第八十九話 忠実なる家族➀
「基礎だよ。基礎――」
マンナズはそう言うとルピナの周りをぐるぐると歩き始める。
ルピナは何とか手錠を外そうとするが、その強固な銀の鎖がなかなか切れない。
マンナズはニヤニヤしながらルピナに言った。
「メンタルフォースだよ。今回は特に初歩の。僕が直前に厭味ったらしく髪をいじって見せることで、君は僕の髪を掴んで引き抜いてやりたいと思った」
ルピナは皮肉の効いた丁寧な解説に閉口する。
「いや、心の奥、僅かな部分でそう思ったんだ。そしてミスディレクション。僕のパンチがすかしてしまったことで警戒心を解き、つんのめってそちらへ意識を向かせる。最後に君が僕の髪を掴んだところで手錠を駆ければ完成さ」
「そんなことは聞いてない。不愉快だ」
マンナズはルピナのその言葉を聞いて満足したようで、またニコリと笑った。
「それが聞きたかった。僕はマジックが好きなんじゃない。人の一歩上を行くのが好きなんだ」
マンナズはそう言うと思い切り力を込めてルピナの鳩尾へ蹴りを入れる。
その蹴りは最初のパンチが嘘だったかのように強烈だった。
「ガフッ」
ルピナが苦痛に顔を歪ませる。
唇を噛んでいた傷は獣人の治癒力で大方治ったが、右手の傷はまだまだ治っていない。
さらに蹴られたことで口からも血を流してしまう。
「そろそろ多量出血か?」
「まだくたばんねぇよ。詐欺師オオカミ――!!」
「ノンノン……俺、ホッキョクオオカミの能力は寒さに耐える力。このアビリティの所為で、仕事の時は頭を使わないといけないんだ。こうやってね」
そう言うとマンナズが右手の爪を伸ばして、ルピナの左手に切り傷をつける。
傷からはさらに血が流れ始めた。
「ホッキョクオオカミの獣人、獣化もできないんだぜ?笑えるよな。あ、どう?もうちょいで死ぬか?」
ルピナは貧血によりまた意識が朦朧としだしたが、歯を食いしばって何かを決めた。
「クソッ。カシムまで取っとこうと思ったが、ここで使うしかねぇな。後は頼んだぜ、クリス……獣化!」
ルピナは腕に力を入れ始める。
それは戦闘開始の合図だった。
腕の傷が治っていき、さらに上半身に銀色の毛が生え始める。
顔も段々と狼の顔になり、尻尾も太く、長くなっていく。
手錠は太くなっていく腕に耐えきれず、バチンという音を立てて砕け散った。
ルピナのシャツが張り裂け、獣となった上半身が露わになる。
「おっとこれは想定外。銀の手錠って万能じゃないのね」
マンナズはそう言うと後ずさりした。
そしてルピナが告げる。
「おじさんは、この人殺しのための能力を絶対に使わなかったが……俺は使わせてもらうよ」
獣化したルピナの迫力を前に、マンナズは一歩も動けなかった。
「ハティの能力は、ハイイロオオカミの獣人のような人狼化の能力と、吸血族の血統による……何よりも速い、素早さだ」
ルピナの左手から神速の一撃が放たれ、マンナズのすぐ近くを掠めた。
マンナズを途轍もない風圧が襲い、近くの床が抉れる。
「あぁ。貧血でね。なかなか照準が定まらないんだ」
ルピナはそう言うと二発目の振りを左手で構えた。
マンナズは急いで保管庫の棚に隠れる。
貧血状態の吸血族且つ獣化。
しかもハイイロオオカミ種の上位能力持ちというルピナは、ギラギラとした目を輝かせてマンナズを探していた。
「出てこい!ここまで俺にやったこと全部覚えてるからな!全部味わわせてやる」
マンナズは本棚の陰に隠れて頭をフル回転させた。
「あぁ、あれはやべぇ。ゼリク様が一族を消すはずだ。強すぎる。どうにかしなきゃまずいぞ」
しかしマンナズの犬耳と尾は垂れ下がり、完全に恐怖で支配されている。
ルピナがどこか遠くの本棚をなぎ倒すと、辺りに凄まじい音が響いた。
♢
マンナズは元々孤児院出身である。
クリスやロランと同じようにそこで幼少期を過ごし、引き取られることなく育ってきた。
しかし、彼が過ごした孤児院は、クリス達のものとは大きく異なった孤児院だった。
「おい!お前ら並べ!残ってんのを食え」
大柄な吸血族がマンナズの首を掴んで寸胴鍋の近くに投げる。
マンナズが調理テントの元へ投げ飛ばされた後、数人の獣人族が同じように無理やり連れてこさせられた。
子供たちは地面に座り、自分たちの前に鍋が来るのを待つ。
ここは炭鉱のすぐ近く、大きく口を開けた坑道のすぐ側だった。
