6:皇太子の想い
皇太子アビエルの独白です。
アビエルは、自分がこれほどまでに被虐的な性質を持っているとは思っていなかった。
夕食後、いつものようにレオノーラと共に自室へ戻る際、彼女から胸当ての素材についてアドバイスを求められた。彼女がそれを身につけた姿を想像すると、見たいという欲求が抑えられず、つい『見せてもらえないか』と口にしてしまったのだ。
レオノーラが一瞬躊躇したため、アビエルは自分が『服を脱げ』と命じているように感じられたことに気づき、慌てて『背後からでも』と付け加え、あくまで素材の確認という意味を持たせようとした。
レオノーラが白い陶器のようなうなじと美しい背中を見せた時、アビエルの中で何かが熱く滾り始めた。彼女の右の脇腹に赤く擦れた部分を見つけ、胸に痛みを感じ、思わず指でその部分に触れてしまった。
目の前で首筋にうっすらと赤みが差すその姿を目にした途端、後ろから彼女を抱きしめてその首筋に唇を押し付けたいという強烈な衝動が湧き上がった。拳を何度か握ったり開いたりしながら、必死に距離を取り、なんとか理性を保った。
・・・・・・・
アビエルが初めてレオノーラに出会ったのは、自分よりも小さな少年が器用に馬を操る姿を目にした日だった。その少年が見せた驚くべき技術に感心しつつも、生来の負けず嫌いが顔を覗かせた。
アビエルが7歳から馬術を鍛錬することを周囲は「さすが皇太子様」と称賛した。彼はいつも、未来の頂点に立つ者として、誰よりも秀でたいと願っていた。そして、周囲からはそうあるべきと期待もあった。
しかし、その少年はただ馬の上に座っているだけでなく、まるで馬の背から生えているように、自在に馬を操っていた。さらに驚いたのは、厩舎の柱を使ってヒョイと馬から降りる姿や、大人たちに助けを求めることなく作業をこなす姿だった。
馬に水を飲ませるために小さな水桶を使い、ブラシをかける際にはハシゴと台を組み合わせて高さを調整する姿を見て、アビエルは思わず『凄いな』と素直に感嘆した。そして、その少年をもっと知りたいという気持ちが沸いた。
『馬の手入れをしたい』と声をかけると、その少年は応えるように笑顔を向けてきた。その瞬間、アビエルはその少年がまるで神話の絵本に登場する妖精や天使のように美しいことに気づいた。
その少年、レオの切れ長の目は、長く黒いまつ毛で縁取られ、その奥には磨かれた黒曜石のような瞳が輝いていた。スッと通った小さな鼻筋、血を吸ったかのような瑞々しい赤い唇、そして艶やかな黒髪。汗で張り付くその髪を無造作に掻き上げる姿に、子どもながらもゾクッとした感覚を覚えた。
レッスンの後、ローズガーデンで母とお茶を飲んでいる時、レオの話題が自然と出た。
「噂通り、驚くほど美しい子でしたわねぇ」「本当に!」と、侍女たちがため息混じりに言った。
「以前、入ったばかりの庭師に誘拐されかけたという話がありましたわね。どうやらその男には、子ども相手に良からぬ趣味があったそうで 」
口元を扇子で隠しながら侍女の1人が”ここだけの話”とでも言うように声のトーンを落とす。
「まあ、恐ろしい話。皇太子の前ですから、あまりに恐ろしいことはお話にならないで。とはいえ、あの美しい容姿では仕方がないのかしらね。私も思わず見惚れてしまったわ 」
皇后である母がそう言いながら、アビエルに小さなサンドイッチを勧めた。
「ガイアスは、あの子が危ない目に遭わないように、自分で自分を守れるよう、ずいぶんと厳しくしつけたようです。咄嗟の時には行動が伴うようにと。何でも、危険から逃れるには馬に乗るのが一番だと、小さい頃から馬に1人で乗るよう訓練したそうですよ 」
侍女たちは感心し「まぁ、あんな幼いのに」「自分の身を自分で守るとは、すごいですわね」と口々に言った。
