なし。教師評価は概ね良好。対人関係に大きな問題なし。友人関係は限定的ながら安定。

 篤胤は、そこを一度読み、少し戻ってもう一度読んだ。

 対人関係に大きな問題なし。

 友人関係は限定的ながら安定。

 ずいぶん事務的な言葉だった。

 少年の周りにいる友人の数も、昼食を誰と取るのかも、放課後にどの道を帰るのかも、この書き方では分からない。分からないのに、分かったような気にさせるのが報告書だった。

 篤胤は、机の上に置かれた添付資料へ手を伸ばした。

 薄い紙の間に、数枚の写真が挟まれている。

 大きなものではない。学校行事の記録写真か、離れた場所から撮った確認用のものだった。いずれも、湊を中心に撮った写真ではない。集団の中にいる一人として、そこに写っている。

 篤胤は、最初の一枚を取り出した。

 校門前だろうか。

 冬の光の中で、生徒たちが何人か歩いている。制服姿の少年少女が、校舎へ向かって流れていく。その少し後ろに、黒髪の少年がいた。

 湊だった。

 篤胤は、写真を近づけなかった。

 目を細めれば見える距離で、あえて止めた。まじまじと見ることが、何かを越えてしまうように思えたからだった。

 背は高すぎない。細身で、制服はきちんと着ている。目立つほど華やかではない。だが、周囲から浮いてもいない。肩に余計な力がなく、歩幅も急いていない。

 普通の少年に見えた。

 そう見えることが、これほどありがたいとは、かつての篤胤は知らなかった。

 写真の端には、別の生徒がこちらを振り返っている。湊はその視線には気づいていないらしく、隣を歩く生徒へ顔を少し向けていた。口元がわずかに緩んでいる。笑顔というほど大きなものではない。何か短く言われて、返そうとしている顔だった。

 篤胤は、写真を伏せた。

 胸の奥に、喜びに似たものが上がってくる。

 それは、あまりよい感情ではないようにも思えた。

 報告書の中でしか知らない少年が、穏やかに笑っている。そのことを嬉しいと思う。それ自体は、罪ではない。だが、その笑顔がここに届くまでの距離を思えば、喜びだけを取り出すことはできなかった。


 篤胤は報告書へ視線を戻した。

 部活動欄には、弓道部、とあった。

 活動態度は良好。競技成績は校内上位から中位上位。全国大会級の成績はなし。基礎に習熟。練習参加状況に大きな乱れなし。

 その記述にも、妙な飾りはない。

 全国大会級の成績はなし。

 篤胤は、そこに小さな安堵を覚えた。

 人は、特別なものを見つけたがる。家名、成績、容姿、技量、血筋。何か一つでも目立つものがあれば、それを理由に物語を作る。

 だが、湊はそうではない。

 少なくとも、この紙面の中では。

 よく学び、問題を起こさず、部活動にも真面目に出ている。友人関係は広すぎないが、孤立してはいない。教師から見れば扱いやすく、同級生から見れば少し落ち着いた少年。

 その程度の少年として、湊は生きている。

 篤胤は、それを誇らしく思った。

 特別でないことを誇るというのは、奇妙な感覚かもしれない。

 けれど、過剰な意味を背負わされずにいることは、それだけでひとつの平穏だった。誰かの期待に先回りされず、誰かの都合で場所を決められず、ただ自分の足で進むことができる。

 湊は、そのまま育った。

 その事実が、篤胤には救いであり、同時に寂しさでもあった。


 次の頁には、家庭環境に関する所見があった。

 篤胤は、そこへ目を落とした時、自分でも分かるほど読む速度が遅くなった。

 悠木宗一郎、悠木椿子夫妻による養育継続。家庭内での生活状況は安定。本人は養子であることを認識しているが、現在の父母との関係に大きな支障なし。

 篤胤は、そこでは止まらなかった。

 さらに下の行を読む。

 家庭内呼称に不自然な点なし。宗一郎氏を「父さん」、椿子氏を「母さん」と呼称。学校関係者への説明に矛盾なし。

 そこで、篤胤の目が止まった。

 父さん。

 母さん。

 報告書の中では、括弧に入ったただの呼称だった。

 だが、その二つの言葉は、どの成績よりも、どの所見よりも、篤胤の内側に深く触れた。

 湊は、悠木家の子として育った。

 それは方針ではない。手続きでもない。書類上の養親子関係でもない。毎朝の挨拶があり、食事があり、叱られることがあり、心配されることがあり、進路の話をする夜があり、熱を出した時に起きていてくれる人がいる。その積み重ねの先に、父さん、母さん、という呼び方がある。