「マンナズ君。大丈夫?」
マンナズの隣に座る少女が言う。
鍋の中には様々な残飯が混ぜられ、スープのようになった食べ物が入っていた。
マンナズは無言で頷き、冷め切った残飯を手ですくって口に運ぶ。
恐らく吸血族が嫌がらせで土か何かを入れたのだろう。じゃりじゃりとした口触りが不快感を煽った。
獣人族によって掘削が進められている炭鉱では、親を事故で亡くした子供達はすべてここへ連れてこられていた。
――マンナズもその一人。
両親の顔など覚えていないし、ましてや孤児院という地獄の外すら見たことがない。
マンナズにとってのこの世界は、吸血族に虐げられるだけの苦痛に満ちた世界だった。
そんなある日、炭坑を視察しに、一人の技術者が孤児院を訪ねることとなる。
照った日差しの中、マンナズが井戸で労働者の服を洗っていると、背後から声をかけられた。
「君、その量の服を一人で洗っているのか?」
男は赤い目に片眼鏡、真っ黒なスーツと炭鉱には似合わぬ姿をしている。
「はい」
マンナズが答えた。
「いやいや、無理だろう。君のその小さな手では効率が悪い。君はこの仕事を辞め、他の大人に変わりたまえ」
男がそう言って立ち去ろうとしたが、マンナズはそれに物怖じすることなく答える。
「いえ、支配者層の人達は、いつも僕に終わらない仕事を押し付け、罰として僕を殴っているんです。ストレス解消にね……だから無理です」
マンナズが手を止めず、こちらも見ずに言ったのを見て、男は鉱夫に比べてひ弱そうな自分を舐めているのだろうと思った。
彼は背を向けたまま、意地悪そうな笑みを浮かべてマンナズに言う。
「ほう。生意気なクソガキだ。吸血族である僕が君を殴るとは一ミリも思わなかったのかな?」
マンナズはそれでも男を見ずに言った。
「恐らくあなたは今日視察に来た技術者の方でしょう。その綺麗なスーツに血が付くようなことはしないだろうと思って発言しました。それに、職人として手が大切であろう貴方が、そんな簡単に私を殴るわけがない。これだけじゃ不十分です?それと僕はマンナズです。クソガキじゃない」
男はこれだけ利口な奴隷の子供がいることに驚いた。
それに彼が考えていることは全て当たっている。
「素晴らしい。君は非常に頭が良いのだな。君はもっとその才能を役に立たせるべきだ!僕はカシム。よろしく」
カシムは振り向いて、笑顔で言った。
一方マンナズは、怪しげな吸血鬼の男が、先ほどまでとは打って変わって、自分へ友好的な態度をとったことに警戒する。
しかし、今まで人として扱われてこなかった彼にとって、自分に対して使われた才能という言葉は、大きな興味を示す理由として十分なものだった。
「僕に才能があると?」
マンナズはやっとカシムの方を向いて聞いた。
カシムはニコニコとしてそれに答える。
「あるよ。でも、人生で才能を持っていても、その人生の内で生かしきれない人々は大量にいる」
カシムは躊躇せず地面に座るマンナズの隣へ腰かけ、そのまま続けた。
「しかし、僕はそんな彼等にも平等なチャンスがあると思う。そのチャンスを掴めるかどうかの差は、執念だよ。自分で一歩を踏み出せる奴さ。それも大きな一歩。ただの一歩じゃないぞ。それ以外は雑魚だ。少なくとも僕の眼中には無い」
カシムは身振り手振りを使ってマンナズに語りかける。
マンナズはカシムの言っていることがよく分からなかったが、この熱く語る男が、自分がこの地獄から出て行くきっかけとなるのではないかと薄々感じていた。
「執念は大きなエネルギーの塊だ。それが他人に増減させられるようじゃダメ。おそらく君は今すぐそれをコントロールできるわけじゃないだろう。しかし、今日、君の大きな一歩目を踏み出さないか?僕が協力してやろう。ただし実際に踏み出すのは君だけどね」
その夜、マンナズは吸血族の監視三人、全員の寝首を搔いて孤児院を出た。
そして孤児院の外で一人の男と合流する。
「どうだ?良い一歩を踏み出せたか?これからは君の好きなことをすると良い。少し僕の研究や仕事に協力してくれれば、君を全力でバックアップしてあげよう」
カシムがそう言ってマンナズの手を握った。
少年は白い耳をピクつかせながら言う。
「はい。このマンナズが……あなたの右腕になりましょう」
一つも星の出ていない、暗い夜の出来事だった。