「ねぇ、アビエル。貴族であっても、人に何かをしてもらうばかりではいけないわ。それでは自分で考え、動く力を失ってしまう。考えられる人であることはとても大事なのよ。聡いあなたには、きっとよくわかっていると思うのだけれど 」
そう言って母は微笑んだ。
「だからこそ、皇后陛下は王宮学院や教会での教育改革に取り組んでおられるのですね 」侍女の一人がそう言うと、皇后は頷いた。
「ええ、その通りよ。国にとって最も大切な財産は国民です。かつてのように力で国民を統治する時代はもう終わりました。優秀な国民が作る国益こそが、国の繁栄につながるのです」
皇后である母、ジュヌビエーヌは三大公爵家の一つ、ラモラック家の長女であり、ガウェインの父である現当主アーノルド宰相の姉だ。
語学に秀で、多才であったことから、先代公爵である父は彼女を溺愛し、将来の後継者にとまで望んだ。しかし、その才と美貌が目を引き、前皇帝に皇太子の婚約者として望まれたのだった。
ジュヌビエーヌは、父の膝の上で領民を守る方法や領土を豊かにする方法を聞いて育った。幼い彼女は、いつか領主となって自分の手で領土を豊かにしたいという夢を抱いていた。だからこそ、そんな自分が皇后になれば国民や帝国の国益のために力を発揮できると信じていたのだ。
しかし、「領主」としての権限とは異なり、皇帝の「妻」としての立場では思うように国政に関与することは叶わなかった。そのため、自分が采配を振るうことができる王宮学院や教会、孤児院の運営に殊更に力を注いだ。彼女は、この場所で育つ子どもたちが、帝国の未来を担うと信じていた。
「母上、これからの馬上鍛錬ですが、その子と一緒に受けることはできないでしょうか?」
アビエルは、母に願い出た。
「私よりも幼いその子が、工夫を凝らして、自分のできることを見つけている姿に実に感心しました。ぜひ、仲良くしてみたいのです 」
侍女たちは「まあぁぁ、さすが殿下、素晴らしい心がけですわ」と褒めそやした。
「そうね。同じ年頃の子と触れ合うのは、あなたにとっても良い経験でしょう。しっかりした子どものようですし、私からガイアスにお願いしておきましょう 」
こうして、ここからアビエルはレオノーラと共に過ごすことになった。
レオノーラは天才だ、とアビエルは思う。馬術や馬上戦闘術は言うまでもなく、剣術や体術においても、その習得は異常なほど速い。彼女は、自身の足りない部分をどう補うか常に考え、次に繋げる努力を惜しまなかった。その学ぶ姿勢は、勉学においても遺憾なく発揮されていた。
皇太子である自分は、学院に来るまでの間、家庭教師について学んできた。できて当然のことが多い。しかし、彼女は自分より二歳も年下であり、入学試験のための学習と入学までの事前学習以外に、特に学ぶ機会を与えられていなかった。それにもかかわらず、彼女は学院での授業を自分と同じクラスで受け、しかも試験では上位を争ってくるのだ。
そんな彼女に「優秀ですね」と言われると、彼女を知らなければ嫌味に感じただろう。しかし、彼女を良く知っているアビエルは逆に奮起し、負けまいと必死にならざるを得なかった。彼女が自分の側にいることは、とてつもない幸運であり、それはいつしか「誰にも奪われるものか」という思いへと変わり、そして、彼女は「何者にも変え難い美しく気高い一人の女性」として、アビエルの中で特別な存在となっていった。
アビエルが王宮学院への入学を望んだ理由は、この場所がいずれこの国を統べる時の人脈作りに役立つということ以上に、帝都を離れ、もっとレオノーラと過ごしたいという気持ちがあったからだ。
彼女と身分にとらわれない形で向き合いたいと心から望んでいた。
従者としてレオノーラを指名した時、宰相たちや母である皇后、そしてガイアスも大反対をした。
