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東都院物語  作者: 橘鉄真
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プロローグ1

 書斎の時計は、音を立てすぎないように作られていた。

 古い置時計である。文字盤の縁には細かな傷があり、磨かれた真鍮の光も、いくらか柔らかくくすんでいる。けれど針の進みは正確で、時刻を告げる小さな音だけが、夜の書斎に規則正しく落ちていた。

 徳川篤胤は、その音を聞きながら、机上の文書に目を通していた。


 広い書斎だった。だが、広さを見せるための部屋ではない。壁には古い書棚が並び、革装の書物と和綴じの冊子が、過不足なく収まっている。床の絨毯は厚く、革靴の音さえ部屋の中で柔らかく沈んだ。暖炉には火が入っていたが、炎は大きくない。部屋を華やかに照らすためではなく、冷えを遠ざけるための火だった。

 机の上には、処理すべき書類がいくつか置かれていた。

 財団関係の報告。文化事業の収支。旧家同士の調整に関わる挨拶状の控え。どれも徳川家にとっては珍しいものではない。表に出るほど大きな案件ではなく、かといって粗末に扱ってよいものでもない。そうした小さな紙の束が、この家の日々を形作っていた。

 篤胤は、一枚を読み終えると、右手側に置いた薄い箱へ静かに収めた。

 その動きには、年齢相応の遅さがあった。しかし、迷いはなかった。筆を取る時も、印を押す時も、書類を伏せる時も、余計な音を立てない。若いころから身についた所作というより、長く静かな場に身を置いてきた者の癖だった。

 扉の外で、控えめな気配が止まった。

 篤胤は顔を上げなかった。


「入りなさい」


 間を置いて、扉が開いた。

 入ってきたのは、徳川家の実務を長く扱っている男だった。家令という古い呼び方は、今の世ではあまり用いられない。だが、家の内側の書類、財団との連絡、外部の代理人から上がる報告を整理する者として、彼は長くこの家に仕えていた。

 背広は地味で、靴音も柔らかいが、密偵めいた影はない。秘密を好むのではなく、余計な目立ち方を避けているのだった。

 男は机の手前で足を止め、一礼した。


「夜分に失礼いたします」

「構わない」


 篤胤は、そこで初めて顔を上げた。

 男の手には、一通の封筒があった。

 白ではない。わずかに灰を含んだ厚手の紙で、表に余計な装飾はない。封緘は簡素で、差出を示す印も控えめだった。外から見れば、財団の内部文書か、旧家間の確認書類にしか見えないだろう。

 けれど、男がそれを両手で差し出した時、書斎の空気はわずかに変わった。


「こちらを」


 篤胤はすぐには受け取らなかった。

 机上に残っていた別件の文書をそろえ、角を合わせ、箱の中へ収める。それから、ゆっくりと手を伸ばした。

 封筒は、見た目より少し重かった。

 中に何枚入っているか、手の感覚だけでは分からない。ただ、紙一枚の通知ではないことは確かだった。形式上は報告書。そう分類してしまえば、それ以上の意味を持たない。

 篤胤は、封筒の表へ目を落とした。

 そこには、整った文字で一行だけ記されていた。


 ――悠木湊に関する報告。


 針の音が、一つ進んだ。

 篤胤の指が、封緘の手前で止まった。

 悠木、という姓を見た時よりも、湊、という名を見た時のほうが、胸の奥に沈むものは深かった。

 徳川の名は、そこにはない。

 それでよい、と決めたのはこの家だった。そうでなければならない、と押し通したのも、この家だった。湊は悠木家の子として育つ。静かに、ただ普通の少年として日々を重ねさせる。

 その方針は、間違いではなかった。

 けれど、間違っていないことと、胸が痛まないことは別だった。

 封筒の紙面に置いた指先が、わずかに沈んだ。押しつけたつもりはない。ただ、力が抜けるまでに一拍遅れた。

 男は、篤胤を急かさなかった。

 徳川家では、沈黙にも扱い方がある。答えを待つ沈黙と、立ち入ってはならない沈黙は、似ているようで違う。男は後者を知っていた。だから、ただ姿勢を正し、視線を封筒から少し外して控えていた。