 こちら側は、その時間の外にいた。

 事情はいくらでも並べられる。湊の安全、あの事故の後に残された混乱、静かに育てるべきだという判断。どれも嘘ではない。

 けれど、湊が呼んでいる父と母は、悠木宗一郎と悠木椿子だった。

 その事実だけは、どんな事情よりも強い。

 篤胤は、紙面から目を離した。


 暖炉の火が、小さく崩れた。炭の奥で赤い光が揺れ、すぐに落ち着く。書斎の時計は、相変わらず控えめに時を刻んでいた。

 机上には、報告書が開かれている。

 そこに記されているのは、家の都合で意味づけられるべき存在ではない。

 悠木湊という少年だった。

 篤胤は、もう一度、同じ箇所を読んだ。

 家庭内呼称に不自然な点なし。

 その文言を、ありがたいと思った。

 けれど、ありがたいと思うほど、紙面の白さが目についた。

 宗一郎と椿子は、湊を誰かの代わりに育てたのではない。少なくとも、そうであってはならなかった。彼らは、彼らの子として湊を育てた。どこかからの視線があることを知りながら、それでも日々の生活を管理のための生活にはしなかった。

 それが、湊を守った。

 そして、その距離を強いたのもまた、こちら側だった。


 篤胤は、次の頁をめくった。

 備考欄は短かった。

 本人に特記事項の認識なし。

 学園側への特別通達なし。

 徳川家または関係財団名義による推薦・便宜供与の記録なし。

 篤胤の指が、紙の端で止まった。

 その三行は、方針の確認だった。

 何度も決められ、何度も守られてきた線である。湊には知らせない。東都院にも知らせない。誰かが先回りして席を用意することもない。教師が特別に扱うこともない。生徒たちが余計な名に反応することもない。

 そうでなければならない。

 篤胤は、心の中でその言葉を繰り返した。

 けれど、先ほどより少しだけ、言葉の重みが変わっていた。

 湊を守るための線であると同時に、湊から遠ざかるための線でもあった。

 学園側への特別通達なし。

 その行を見て、篤胤は安堵した。

 これでよい。

 湊は、悠木湊として東都院に入る。一般受験で合格した一人の生徒として、あの美しく息苦しい学園の門をくぐる。

 そのほうがいい。

 そうでなければ、あの少年はすぐに誰かの意味へ変えられてしまう。

 だが、同じ行を見ているうちに、安堵だけでは済まなくなった。

 知られていない、ということは、守られているということだ。

 同時に、名乗れないということでもある。


 篤胤は、報告書から手を離した。

 紙は、机の上で静かに戻った。何事もなかったように、整った文字だけが残る。

 悠木湊に関する報告。

 そこには、少年のすべてが書かれているわけではない。

 むしろ、ほとんど何も書かれていないのかもしれなかった。朝、どんな顔で起きるのか。食卓で何を残すのか。椿子に叱られる時、どんな返事をするのか。宗一郎と進路の話をする時、どこで黙るのか。弓道場で弓を引く前に、どんな呼吸をするのか。

 そういうことは、報告書には載らない。

 それでも篤胤は、その白い余白の向こうに、会ったことのない少年の輪郭を探していた。

 探してはいけない、とも思った。

 それは、悠木家の時間である。

 こちら側が、後から取り戻してよいものではない。


 篤胤は、ゆっくりと目を閉じた。

 時計の音が、一つ進んだ。

 再び目を開けた時、篤胤の表情は、ほとんど元に戻っていた。

 報告書はまだ終わっていない。

 東都院という名の重さも、この紙面の先にある。家としての方針も、確認しなければならない事項は残っている。

 だが今は、机上の一行が篤胤を留めていた。

 学園側への特別通達なし。

 それは安堵だった。

 そして、その安堵は、最後まで軽くならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