皇后には、平民で女であるという理由だけでその才能を埋もれさせてしまうのは、国にとっての損失ではないかと進言した。
宰相たちには、三大公爵家のバランスを取るため、ガウェインとアルフレッドも同行させることにし、学院卒業後にはレオノーラをフロレンティア皇太子妃の護衛につけることを約束した。渋っていたグレゴール宰相も、娘のお気に入りが優秀な護衛になることで納得した。
もっとも大きな壁は、彼女の祖父ガイアスだった。
「殿下、不敬を承知で申し上げます。あのような姿をしておりますが、レオノーラは年頃の娘です。今までのご恩には感謝しておりますが、従者として学院へお連れするには不適でございましょう」
鍛錬の後、レオノーラがいないところで、ガイアスは冷たく辛辣に言った。彼の胸には、男に弄ばれ、自分の人生を呪って消えた娘の姿が焼き付いていた。祖父として、孫娘に同じ轍を踏ませたくないという思いは当然だった。
「学院で学ぶことは、あれにとって大変な恩恵でしょう。しかし、このような過分な賜りは勘違いを生みます。過ぎたるものは身を滅ぼすのです」
ガイアスは、普段の様子から、アビエルがレオノーラに特別な感情を抱いていることを感じ取っていた。普段、男のような格好をしているが、孫娘が美貌と無垢な心の持ち主であることはわかっている。美丈夫であり、主君である皇太子が彼女に惹かれたなら、孫娘は抗いようがないだろう。
宰相たちは、仮に間違いが起こり、学院で何かあったとしても、せいぜい『房事の授業の実践』として済ませるに違いない。仮にレオノーラが皇太子の子を宿したとしても、どうにでもなると考えている。だからこそ、あの程度の妥協で済んだのだ。
ガイアスにとって、レオノーラは唯一の家族だ。亡き妻が死に際に泣いて頼んだ娘のことを、結局幸せにしてやれなかった。だからこそ、孫娘が不幸になることを許すわけにはいかなかった。
「ガイアス、あなたが思っていることはよくわかっている。だからこそ、祖父であるあなたに、きちんと許しを得たい。決して彼女が不利益を被るようにはしない。私の命にかけて誓おう。どうか信じてくれないか?」
アビエルのその言葉に、ガイアスは顎を引き締め、返事をせずに黙り込んだ。
「レオノーラが優秀であることは、あなたもわかっているだろう?このままここで馬の世話をして一生を終えるのは、あまりに惜しいと思うのだ。大きな学びを得れば、その才能は大きく開花する。私は主君として、何より友として、その才能を埋もれさせたくないのだ。どうか、理解してほしい 」
「たとえ、あの子が優秀な才を持っていたとしても、汚されてしまってはどうにもなりません。ただでさえ女であることは、どうしようもなく生き難い時があるのです 」
ガイアスは遠回しな表現を止め、直接釘を刺した。
「それならば、穏やかに何事もなく人生を終える方が幸せではないでしょうか。あの子の才を認めてくださることはありがたいことです。しかし、これ以上は、ご容赦願いたいのです 」
皇太子の命に反すれば、不敬罪になる。しかも、ガイアスは、皇太子が自分の孫に手を出す不届き者だと言っているのだ。人払いをして侍従がいないとはいえ、命懸けの嘆願だった。
その思いにアビエルは真摯に向き合おうと、言葉を選び、慎重に応えた。
「私は、彼女を傷つけるつもりはないよ、ガイアス。ただ、大事に思っているだけだ 」
「殿下はまだお若い。どれほど理性的であろうとしても、ご自身の知らない感情が内にあります。それは孫娘も同じです。危うい未来があるかもしれぬのに、了承は致しかねます 」
ガイアスは厳しい表情を崩さず、アビエルに言い募った。アビエルにはガイアスの言いたいことは十分に理解できていた。
しかし、それでも、レオノーラとともに学院で学びたい、彼女に学びを得る機会を作りたいという思いを消すことはできなかった。