「確認は」


 篤胤が、封筒から目を離さずに言った。


「済んでおります」


 男の答えは短かった。

 篤胤は、封緘にかけた指を動かさないまま、続きを待った。


「悠木湊氏の、私立東都院学園高等部への合格が確認されました。一般受験によるものです」


 東都院。

 その名は、ただの学校名ではなかった。

 篤胤は、あの学園の学校案内に並ぶ言葉を知っている。

 学識。節度。公共精神。国際感覚。

 どれも嘘ではない。実際、東都院はよく整えられた学校だった。校舎も、人も、行事も、言葉遣いも。目に見えるものの多くは、美しく管理されている。

 ただ、それだけで済む場所でもなかった。

 誰と親しくなるか。誰の隣に立つか。誰の名を、誰が最初に覚えるか。そうした小さなことが、東都院では時に小さなまま終わらない。

 湊がそこへ進む。

 一般受験で。

 その事実は、誇らしかった。

 紹介を頼んだわけではない。特別な扱いを求めたわけでもない。悠木家の子として勉学を重ね、自分の力で門をくぐるところまで来た。

 篤胤は、それを喜びたかった。

 ただ、あの少年が健やかに育ったことを、静かに喜べたなら、それでよかった。誰の前でもなく、この書斎の中でだけ、よくやったと口にできたなら。

 しかし、篤胤の唇は動かなかった。

 徳川家の方針は、篤胤個人の喜びよりも冷たい。

 名を出さない。

 近づきすぎない。

 それでも、見捨てたことにはしない。

 この家は、そういう曖昧な距離を選んだ。


「学園側には」

「特段の通達は出ておりません」


 男は、篤胤の問いを最後まで聞かずとも理解していた。


「悠木家からも、通常の入学手続きとして処理されています。徳川家との関係を示すものはございません」

「宗一郎君は」

「慎重に動いておられます」


 その言葉に、篤胤は小さく目を伏せた。

 悠木宗一郎。

 その名にも、篤胤は負い目を持っていた。あの男は、湊の手を取った。誰かに命じられたからではなく、自分の意思でそうしたのだろう。

 だが、宗一郎がどれほど言葉を選び、どれほど多くを湊に伏せてきたかを、篤胤は知っている。

 宗一郎は、賢い男だった。

 こちらの意図を理解しながら、湊をこちらへ近づけすぎなかった。何を伝え、何を伏せるかを選び、余計な重みを背負わせないようにした。その慎重さに、篤胤は感謝し、同じだけ負い目を覚えていた。

 想像できるだけで、償いにはならない。

 篤胤は、浅く息を吐いた。

 笑みにはならなかった。安堵とも、ため息ともつかない、ごく短い呼吸だった。暖炉の火が小さく揺れ、封筒の端に薄い影が差した。


「御当主は、この件を」

「概要のみ、先にお届けしております」


 男は答えた。


「詳細は、篤胤様のご確認後に整理する手筈となっております」

「そうか」


 篤胤は、それ以上を問わなかった。

 御当主の考えは、聞かずとも分かる。東都院への進学は、喜ばしい報告であると同時に、警戒すべき変化でもある。湊が優秀であればあるほど、誰かの目に留まる。落ち着いた外部生として評価されれば、なおさらだ。


 東都院は、優秀な子をただ褒めて終わる場所ではない。

 だからこそ、篤胤は封筒を開ける前に、少しだけ時間を置いた。

 湊がその中で、悠木湊として立てるか。

 それとも、本人の知らないところで、伏せてきたものが揺らぐのか。

 封筒は、机の中央に置かれていた。

 開けるだけなら、すぐにできた。封緘を切り、紙を取り出し、報告の冒頭から順に目を通す。それはいつもの仕事と同じである。

 けれど、この一通だけは、ただの仕事ではなかった。

 報告書の向こうにいる少年は、ここには来ない。

 この書斎の空気を知らない。磨かれた机も、古い時計も、封筒を前に黙り込む老人の顔も知らない。自分の知らないところで、いくつかの名前が伏せられてきたことも知らない。

 それでいい。

 そうでなければならない。

 篤胤は、心の中でそう繰り返した。

 だが、その言葉は、喜びを消してはくれなかった。心配も、罪悪感も、きれいには分けられなかった。


「下がってよい」


 男は一礼した。


「何かございましたら、お呼びください」

「ああ」


 扉が静かに閉じた。

 書斎には、時計の音と、暖炉の小さな音だけが残った。

 篤胤はしばらく、封筒を見ていた。

 それから、机の引き出しを開け、細いペーパーナイフを取り出した。古い銀製で、柄の部分にわずかな摩耗がある。何十年も前からこの机にあるものだった。

 刃を封緘の下へ差し入れる。

 紙が裂ける音は、ごく小さかった。

 篤胤は中の書類を取り出し、最初の一枚を机上に置いた。

 表題は、封筒と同じだった。

 悠木湊に関する報告。

 その下に、整理された文字が続いている。

 篤胤は一度だけ瞬きをし、最初の行へ目を落とした。


 ――私立東都院学園高等部入学試験において、悠木湊氏の合格を確認。

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