「ガイアス、あなたは、彼女が自分の身を守れるように育てたのだろう? 危険な目に遭ったとしても、それを自分で回避できる力を身につけさせてきたのではないのか?私は、皇太子の命として無理強いをしたいわけではないのだ。どうだろう、彼女の意思を聞いてやってくれないか。今、あなたが抱えている不安についてそのまま話してもらっても良いと思う。それで彼女が行きたくないと言うなら、無理に連れて行きはしない 」
ここまで言われては、ガイアスも断り続けることはできなかった。
その夜、夕飯の席で、ガイアスはレオノーラに王宮学院へ行くことについてどう思っているのかを聞いた。
「お祖父様。‥‥とても贅沢なことだとわかっています。でも、いつも私の中にはもっと多くを知りたい、学びたいという思いがありました。もしお許しいただけるなら、王宮学院でできる限りの学びを得たいのです 」
レオノーラは食事の手を止め、祖父の目を真っ直ぐに見てそう言った。普段は何かを望むことの少ない孫娘が、強く言う姿に、ガイアスは折れた。
「私たちのような身分の者が、国の金を使って自分のために学びを得ることなど、本来なら許されることではないのだ。学んだことは、必ず将来、国のために、国民のために還元しなさい。いいね?」
そう言ってガイアスはレオノーラを送り出すことに決め、毎月必ず便りを出すこと、けして自分の立場を忘れないことを約束させた。
「殿下、過分なご厚情を賜り、感謝いたします。どうか、孫を従者として学院へお連れください 」
次の日、鍛錬場でガイアスはアビエルに頭を下げて言った。アビエルも頭を下げ「許してくれたことに心から感謝する」と答えた。
『手紙に皇太子の部屋が隣だと書かれていたら、ガイアスは、やっぱり信用ならんじゃないか!と憤慨しただろうか 』アビエルの口元にふっと笑いがこぼれた。
説得の手前、ガイアスにはかなり小綺麗な話をしたが、実際のところ、どうにかなりたい気持ちが溢れるほどあった。それでも、誓ったようにレオノーラを傷つけるつもりは毛頭ない。
自分が皇太子という身分にがんじがらめにされ、多大な権力があると言われながら、その実、何一つ自由ではないことはわかっている。好きな女性に「好きだ」と言うことも、自分のことを「好きか?」と尋ねることもできない。
「皇太子なんて、本当にクソみたいな身分だな 」
彼は小さく呟いた。
共に学院へ行くことが決まってから、入学までをどれほど待ちわびたことか。いつまた横槍が入るかわからず、周囲に隙を見せないよう心がけ、従者の三人に公平に接し、気を遣って準備を整えた。
本当は、入学前に家庭教師を雇えないレオノーラに、一緒に学ぶ時間を作ってやりたかった。新しい知識を得て喜ぶ彼女の姿を見ながら過ごすのは、どんなに楽しかっただろう。しかし、他の二人の手前、それが叶わず、寝る間を惜しんで勉強する彼女を見るたびに、自分の不甲斐なさにがっかりした。
入学後、レオノーラに自分を名前で呼ばせてみたり、彼女を特別な呼び名で呼んでみたりした。冷静になると、自分のやっていることに悶えてしまいそうだったが、色々な感情が溢れ出してもう止まらなかった。夜な夜な、夢に妖しい姿の彼女が現れるので、朝の鍛錬と称して現実の彼女を目に焼き付けておかないと、一日それに引きずられてしまいそうになる。
案の定、胸当てをつけた後ろ姿を見た日の夜は、レオノーラの白い首筋や肩に口づけを落としながら、ベッドで背中から彼女を組み敷く夢を見てしまい、目が覚めてため息をついた。毎朝、履いていた下着を下洗いすることにも、もうすっかり慣れてしまった。
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